『海原』No.71(2025/9/1発行)誌面より
シリーズ 十七文字の水脈を辿って 第8回
子へ残す沃土蛇刺す幾重にも
〜武田伸一の青春と俳句〜〈前編〉 齊藤しじみ
(一)序章
「海原」の句会では九〇歳の今なお一線の選者として活躍する武田伸一。「海程」の編集長の重責を終刊まで二三年の長きにわたり務めた金子兜太の最側近の一人だった。俳人としても四二歳で「海程賞」、六四歳で「現代俳句協会賞」の各賞を受賞した「海原」の誰もが知る重鎮である(写真1)。

私は「海程」元同人の京武久美(昭和一一年〜令和五年)が中高時代に親友の寺山修司(昭和一〇年〜五八年)と俳句をめぐって競い合った青春の軌跡について、かつて「海程」の誌上で一二回にわたり連載したことがある。その資料調べの中で昭和二〇年代後半の大学受験雑誌の高校生の俳句投稿欄に青森県の京武や寺山と肩を並べるように秋田県の「武田伸一」の名前をしばしば目にした。二人より一学年上の武田の原点も東北の少年俳人だった。武田にとって寺山は当時気になる存在だったようで、後にこんな俳句を詠んでいる。
煙茸寺山修司より訛る 伸一
句会では秋田訛りの優しい語り口に温厚な性格をそのままにじませる武田だが、今から五〇年余り前の三八歳の時、故郷の秋田から乳飲み子を抱えて親子五人で夜逃げ同然で上京したという伝説的な実話がある。そのせいでもないが、俳句の世界では日の目を浴びた中高年時代に比べると若き時代の姿はベールに包まれた感がある。今回、その時代の武田の半生の軌跡をたどってみた。
(二)能代という俳句の産土
武田の生まれ育った秋田県北部の能代市は出羽山地を東に望み、日本海に注ぐ米代川の河口流域に平野が広がる地である。戦前は秋田杉の一大集散地として木材加工業を中心に繁栄した街だった。今は四万八〇〇〇人ほどの県内でも中規模の地方都市だが、歴史的には俳句が盛んな地域だった。
その歴史を語るには秋田出身の俳人の石井露月に触れる必要がある(写真2)。露月は二〇歳の時に文学を志して上京し、正岡子規のもとで俳句の指導を受けた人物で、虚子、碧梧桐、紅録とともに「子規門下の四天王」の一人と称された人物だ。しかし、病気で志半ばに秋田に戻り、医師に転身したが、その露月の薫陶を受けた能代の実業家の島田五空(明治八年〜昭和三年)が明治三三年に子規命名の俳誌「俳星」を地元で発行した。「俳星」は子規の俳句革新の流れを汲んだ東北を代表する俳誌になり、数多くの俳人を輩出し、秋田俳壇の礎にもなった。休刊など盛衰はありつつも二〇一五年まで通算一一四〇号が発行され、一時は「ホトトギス」と並ぶ有数の歴史を誇る俳誌だった。

その能代で武田は昭和一〇年一月に指物師だった父の辰蔵と母のレイの長男として生まれた。父母に姉二人、妹二人、弟一人の八人家族で、奥羽線と五能線が接続する東能代駅前にあった平屋の家で暮らした。列車の汽笛や音を耳にしながら、蒸気機関車の煙の臭いを嗅ぎながら育った武田は国民学校五年生の時に終戦を迎えた(写真3)。
やがて東能代駅には進駐軍の陽気な兵士たちを乗せた列車の往来が頻繁になった。車中やホームの兵士から投げ与えられるガムやチョコレートそれに食べかけの缶詰などをねらって犬のように群がって奪い合った子供たちの中に武田もいたという。

(三)少年俳人の誕生
俳句との初めての出会いは東能代中学一年の時の国語の授業だった。授業で初めて作った句を武田は八〇年近く経った今も諳んじることができる。
雪舟の跡きれぎれに吹雪かな 伸一
武田の句を褒めた国語の山田顕一先生は山口誓子主宰の俳誌「天狼」に所属する俳人でもあった。山田先生の誘いで、武田は中学三年生の時からは地元の社会人の句会に通うようになった。
卒業後、県立能代南高校(現在の能代高校)に入学した武田は、高校に転勤していた山田先生に再び出会うことになった(写真4)。
武田は山田先生が顧問の文芸部に意気込んで入部したが、一〇数人いた部員の関心は詩や小説など多岐にわたり、俳句はその一つに過ぎなかったようだ。二年に進級した時には一学年下に後に「海程」同人で理論派として活躍する野呂田稔や孤高の俳人として知られる安井浩司らが入部してきた。ただし、在学中は彼らとは先輩後輩の関係にとどまり、校内で一緒に句会を開くことはなかった。
文芸部の活動で学んだことと言えば、山田先生から直接手ほどきを受けた雑誌の編集作業だった。文芸部が年に数回発行していた「松陵」という部誌の編集を任されたのだ。ここで身に付けた編集スキルは社会人になった後、鉄鋼会社での事務の仕事や「海程」の発行に大いに役立つことになるが、勿論そんな運命を知る由もない。
武田は高校でも社会人の句会に通い続けた。句会は伝統俳句など流派にはこだわらない自由な雰囲気で、最年少の出席者が武田だった。句会には能代出身の巽巨詠子(大正四年〜平成七年)が時折、姿を見せて指導にあたった。映画俳優だったこともある巨詠子は戦前の代用教員時代に「俳星」などで俳句を学び、当時は自らの俳誌を創刊したばかりの三〇代半ばの脂の乗り切った俳人だった。
(四)俳誌等への投稿
高校に入学した後、武田は北海道在住の俳人の細谷源二(明治三九年〜昭和四五年)が主宰の俳誌「氷原帯」への投句を始めた。細谷は戦前に新興俳句に絡んで投獄されたことで知られる俳人だった。戦後まもなく北海道に開拓民として入植したあと、旋盤工に転身し、昭和二四年に「氷原帯」を創刊していた。武田は開拓者の力強さや労働者を色濃く反映した細谷の句に魅力を感じ、誰の紹介も受けることなく一人で入会したという。
その「氷原帯」に武田の句が初めて掲載されたのは昭和二六年四月号である。おそらく一年生の三学期に投句したのだろう。
冬陽濃く炭骸あさる母子もろし
まなこ洗わんためか火夫雪見上ぐ
「氷原帯」に載った高校時代の武田の句はあわせて六四句。労働者に連帯意識を感じさせる句が目立ち、高校生らしい句はほとんどない。
鉄工がガム噛む野分に逆らいて
夜勤の敷居またぐ間より籾こぼる
職工よ寒いけど青い海へ行こう
ペンキ工汗をぬりたて宙進む
恍惚と雪嶺に向く土管たち
「氷原帯」の句風に次第に違和感を覚えるようになったという武田は、卒業とともに投稿に終止符を打ち、細谷にも生涯会うことは一度もなかった。
また、当時の大学受験生向けの月刊誌「学燈」や「蛍雪時代」の俳句欄にも武田は熱心に投稿を続けた。この二誌では当時、京武や寺山も入選作に入るかどうか鎬を削っていたが、中でも「学燈」での武田の活躍は目を見張るものがあった。
【昭和二七年四月号】で初めて一席。
雪嶺に見守られ歩幅大きくす
【昭和二七年一一月号】でも選者の石田波郷から一席に選ばれた。
泳ぎの餐岩陰にして心富む
この句についての波郷のコメントである。
若い身心からでないと生まれない溌剌たるうたごえである。そして適当な陰影もある
自宅で一人黙考しながらノートに句を認めるというのが武田のスタイルだった。京武や寺山が学内に俳句サークルを立ち上げて同人誌を発行したり、県内外で句会や俳句大会を開いたりしていたことと比較すると、その創作活動はあくまでも地道で孤独だった。
高校時代に自分の句を清書した当時の武田のノートを今も自宅に大切に保管している。「鬼の子」と言うタイトルが付けられ、およそ八〇〇句が掲載されている(写真5)。

ノートの中からいくつかの作品を拾い出した。「氷原帯」とは異なり、高校生活や身近な光景を題材にした青春俳句とも言える作品もある。
春日を捉へ車庫がいっぱいに光る
春の芝女のテニスやさしきか
流星や眼鏡を拭いて読み続く
七夕の太鼓ばりばり頬を打つ
夏の川浚渫船の底浅し
夏蝶の大きく飛べる更衣室
裏庭に柿の木太き我家暗し
大試験英訳を胸に誦しつつ
逢いにゆく雪をつかみてためらわず
武田が高校時代に作った句で最も好きな句は次の句だという。
台風の眼へ百姓が矢を放て
(五)京都での大学生活
武田が高校を卒業したのは昭和二八年三月。当時の大学進学率は全国平均でもまだ一〇%台前半の時代だった。武田は終戦後に土木・建築業を開業した父親から高校進学時には「家業を継ぐのだから」と工業高校を勧められ、大学進学にあたっては反対されたが、武田は地元の秋田大学と京都の立命館大学文学部の二校を受験し、いずれも合格した。親元を離れたかったことや京都へのあこがれから、立命館大学を選んだが、親の負担を考えて京都市内に住む叔母の家の六畳間に寄宿した。
武田は当時を振り返って自らを授業にはまじめに出席する学生だったと自負するが、学資を稼ぐために様々なアルバイトに手を出したという。その中には映画の撮影所でのエキストラもあった。最も思い出に残っているのは昭和二八年の松竹配給の映画「雲ながるる果てに」で、鶴田浩二や木村功などが出演した若き学徒航空兵の青春を描いた作品だった。武田は台詞こそなかったものの、出陣学徒の壮行会で太鼓を叩く応援団の学生役で銀幕の片隅を飾ったという。
また、当時の立命館大学は進歩的な民法学者で知られた末川博(明治二五年〜昭和四五年)が総長だった。話はやや脱線するが、武田が入学した年の一一月に「荒神橋事件」が起きた。東京大学が拒んだ戦没学生の記念像「わだつみ像」の受け入れを立命館大学が応じ、その歓迎集会に端を発した事件である。集会に合流を目指した京都大学の学生たちと警官隊が衝突して、橋から転落した学生たちに多数のけが人が出た。武田は集会参加の一人で、歓迎集会が急きょ抗議集会に変わったことが今でも記憶にあるという。大学が大衆化する前の時代にあっては、多くの学生がそうであったように、武田も反戦平和の思想の持ち主であり、そのことが社会性俳句への関心の伏線にもなったと言える。
(六)「青年俳句」への参加
武田が高校一年の時に上村忠郎という同級生がいた。上村は二年生の時に国鉄勤務の父親の転勤で青森県八戸市に引っ越して転校したので、その後の付き合いはなかった。上村は高校卒業した翌年の昭和二九年三月に「青年俳句」という俳誌を会社勤めの傍ら八戸市で創刊した。丁度同じ時期には高校卒業直前の寺山と京武が俳誌「牧羊神」を創刊した。いずれも全国の同世代の若い俳人に参加を呼びかけたもので、初期には京武や寺山など両誌に同人として名を連ねる者も多かった。「牧羊神」は芸術派、「青年俳句」は社会派というイメージがあったようだ。武田は「牧羊神」からも誘いを受けたが、大学二回生の時から「青年俳句」だけに作品を出し始めた(写真6)。

随筆家で俳人の楠本憲吉(大正一〇年〜昭和六三年)は、その誌上で武田を期待の持てる作家と評し、特に次の二句に共鳴したというコメントを寄せたこともある。
日覆巻く熱気のいまだ冷めざるを
台風来つつ長屋の裏にしづかな雨
(「青年俳句」(昭和三一年一二月発行)
また、京都には「青年俳句」の仲間で武田より二歳年下の広島県出身の大岡頌司というパン工場で働く勤労青年がいた。近所に住んでいた大岡は月に数回は武田を訪ねて来ては、部屋で夜更けまで俳句談義を重ねる間柄になっていた。
自転車の荷の綱御所と伸一訪う 頌司
大岡は京都には一年足らずで東京の菓子工場に転職したが、「青年俳句」(昭和三一年一二月発行)には上京の際に京都駅のホームに自分を見送りに来てくれた武田のことを感謝の気持ちを込めて綴っていた。
伸一さんの「急だったね……」と口ごもる二人の会話が、いつまでも生々しく私の胸から去らない。(中略)私は、別れにもらった包みを開いてみた。扉に
芽吹く一樹機関区給水塔濡れて聳つ 伸一
と染めた小さな冊子であった。
上京後の大岡は武田の高校の後輩の野呂田らと俳誌を創刊したり、安井や寺山らと親交を深めたりしながら創作を続けることになる。
(七)最愛の母の死
武田の母のレイは昭和三一年八月に子宮がんで亡くなった。まだ四九歳の若さだった。大学四回生の夏休みの時で、武田は帰省中だった。数年前から体調を崩して闘病生活を送っていたという。酒好きな父に比べて、母は思慮深く、食糧不足の戦時中は子どもたちのために畑を開墾した頼りになる存在だった。
母の死後、武田は俳句総合誌「俳句研究」に一〇句、「青年俳句」に二〇句、それぞれ母の病状や死を題材にした作品を相次いで発表した。そのうちの一部を紹介する。
【俳句研究】(昭和三一年一〇月号)
遠し癒えざる母頂のカンナ咲く
青柿の下馳せよ馳せ母に一目とも
梅雨ながき死近き母の秋田に入る
武田は三回生の夏休みの時に鹿児島出身の大学の先輩の実家を訪ねて、友人と車中泊や野宿をしながら九州旅行をした。鹿児島に着いた矢先に母の危篤の電報が届き、列車を乗り継いで秋田に戻ったという。その時、母は持ち直したというので、右記の句はその体験を詠んだのであろう。
【青年俳句】(昭和三一年一二月発行)
けだるき暑母の脈切れ息二つ
「嫁見るまで死なない」母の棺を打つ
亡母思う戦時甘藷蔓その他の食
(八)「合歓」と「寒雷」それに「風」
大学時代の武田は「青年俳句」のほかに、地元秋田の「合歓」(主宰 手代木啞々子)や「寒雷」(主宰 加藤楸邨)、「風」(編集・発行 沢木欣一)にもそれぞれ入会した。
このうち、「合歓」主宰の手代木(明治三七年〜昭和五七年)は都内の高等商業学校を卒業後に東京証券取引所などに勤めた後、戦後に妻と一緒に秋田の開拓地に入植し、酪農の傍ら俳誌「合歓」を発行した。後に武田の仲介で「海程」と深い縁ができる人物になる。
「合歓」では一回生の時初めて武田の作品が掲載された。
日焼の身を乳房残して砂もて覆う
寒き風鈴猫が瓦を鳴らして去る
霧の髪帽以てしてもなほ長し
(昭和二八年九・一〇月合併号)
「寒雷」では三回生の時初めて掲載された。
明日の試験通るや油手拭けば雪
職探す外套の前拡げ着て
(昭和三〇年五月号)
「風」では四回生の時初めて掲載された。
手拍ち歌い結婚祝賀シャツ涼し
(昭和三一年八月号)
また、話はやや脱線するが、「寒雷」の右記の号には、後にテレビ司会者とし大活躍する大橋巨泉(昭和九年〜平成二八年)の句もあった。
寒き銀河のあふぐに遠し死にゆく母 巨泉
巨泉はもともと俳号で、武田より一学年上の当時は早稲田大学の学生だった。東京・両国生まれの巨泉も中学時代からの俳句少年で、大学では俳句研究会のサークルに所属し、新入生歓迎句会で入学早々の寺山と論争したというエピソードがある。
黒人霊歌桶にはぽっかりもみ殻浮き 修司
この句について、巨泉は「寺山君は黒人霊歌をどれ程知っているのか」と質問したところ、寺山は「それでは大橋さんは東北のうす暗い厨房についてどのくらいご存じですか」と噛みついてきて論争になったという。
(九)兜太との出会い、そして決意
昭和二〇年代の「寒雷」と「風」では、兜太がすでに同人として活躍していた。兜太は武田が大学に入学した年の昭和二八年九月に日銀福島支店から神戸支店に転勤となり、同じ関西にいたことから二人の間に出会いの場が生まれる。武田は京都で定期的に開かれていた「寒雷」と「風」の句会にもそれぞれ足を運んでいた。このうち昭和三〇年の「風」の句会で武田は初めて兜太に会った。兜太が第一句集「少年」を出した年である。兜太はこの頃には社会性俳句を標榜し、俳壇で注目の三〇代半ばの血気盛んな俳人だった。そんな兜太にかねてから憧れの気持ちを抱いていた武田は句会が終わった後、勇気を出して短冊に揮毫をお願いした。兜太揮毫の短冊を武田は七〇年経つ今も大切に持っている。
意志ある温き手梅雨河ひととこ白波立つ(写真7)

この出会いの翌年の昭和三一年六月。東京上野で開かれた「寒雷」の第五回全国大会に、四回生の武田は上京し、都内の秋田県人会の学生寮の友人の部屋に泊って参加した。
大会には後の「寒雷」編集長で、文化功労者にもなる同人の森澄雄(大正八年〜平成二二年)もいた。武田は「森に会った記憶はない」と話すが、森は「青年俳句」(昭和三一年七月発行)に大会で会った武田ら若手俳人の名前をあげて「素質のいい作家が集まっている。才気に溺れることなく、自分の姿勢を着実に盛り上げてほしい」というメッセージを寄せていた。
全国からおよそ四〇〇人が集まった大会で、兜太は「新しい俳句」という題目で講演を行った。講演の趣旨は現代俳句について造型論の考え方ともに社会的な自我の必要性を説いたものだった。講演の最中、中村草田男(明治三四年〜昭和五八年)がやおら来賓席から立ちあがって演壇の兜太に向って反論した場面が武田の印象に強く残っているという。草田男と兜太との間の戦後俳句論争史を象徴する現場を目撃した武田は快刀乱麻の兜太の存在感に圧倒され、俳句の生涯の師にしたいという思いが湧きあがったという。
この時、武田は二一歳。東京は雨の空模様だったが、武田の俳句人生にとってはこれから本格的に漕ぎ出す俳句の海に一筋の晴れた航跡を見つけた瞬間だった。
(次号「後編」に続く)
※文中の氏名は原則として敬称略とした。
【注釈】
タイトルの武田伸一の句「子へ残す沃土蛇刺す幾重にも」は「海程」(昭和三八年一〇月発行)が初出。
【参考文献】
・『『俳星』でたどる秋田近代俳句史』(京極雅幸著・秋田魁新報社)
・『秋田の先覚 第2』(発行 秋田県)
・『戦後の証言能代 30年の歩み』(北羽新報社)
・『月刊あきた 99号』(昭和四五年八月)
・『俳句研究』(昭和一四年五月号)
・『金子兜太の世界』(「俳句」編集部編・角川学芸出版)
・『金子兜太』(安西篤著・海程新社)
・『海のみちのり 三十周年・評論集』(海程会)
・『兜太を語る』(董振華編著・コールサック社)
・『水脈句集』(昭和六〇年・能代俳句懇話会)
・『巨泉』(大橋巨泉著・講談社)
・『武田伸一句集』(海程新社)
・「氷原帯」、「青年俳句」、「寒雷」、「風」、「海程」の各俳誌のバックナンバー