『海原』No.56(2024/3/1発行)誌面より
連載 第4回
俳人金子兜太の全人間論ノート 岡崎万寿
(三)青年兜太の「トラック島餓死戦場」のリアル
(1)再考「非業の死者たち」とは何か
金子兜太は、かつてのトラック島戦場での生の体験から、最晩年にいたるまで、自らを「反戦の塊」だと公言していた。
俺なんか今まで生きてきて、何で戦争のことばかり言っているんだと、こう言われるかもしれんが、今では戦争のことを語るのが俺の唯一の使命だと思っています。…もっとリアルに、もっと厳しいもんだ、ということを皆さんに伝えておきたい(「俳句」二〇一五年八月号・特別企画「戦後七十年戦争と俳句」。傍点は引用者)。
「トラック島戦場」論
その兜太の言う、もっと厳しい「戦場のリアル」を、より実感的に事実に即して理解するため、先のアジア太平洋戦争の特徴について、一言ふれておこう。
一般に近代の戦争と言えば、日本軍によるハワイ・真珠湾攻撃や米軍爆撃機による日本本土空爆など、兵器による激しい戦闘を連想する。しかし実際には先の大戦において、日本人の軍人・軍属の戦死者は二三〇万人、うち六割強の一四〇万人が、栄養失調に基づく病死をふくむ広い意味での餓死者だった事実に注目したい(藤原彰〈一橋大学名誉教授・軍事史専攻〉著『餓死した英霊』二〇〇一年刊)。
藤原彰は戦中派らしく、憤りをこめてこう書いている。
「靖国の英霊」の実態は、華々しい戦闘の中での名誉の戦死ではなく、飢餓地獄の中での野垂れ死だったのである。
その点で、兜太のトラック島戦場の場合、米太平洋軍の反攻・日本攻略戦略の一環として、サイパン、グアム、硫黄島などのように上陸して、日本軍を「玉砕」にまで追い込むケースではなかった。トラック島は、すでに一九四四年二月十七・八日の米空母機動部隊による大空爆で、日本海軍の主力、連合艦隊の拠点基地機能を完全に喪失し、戦略的に攻略する必要のない島となっていた。
したがって徹底封鎖して食糧補給を断ち、大量飢餓で戦力を無くすケースとされ、無惨な飢餓地獄に晒されたのである。加えて日本の軍隊のもつ作戦第一、補給軽視、兵士の人権無視、軍・民格差といった基本的弱点が、米軍の封鎖作戦の効果を途方もなく助長している。
そのため、トラック島全体の陸海軍・軍属約四万人の中、戦死者は約八千人を超え、うち約六千人が広い意味での餓死だった。肝要な点は、軍の階級差別・民間(軍属)差別の厳しい仕組みのなかで、餓死者のほとんどが、兵士以下の扱いを受けていた、約一万二千人の軍属・「工員」という土建労務者だったことである。
青年兜太は、そこにいた。昭和一九年(一九四四年)二月、海軍経理学校(主計科短期現役)を繰上げ卒業し、海軍中尉に任官した兜太は、激戦地である「南方第一線」を希望し、同年三月、南太平洋上の拠点トラック島(現・ミクロネシア連邦チューク諸島)の第四海軍施設部という、要塞構築工事を担う土建部隊へ赴任した。
当時、二五歳。最年少の士官として、甲板士官(船上・〈トラック島では島内〉生活の風紀を取り締まる役目)と、主計課(食糧・衣服の調達・管理と金銭関係)を担当し、同時に中隊規模の工員部隊を率いていた。
七月のサイパン陥落後、トラック島の孤立状態が強まり、食糧事情はいっそう厳しさを増した。それでもまだ、艦隊司令部のある夏島では、兜太のイニシアチブによる「トラック島句会」を続けることができた。
だが十月になると、食糧事情がさらに悪化し、自給自活の方針で、兜太は二百名ほどの工員たちとともに秋島へ移動した。割り振られた島の斜面の土地を拓き、芋(甘藷)作りに明け暮れることになる。その時に、「もっとも粗悪な条件を強いられたのが彼ら(注・工員部隊)だった」(『二度生きる』一九九四年刊)。
可耕地は足らないし、主食の芋栽培は夜盗虫などで失敗の連続。「毎食、赤ん坊の握りこぶしていどの芋が二個、あるいは水のような芋粥一杯と、芋の葉やら草やらをぶちこんだ塩汁では、大の男はもたない」(「私の履歴書」『俳句専念』所収)。そんな日々が続く。
当然ながら、そこは戦場。米グラマン機などが、そうした芋作りやポンポン船での漁労さえ見逃さず、毎日のべつまくなしに銃爆撃を加えてきた。
「飢餓戦場」にあっての兜太
飢餓戦場では、それによる人心の荒廃がさまざまな悲劇を広げていく。兜太はその目で見た極限状態を、「トラック島の敗戦」と題して、日銀従業員組合機関紙「花の輪」(一九五〇年九月号)で、こう書いている。
一番簡単な藷泥棒と倉庫破りが横行し、兵は兵で、工員は工員で、仲間同士の奪い合いと労働の負担のなすり合いが普通となったし、陸軍は「占領」と称して他部隊の土地を奪いもした。
私自身あきらかに餓鬼道におちていた。
そうして工員たち全体が栄養失調で痩せ細り、空腹のあまり食べてはいけないものを口にして死んだり、抵抗力をなくして感染症にやられたり、毎日が栄養失調症と餓死者であふれた。医療はゼロに近く、「軍医科」はあっても工員たちにはとどかない。
こうしたトラック島での「死の戦場」「戦場のリアル」は、兜太の「語り部」活動を総括した『あの夏、兵士だった私ー九十六歳、戦争体験者からの警鐘』という著書が、もっとも端的である。最下層の工員の目線でもっと具体的に、もっと厳しく描写されていて胸を打つ。
まず①に餓死現場の実相、②にその死体埋葬の目を背むけたくなる実景について紹介しておこう。
①なかでもいちばん多かったのが餓死でした。一九四四年の十月に食糧の芋をつくるために夏島から秋島に移って、翌年八月が敗戦です。その間は敵との戦闘ではなく、ともかく飢えとの戦い。朝起きると、多いときには五〜六人の餓死者がでるようになった。
……痩せて骨と皮だけになって、最後は安らかな仏様のような顔をして死んでいく。……餓死というのは、本当に無念です。
②死者が出ると、山の墓地まで担いで行って埋葬する。秋島は台状の形をしていて、そこで畑をつくっていたのだが、山の中腹に大きな穴を掘り、そこに遺体を放りこむ。棺などはない。材料もないし時間もない。
はじめのうちは服を着せたまま、遺体を毛布にくるんでいた。でもやがて衣類や毛布が不足し、服を脱がして埋葬する。兵隊も工員も、服はボロボロだから、どんな布切れでもほしい。
板に寝かせ、五〜六人で運ぶんですが、担ぐほうも腹が減っていてフラフラ。……ようよう運び終えて穴を掘り、裸のまま転がすように埋葬していく(傍点は引用者)。
ここまでが、その工員部隊の長だった兜太が書き記した「餓死の戦場リアル」である。「ともかく、死は日常にあふれていた」という。それも、食糧自給のため秋島へ移ってから敗戦までのほぼ十ヵ月間、ほぼ同じ場所、同じ二百人弱のメンバーで毎日毎日、飢餓状態で芋作りしながら、この人間悲劇が続いていったのである。
一人一人の顔があり、本能むきだしの世界で人間臭い。死を待つ過度の栄養失調症の工員たちがごろごろの小屋は、汚物、異臭、南京虫や蚤だかり、そして時おり奇妙な叫び声――想像を絶する陰惨な殺戮死のきわどい現場だったに違いない。
こうして二百人の工員たち(正確にはその中に約六十人の朝鮮人の工員が居て、兜太の配慮で集団で自活し全員生き残っている。したがって日本人工員は百四十人前後)のうち、五十〜六十人が餓死し、戦後の今日で言う「人間の尊厳」のかけらもなく、南海の孤島の土に消えたのだ。俳人兜太も、この時期だけは一句も作っていない。あまりの異常さに俳句が湧いてこなかったのだという。
兜太と「非業の死者たち」
「こんな悲しい”非業の死”はない。涙がぼろぼろこぼれてならなかったなあ」と、兜太はしみじみと語っている(前掲『あの夏…』)。
これがずばり、青年兜太の脳裡に焼き付き、肉体化し、戦後の生涯を通じて、その「非業の死者たちに報いる」生き方を決めた動機となった、「トラック島戦場」体験の真相なのである。この点が戦後の人間金子兜太を真っ当に理解するうえでのキーポイントだと思う。
見るとおり、兜太の言う「非業の死者たち」とは、トラック島戦場での米軍機による銃爆撃をふくむ、戦死者一般を指す言葉ではない。より具体的で直接的に兜太が率い、毎日その顔も見て、その責任のもとに餓死していった工員たちの、リアルな姿そのものを捉えた言葉である。その顔たちは戦後、兜太が帰国した後まで、しばしば夢の中にも現れたそうだ。
加えて、兜太は食糧・衣服を調達する主計課の長として、「もうあと何人死ねば食糧が間に合う」といった、机上の計算をしていたことへの、罪の意識もあった。大勢の工員仲間を餓死させたことで、かなり自分を責めている。
戦後の俳人兜太が、文字通り反戦平和に徹した、その生涯、その信念と生き方、そのエネルギーの源泉となったのは、トラック島で辛苦を共にした最底辺の弱者たち、とりわけ「非業の死者たち」への人間としての心痛と祈りであったことは間違いない。
【本連載の内容】
〈第1回・2023年11月号〉
序 連載にあたって
(一)兜太の「老いと死」へのアプローチ
―オリジナルな「立禅」の新境地
〈第2回・12月号〉
(二)ジュゴンのごと現役大往生の実相
(1)「天からいただいた十日間」
〈第3回・2024年1・2月合併号〉
(2)「秩父音頭」絶唱のすべて―「最後の一年」
〈第4回・3月号(本号)〉
(三)青年兜太の「トラック島餓死戦場」のリアル
(1)再考「非業の死者たち」とは何か
〈第5回・4月号〉
(2)「トラック島戦場」で見る兜太の存在感
〈第6回・5月号〉
(四)「俺は死なない」兜太の内面世界
―「他界説」とアニミズムの到達点
(1)「他界説」それぞれ―その共通項
(2)アニミズムの俳人―秩父土俗より宇宙まで
《以降、(五)へと続く》