俳人兜太にとって秩父とは何か② 岡崎万寿

『海原』No.22(2020/10/1発行)誌面より

新シリーズ●第2回

俳人兜太にとって秩父とは何か 岡崎万寿

 ㈢ 父・伊昔紅と俳人兜太の原質形成

 ⑴『俳句日記』にみる父子の肉体感

 見てきた通り兜太は、秩父人としての野性、剛直、男気をたっぷりもった、父・伊昔紅を敬愛していた。「人間としてまっとうであれ、それが父の唯一の教育方針だった」(『二度生きる』)。中学四年も終わる頃、将来の進路の相談で、医者は継ぎたくない、高校(旧制)は文科にゆきたいと話したときのことを、『俳句日記』(第二巻)でこう記している。

 一九八一年(九月十日)
 起きぬけに毎日新聞『教育の森』からいわれている「私を育てた一言」を書く。父の「やりたいようにやれ」。自由人への導きの言として書きおさめて満足。

  往診の靴の先なる栗拾う 伊昔紅
  この峡の水上にゐる春の雷 伊昔紅

 兜太は「わが愛句鑑賞」として、『遠い句近い句』を一九九三年に出版したが、その冒頭に父・伊昔紅の俳句五句を挙げている。一句目には「昭和前期の山国開業医の日常がにじんでいる」と、二句目には「ゴロゴロ鳴りだした春雷に対しても客観的ではない。こいつも秩父もん、の心情がはたらいて、“水上にゐる”などと擬人化するのである」と、秩父人ならではの鑑賞を加えている。
 そして父亡き後、これら伊昔紅の俳句について、講演などで自在に語っていた。

 一九九二年(四月二十一日)
 大宮ルミネで、「伊昔紅の春の句」を一時間半喋る。「この峡の水上にいる春の雷」からはじめる。


  元日や餅で押し出す去年糞 伊昔紅
  長寿の母うんこのようにわれを産みぬ 兜太
  野糞を好み放屁親しみ村医の父 兜太

 いやはや、この父にしてこの子ありの句である。この肉体感、スカトロジー(糞尿愛好趣味)は、当時の農山村の村落共同体では、ごく自然な日常の暮らしそのものでもあった。兜太は『中年からの俳句人生塾』(二〇〇四年刊)で、こう述べている。

 自分はスカトロジーである……なぜそうなったのか、と自問してみると、山国育ち、しかも糞尿が農家の肥料として大いに使われていた時代の育ち、ということが浮かぶ。少青年期のわたしは、おとなたちの糞尿談を含むヘソから下の話を毎日聞いていた。日常会話に欠かせない材料であり、それもユーモラスに語られていたのである。

 秩父人を自称する兜太と父・伊昔紅は、裸踊りといいスカトロジーといい、まこと肉体的同体感ぴったりの父子であった。しかしそれは、あくまで秩父人としての肉体に発した同体感であって、理屈ではない。思想や生き方の上では、戦後になっても変わらない「父の好戦いまも許さず夏を生く」(『日常』)の面もあった。
 さて兜太の『俳句日記』は、そうした父・伊昔紅と長男・兜太との内面をふくむ暮らしの綾を、実にリアルにドラマチックに書きとめている。父子の体温が、じんわり伝わってくるようだ。

 二月十九日(一九六七年・歳)
 上棟式で熊谷へ。……秩父から父と千侍、儀作氏来てくれて儀作氏の音頭と父のハヤシで、大いに踊る。夕陽赤し。


 八月七日(一九六九年・49歳)
 千侍から電話で、父が血便を出し、ショック状態にあるから、すぐきてくれとのこと。自動車でゆく。……輸血中。点滴中。血圧88。

 八月九日
 父、快復歩調。血圧130。ただ頑固で、なにをやりだすか心配。

 一月一日(一九七〇年・50歳)
 父より電話。小生の昨年末速達した校歌(筆者注・兜太は秩父市立皆野中学校の校歌を作詞)がついたらしい。父、よろこんでくれ、讃めてくれる。……うれしい。なんとない自信と不安がはっきりし、久しぶりに、こうした率直な意見交換が父とのあいだにできたことがうれしい。

 五月二十九日(一九七七年・57歳)
 父の米寿の祝いをかねた七彩会主催、句碑建立記念句会。出席。十三年ぶりとか言われる。

 五月三十日
 昨夜、父を小用につれてゆき、男根をもっていてやると、小便をした。その男根もしっかりしていて、小生並みで、母が小さくなったと心配するのは見当ちがいだ。母は、かたくなっているときだけしか知らないのではないか。

 九月三十日
 今朝四時半、父死す。八十八歳。一人の男の一生が――こうして気張り、こうして老いてゆく、その姿が――手にとるようにおもいだされる。自分の心構えもかたまってくる。〈鑑〉ができた。

 十月一日
 父、火葬。……『ある庶民考』を棺に入れる……二時間で焼ける。骨白く、美し。壺にいれた骨を手で撫でる風習に従う。これはなつかしいことだ。

 まことに最後まで、肉体感の濃密な父子関係であったと思う。

  ⑵「風土は肉体なり」の実相

 兜太はよく語っていた。「しかし、伊昔紅がいなければ今日の私はいません。これははっきりしています。」(『語る兜太』)そして、こうも言っている。

 私の場合は、俳句づくりでも特殊な人間でね、私自身が俳句なんですよ。私は埼玉県の秩父盆地で生まれました。山国ですな。そこで育っていく過程の中で、私の体の中に、俳句と言える要素が染み込んでしまったんですね。(「コムウェア」(二〇一一年九月号)

 この「私自身が俳句なんです」という表現は、二〇〇九年二月、兜太が「正岡子規国際俳句大賞」を受賞した際に述べた言葉である。

 しかも考えてみますと(生まれは)一九一九(一句一句)年ということで、生まれながらにして俳句しかできない男です。(中略)私自身が俳句なんです。(『人間金子兜太のざっくばらん』二〇一〇年刊)

 また最晩年の著『のこす言葉 金子兜太 私が俳句だ』(二〇一八年刊)も、題名自体そうだが、先の「コムウェア」の引用文によると、この俳人兜太による自己確認とも言える「私自身が俳句」という言葉は、なんと秩父で父・伊昔紅のもとでの生い立ちに発したものであることが、よく判る。
 そしてそれは、秩父での生長過程で、兜太の体の中に「俳句と言える要素が染み込んでしまった」ためだと言う。「身に染み込んでしまった」とは、兜太の表現でいえば「肉体化」したこと。つまり秩父での幼少期に持ち前の資質に加え、俳句づくりの元となる要素が、兜太の体の中に俳句的体質となって肉体化していった、ということである。
 それは何か。具体的に兜太は三つを挙げている。兜太の言葉で、その実相に迫りたい。

 ① 一つは俳句の五・七・五のリズム感である。あの「秋蚕あきご仕もうて 麦き終えて」の秩父音頭は、父・伊昔紅が一九三〇年の明治神宮遷座十周年を記念して、それまでの野卑で猥雑だった秩父豊年踊りを、歌詞も踊りも新たに作り直し、世に出したものである。その由来について、兜太は「秩父音頭再生由来」と題して『秩父学入門』(清水武甲編・一九八四年刊)に載せ、こう結んでいる。

 私が秩父をおもうとき、そのときの人々のいかにも人間くさい息吹が甦ってくる。そして、秩父が〈ふるさと〉として私の体のなかにしみこんでくるのも、そんなときである。

 その秩父音頭の歌と踊りの練習を、兜太の家の庭に集って、毎晩のように大小の太鼓、笛やかねも使い、にぎやかに続けていた。奉納が終わったあとも、数年間そうだったようだ。少年兜太はそれを聞きながら寝たり、また子どもたちと七七七五音の歌詞に慣れ親しんで、大いに唄ったり踊ったりもした。

 私が小学生のころでした……秩父音頭の歌は「七七七五」でしょ。五七調、七五調は、日本書紀以来の古い叙情形式の基本です。それが私の耳から、頭の中に染み込んで、やがては体に染み込んだわけです。これが一番大きかったと思います。(前掲「コムウェア」)

さらに俳人兜太にとっては、この五七調は秩父音頭のリズムであるとともに、村落共同体としてのふるさと秩父から湧きでてくる、庶民の韻律でもあったようだ。

 どうやら、五七調は私には〈ふるさと〉として感じられている。(中略)山仕事や養蚕のきつい労働があり、それだけに助け合う親しさがあった。そうした良き日日の村落共同体としての〈ふるさと〉が、私の身体のなかにしみこんでいて、五七調はそこから湧きでてくるもののようにおもえてならないのである。(『俳句の本質』一九八四年刊)

 ② 二つは、まるごと人間を詠む俳句づくりの基本と面白さを体得していたことである。村医者で自転車で山坂を往診していた父・伊昔紅は、戦時色のただよう昭和初期から、広い自宅で秩父音頭の練習とともに、句会を開き俳句にも情熱をそそいでいた。
 独協中学で同級生だった水原秋櫻子が主催する俳誌「馬酔木あしび」の秩父支部であるが、その句会の模様が、少年兜太にとって何とも面白いものだったようだ。句会は月、一、二回。山国で知識に飢えた三、四十代の男性たち二、三十人が、自転車をころがし、歩いて峠を越えて夜の句会に集ってきていた。
 彼らは学歴無用で、意外とおもえるほど知的野性をもち、詩的刺激をもとめていた。仕事は山仕事、木こり、こんにゃく畑を耕す、川漁で鮎をとったりする人、猪や鹿を撃つ猟師などいろいろ。毎日働いて汗を流し、そこから人間臭い俳句を作っていた。
 兜太は興味いっぱい、そうした人間そのものを詠む句会を覗いていた。そして後年、こう人生的に振りかえっている。

 どうも秩父というところは、人間そのものがみんな俳諧みたいなんです。……貧しい地帯の人たちというのはその行動形態自体が諧謔、滑稽なんですね。……だから私のなかにある俳句の始まりはもともと諧謔、滑稽です。俳句がしみついていたということは、イコールそれがしみついていたということですね。(「三田文学」二〇〇四年冬季号)
 私が子ども時代に憧れた俳人は、そういう知的野性を持った山の人たち。そこでの生の俳句体験が、私を俳句にのめりこませた原因になりました。(『あの夏、兵士だった私』)


 ③ そして三つ目は、天上、地球上のあらゆるものにたまを感じるアニミズム、兜太の言う「生きもの感覚」である。そのアニミズムの体質を、兜太は「秩父が与えてくれた“生きもの感覚”」と受けとり、自著『荒凡天一茶』(二〇一二年刊)でこう述べている。

 “生きもの感覚”は、基本を、豊かな土の世界のなかで幼年期を過した人間のたいへんな収穫なのではないか、と思っています。“生きもの感覚”に満ち満ちた知的野性の男たちのことが、いま私のイメージのなかにあります。ですから“生きもの感覚”は、本物の野性と、五七五の形式が結びついて、そこに育つという思いがあります。

 そして自らの体に肉体化したアニミズムについて、ビビッドな実感で具体的に自作を例に、こう解明している。

  おおかみに螢が一つ付いていた
 これが私のアニミズムの代表的な句なんですが……秩父は私の産土うぶすな。その原郷を思い浮べるときには、必ずニホンオオカミが現れ、どこからともなく現れたオオカミをよく見ると、蛍の光が輝いている。そんな命の営みの光景が、私のアニミズムの世界。「蛍」は霊魂の象徴で、生物・無機物を問わず、すべてのものの中に霊魂が宿っているとい
うのが、私の考え方です。(『あの夏、兵士だった私』)

 兜太はよく「風土は肉体なり」とか、「私は俳句です」とか言っていた。見るとおり、なるほど秩父での幼少期、その人間が形成される過程で、俳句づくりの基本となる要素が日常的に自らの肉体化し、「俳句人間」となりきった兜太ならではの言葉だと言えよう。

  ㈣ 山影情念と兜太の中の秩父事件

  ⑴ 秩父人兜太の人生課題

  山影情念狼も人も俯伏き 兜太
  困民党ありき柿すだれの奥に 兜太

 第十五句集『百年』からの二句である。この遺句集には、なぜか山影、狼、秩父困民党にかかわる俳句が多い。
 一句目は「山影十二句」中の一句。「山影情念」という言葉は、ふるさと秩父の重畳たる山影に発した兜太の造語で、そのフィルターを通過すると秩父の風土も人間も、暗く鬱屈した、それでいて一条の光芒を求めて止まない情念の世界に導びかれる。その空間では、イメージの狼も人間も、みんな俯伏きなのだ。
 二句目は、明治十七(一八八四)年の秋、紅葉の秩父山峡で暴発した、借金農民たちの困民党事件への親しみをこめた、ふるさとの歴史回想の句である。ちょうど柿の季節、農家の軒先には市場にも出す産物の干柿が、すだれのように垂れ下がっている。そしてその「奥に」という表現に、事件にかかわる何かがありそうだ。家人の相談か謀議か――想像力がそそられる。
 ところで今日、「山影情念」という言葉を、なにかポエジー感覚で軽く捉える向きもあるが、そうではない。兜太の幼少期からの体感に根ざしたこの言葉は、光と闇の溶けあった複雑で、もっと暗鬱で、耐忍的行動的で、自らをふくむ秩父人特有の内面性を表現したものである。
 そしてそれは、ほとんどが農民の秩父人が一斉蜂起した困民党事件と、兜太の中では深く重なり合った言葉であった。朝日選書『思想史を歩く』上巻(一九七四年刊)所収の「秩父困民党」で、兜太はその情念をこめて書いている。

 私は山影情念ということばで、山国住民の内ふかくわだかまる、暗鬱で粘着的な実態を窺うのだが、それはだから、光には敏感だった。開明の空気は、内なる暗と外なる明の対照をより鮮やかにしていったから、見えてきた光(外からの、あるいは外への)が理不尽に閉ざされたときの暗部の激発は、誰も妨げるものではなかったのだ。しかし日頃は、わずかな光でも、遠い峠の上の薄明を望むように、それを頼りに耐えるしかなかった。粘り強く、剛毅に。(中略)俳句作りの私が、困民党にふかい関心をもつのも、やはりそれが一条の光として、秩父育ちの私の山影情念に射しこむからにちがいない。

 こうして山影情念の秩父人として成長しつつあった兜太は、旧制中学四年のときに、古老からの聞き書きをもとに困民党事件にかんする一文を、校友雑誌に発表している。「はじめて秩父困民党という言葉に触れたときは、なんともいえぬ新鮮な感銘をおぼえた」(「秩父困民党―山畠や蕎麦そばの白さもぞっとする一茶」『定住漂泊』所収・一九七二年刊)そうだ。
 昭和十年当時は、大事件後の徹底した弾圧のもとで、以来、秩父の農民たちはかたくなに口を閉ざし、「秩父暴動」「暴徒」という言葉だけが、もっぱらだった。そんな中で、少年兜太の内面には、早くもリベラルな反骨性が育っていたのである。
 それから長い歳月がたち、秩父を離れた兜太は俳人として、衆知の存在感を広げた。しかし兜太の中には、秩父人の血がいつも熱く流れていた。一九七六年十一月、秩父市中央公民館で行われた「秩父事件九十二周年記念集会」での講演で、こう語っている。

 離れている私の身体からだが、秩父の山河と人々の内奥につながってゆく……私の存在の根っこのところに、デンと座っているような感じが、秩父事件を通じて殊にふかく受けとれていたように思われるのです。(「私のなかの秩父事件」『ある庶民考』所収・一九七七年刊)

 その時、兜太は五十七歳。秩父事件の一文を発表した十六歳から、四十一年たっていた。秩父では関係者・研究者たちの努力もあって、一九五四年十一月から最初の「秩父騒動七十周年記念集会」が開かれるなど、秩父事件の顕彰・研究の運動が次第に活発化していた。
 兜太が本腰を入れて、発酵してきた秩父事件の研究・調査に取り組んだのは、一九七〇年代に入ってからである。一九六七年に熊谷に転居し、秩父連峰を望み見ながら産土・秩父の土への認識を、新たにしていた。
 小林一茶の研究を手がかりに、自らの存在の原点にかえって、秩父の農民衆の生きざまを探り、そこに自己の内面に蟠るきずなの深さを照らし出してみたかった。まずその兜太の『俳句日記』をめくってみよう。

 十一月四日(一九七一年・52歳)
 書棚の本の位置を……一茶関係は机上に集約し、棚には、秩父困民党関係と県、市の資料を集中し、その横に戦記関係と戦争小説中参考になるものを集める。


 九月二十二日(一九七二年・52歳)
 車中、困民党、居眠り。降りたとたんに、テーマひらめく。「原点」とは何か。自由党と困民党の接点はどこか、徳川↓明治への経済変化と山村農民の経営形態(小作農化でなく小営農の副業喪失による貧困化――がよいと思う)。


 九月二十三日
 一日、「秩父事件資料」を読む。秩父事件、筋は見えているが〈独自のポイント〉がつかめない。

 九月二十四日
 一日、「秩父事件資料Ⅰ」。経済的背景研究の要あり。……小作料問題も出ないほど土地が少ないのだ。商品経済丸浸り下の困窮。それゆえの複雑さ。

 九月二十九日
 昼、朝日を訪ね、……旅程打合わせ。「内なる困民党」を軸にして下さい、というところが気に入る。

 十月一日
 朝八時に起きて、秩父事件資料から抜き書き。蜂起までの動きと後の動きが、系統的に頭に入っていないと、想像力も働かない。

 十月六日
 途中で金子直一先生を乗せ……志賀坂峠を越える。神流かんな川は河相よし。思えば、明治十七年十一月五日夜六時から冷雨で、翌六日、神ヵ原から白井まで困民党も雨のなかを歩いている。丁度いいじゃあないかと直一先生。……夜霧の武道峠を越えて、千鹿谷へ。

 十月七日
 快晴。西谷の谷を三本上る。石間いさまの谷がよい。大田部近く、広々と秩父の山山を眺望し、〈開明〉と〈暗鬱〉をおもう。あと吉田椋神社から小鹿坂峠音楽寺。そこで写真。

 十月十六日
 七時に起き、一気にまったく憑かれたように一部を書き上げてしまう。……二部、事実を追いまわして難渋するが、山影情念と侠気にきて、軽快となる。得意のところだ。

 十一月一日
 秩父の人間が、秩父農民を語れずしてどうなるか、持ち帰る。

 十一月二日
 やっと、(秩父)山地農民の特性として、①耕地②行動性③土と死――継続と断絶。

 十一月二十一日
 朝日の安間氏から電話で、困民党終了への謝辞。評判よしの言、うれしい。小生も満足感あり。

 以上の『俳句日記』は、先に引用した『思想史を歩く』の「秩父困民党」(「朝日」四回連載)を、ちょうど執筆する舞台裏の記録である。気付くことは「秩父の人間が、秩父農民を語れずしてどうなるか」と、秩父事件をわがこととして、実に丹念に資料にあたり実地を調査し、考えぬき、実証的総合的に解明しようとしていることだ。
 たえず事件の「原点」とは何かを確め、〈独自のポイント〉を探り、「内なる困民党」を捉えようとしている。まさに秩父人なるわが生き方として、体ごと困民党事件と取り組んでいる感がある。
(この項つづく)

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