『海原』No.48(2023/5/1発行)誌面より
第4回海原賞・海原新人賞受賞作家の俳句を読む
二つのベクトル―垂直方向と水平方向― 藤野武
対照的な個性をした二人の作家の作品を読んで、その豊かな才能に魅せられたことを、最初に強調しておきたい。
ところで、これらの作品を鑑賞するにあたって私は、金子兜太先生の俳論を手がかりにした。
◇川田由美子の「叙情」
私はつねづね、川田俳句を特徴づけるものは、叙情だと思っている。まず川田の叙情を考える。
兜太師は次のように述べる。
『〈抒情〉だが、一般的には、これはおおむね二とおりの意味に使われている。一つは〈感情の純粋衝動を書く〉という本質的な意味。いま一つは〈情感本位に書く〉という現象的な意味。私は、はじめの感情の純粋衝動を書くという本質的な意味のほうを、真の〈抒情〉と考え、これが〈詩〉の本質だと確信している』『その〈情〉、つまり〈感情の純粋衝動〉とは、〈存在感〉への純粋反応である』(『俳句短詩形の今日と創造』北洋社発行)。
川田の叙情とは、(単に情緒的なるものではなく)まさにこの「存在感への純粋反応」たる叙情である。
夕こがらし生家に母の被膜かな
「母の被膜」という、生理的、感覚的な把握によって、母の纏い纏っていた(存在することの)逃れがたき悲しみや、それゆえの愛おしさが表現される。生きること在ることに、川田はなによりも深い眼差しを向け心震わせる。まさに「存在」が川田の「叙情」の核になっていると言える。
ちちははの形代として朝の虫
ある筈の荒織りの声黒南風に (海原33号)
そもそも在るということの中には、無いということが入れ子細工のように組み込まれているのだ。だから人間という生きものの在り様を凝視すれば、同時に欠落を観ることにもなる。川田は「形代」といい「ある筈」といい、その無きもの、欠落した存在に鋭く感応する。これが大きな特徴だ。
また川田句で存在と並んで私が注目するのは「自然」。
枯芙蓉からから風に産毛あり
ロゼットに海流の碧目深なり
風に「産毛」を感じ、密生するタンポポの葉に「海流の碧」を見るなど、やわらかな感性で、自然のもろもろに耳を澄まし心通わせる。自然に依拠して「存在」の真に迫る。
とうすみ蜻蛉ちちははふふむ草の風 (32号)
雪割草ひさかたという一隅を (40号)
「ふふむ」といって自然の(いのちの)循環を暗示する。「ひさかたという一隅」では(自然の)優しい光に永遠なるものを見る。このように川田は、自然の中にいのちの再生や循環をも見ているのだ。川田句の優しさの所以である。
根のようなり胸静もりて冬の梢
ひかりも声も澪曳き剥がる冬の石
野の指とまれ蠟梅は今ひとりかな
さらに、川田の視線は自己の内面に深く降りてゆく。そこで純なる結晶を掬い取る。「根のようなり」「澪曳き剥がる」「今ひとり」はみな、川田の内面の(思いの)喩にちがいない。とにかく豊かで純な心象世界。
川田句を総じて見ると、(自然といい人間といい)存在を凝視し深く掘り下げ造型する。この垂直方向へのベクトルが大きな特徴なのだ。そしてやわらかで純な感性の、(時間と空間の)重層的で奥行きのある俳句は生まれる。
◇大池桜子の「自由」
大池の作品は、現代の空気感にあふれている。
大池俳句の特徴であるこの「現代の空気感」を考えるにあたって私は、兜太師の『感性時代の俳句塾』(一九八八年・集英社刊)を手がかりにする。
この著書で師は当時(八〇年代)の「言語情況」について、時代を牽引していた糸井重里氏、野田秀樹氏等の仕事をとり上げ検証する。彼等の作品に共通する傾向として、言葉の遊戯化、褻の暴露の解放感、短言による飛躍、韻文や感性への傾き等々を指摘する。師はそれらを産む背景に、都市化による時間喪失現象やポスト構造主義があると考えた。そこから彼等の作品の「無執着」「身軽さ」「自由さ」「自己の無自己化」「共時性の横走り」等が生まれたと推論する。師は彼らの作品に(瞬く間の陳腐化の危うさを感じつつも)捨てがたい魅力と大いなる可能性を、どこか感じていたと私は思う。師は斯く当時の言語情況を大掴みする。さて、現在の言語情況だが、(師の洞察から)さらに一歩進んでいるように見える。さらなる「身軽さ」「自由さ」等々。これが現代の(文化的・社会的)空気感の底にあるものだと考える。
そしてこの「軽さ」「自由さ」が、大池作品の空気感の内実だと私は推測する。これがとても新しく魅力的。
わたくしのそっくりさんがいる二月
やっぱりデザートも頼む猫の恋
個人的なありふれた日常の出来事を、「自由に軽々と」主観に傾いて拾い上げる。少し浮遊した世界は、いかにも現代の気分に充ちている。対象を(深く)掘り下げてゆくというより、表層を漂う感じ。ベクトルは水平方向に働く。
君が子どもみたいで小手毬の花
擬似彼氏あてラインに咲かせるパラソル (32号)
桃の花やさしい男に慣れてない
この青春性。センスのいいユーモア。批評性もある。
いかにも明るい日差しのような若者の日常や気分が、軽やかな感性で描かれる。しなやかな感受。高明度の詩性。
しかし私はここで少し立ち止まる。
毎朝通るぶらんこだけの公園
春ってかなしいピアノの音がする
私はこれらの句に「孤独感」を強く感じるのだ。「ぶらんこだけ」で、ほかに何もない公園。毎朝通る。捉えどころなきこのさびしさ。
蝶の昼写真立てがたおれてる
夢で見る風船今日も切ない赤
そしてこの漠然とした「不安感」。「蝶」の覚束なさ。夢の「風船」の胸がしめつけられる「赤」。崩れそうな日常。この孤独感や不安感の底流にあるのは時代の「閉塞感」?抵抗し難い大きな流れに流されそうになる無力な、個の存在を敏感に直感的に感じているのだろう。この感受によって大池の俳句空間は微妙に屈折し、作品は個人的な表白(呟き)から踏み出し普遍化し、鋭く私たちの心に刺さる。大池俳句の明るさの裏側には翳るものがうずくまっている。
卒業式全然詩なんてないんだ
若葉過剰一体どうなってるのかな (31号)
そして、窒息しそうな空気に、魂は叫ぶ。「一体どうなってる」。