〈それができて初めて現代俳句は成立する〉
〈それで初めて、伝統俳句も、現代俳句も、共通の地盤で語り合え、作品を見せ合え、評価し合うことができるんじゃないか〉
〈「精神の形」が完全につかめたときその句は永遠性をもつ〉
少し古いですが、兜太の言葉に耳を傾けてみてください。
2025年の現在にも活きる言葉ではないかと思います。
こっけい(講演) 金子兜太
先ほど飯田竜太さんの話は、実は聞きはぐりまして、ちょうどそこのところへあらわれましたら、何か、「社会性」という言葉が聞こえてきましたんで、控え室に行ってから竜太さんに、「何か社会主義とか社会性とかいったね」といったら、「いや、社会性は体操だといったんだ」という返事でした。
結局、私の話も、折笠さんの紹介にありましたような、動き回っている話になりそうなんで、そういう意味では、おそらくみなさんの前で、私自身が一つのこっけいを演ずることになるんじゃないか、というふうなことが予想されるわけです。つまり、社会性ということを、いまでもかたく頭に置いております私のような者は、ある意味でこっけいな男かもしれない、いつも体操をやっている男かもしれない、と、こう思ったりいたします。
また、いまも佐々木幸綱氏の話にありました、その俳句というものに対する私たちのいうにいわれぬ不満がある。これは、どなたもおつくりになっていて、いま自分がつくっている俳句を、これで十分だと思っている方はおそらくないわけです。俳句をおつくりになっていて、満足感が少ないのが現状ではないだろうか。何か一つ展開しなければいけないんじゃないか。どういう形で展開したらいいんだろう、ということを、私もそうですが、おそらく、ここにいらっしゃる方にもお求めになっているんではないだろうか。
このことは、いまの幸綱さんの話でもそうですが、短歌の世界におきましても、自由詩の世界におきましても、小説の世界においたって、いま何か一つ展開せにゃいかんという衝迫が専門の作家にもあり、あるいは半プロの作家にもある。あるいはアマチュア作家にもあるという状況ではないだろうか、と思うんです。そういう意味で、俳句の展開ということに何かの役に立てば、私のいうこともむだではないと思うわけでございます。体験もまたよからずや、という気持ちでおります。
実は先日、この大会のいろいろ世話をしております藤田湘子氏と、高柳重信氏、それから「俳句研究」の社主の西川さんとで、あとから田川飛旅子さんが来たんですが、あるところでちょっと話をした。そこへ女性が二人あらわれまして、いろいろ話をしておりました。そのうちに一人の女性が帰って、年上の女性が残ったんですが、そこへ田川さんが忽然とあらわれた次第です。そうすると残っていた年上の女性がいきなり曰く、私はこういう――田川さんをさしまして――おっちりした人が好きなんだ。何でもかんでもフンフンといって、のみ込んでいるような人が好きなんだ。それに較べると、あなたは何よ、さっきから聞いているとベチャベチャ、 ベチャベチャしゃべってばかりいて、一口多いわよ、こうやられたわけです。
その「一口多いわよ」 という言葉が 非常に こたえまして、なるほど、そういわれてみれば、常に先まわりをして何かいおうとしておったような気がします。途中で帰った若い子がいおうとすると、先にこちらがいってからかうというふうなことを、年がいもなく、かなり意識してやっておったようでした。それをピシャリとやられた感じがいたしまして、非常にこたえたことがございます。
その「一口多いわよ」ということが、どうも私の特性の一つになっているんじゃないか、という感じがするわけでございます。いまも幸綱氏が、おしゃべりだというようなことをいっておりました。
これは三島由紀夫氏なんかがおしゃべりだということと同じょうな意味、ないしは中村草田男さんと同じようだという意味でならば、ほめ言葉になるんでしょうけども、どうも私自身は、おしゃべりだといわれると、何となく忸怩たるものがあるというわけでございます。これから申し上げますことも、その一口多い話になると思っています。その点をまずご了承願いたいと思うわけです。
初めから、いくつも前提ばかり置いておりまして、なかなか本論に入れないんですが、本論に入るようにいたします。
先日、楠本憲吉氏 が 毎日新聞の 八月二十二日 付夕刊に「俳句と時代の流れ」という題で書いておりました。それを一つ、手がかりにして申し上げてみたいと思います。
その文章を簡単に要約してみますと、戦後いろんな俳句がつくられてきたが、いま振り返ってみると、広島とか、瓦礫とか、焼け跡とか、そういう刻々の時代相をうたった俳句よりも、自然の季物をうたったもの、自然の季節感をうたったもののほうが、ずっと記憶に残っている、生命力が抜群に強い、というふうになります。それで、今後の俳句というものは、つまり誠とか、永遠性とかいうことを考えるならば、そういう季節の風物詩という方向に向かうことのほうが、正しい道なんではないか、ということにもなるようです。
そのあとで彼は、「俳句の精神とは誠の裏づけのある遊びである」というふうなことを書いておりますが、その大半を費しておりました点は、いまのようなことで、私の言葉で簡単にまとめますと、社会詠よりも自然詠のほうが永遠性を持つ、俳句としての生命力がある、といういい方、そのことに一つの疑問を持ったわけでございます。
その疑問の第一といたしましては、非常に、私たちいつも錯覚を演じておりますことが一つあるんじゃないか。それは、たとえば、ここで楠木氏があげております中村汀女さんの俳句ですが、
外にも出よ触るるばかりに春の月
これはいい句でございます。私もこの句には共鳴いたします。これは、楠木氏の話によりますと、戦後間もなくの瓦礫の中で、汀女さんが おつくりになった 句だそうですが、やっぱり、こういうしたたかな季節感の境地は、これだけのベテラン作家でないとできないんじゃないか、というふうに私も感心いたします。そういう意味では、こういう句を、あの時期においてつくり得た汀女さんの心境に対する、ある憧憬と、同時に、ある疑惑を持つわけです。よい作品だけに、私の憧憬と疑惑が同時に絡み合います。
この句の場合の「春の月」。春の月の記憶から、次第に、この句がさかのぼって 解釈されてくるだろうと思いますが、では、そのことと、楠本氏がいま一つ、これは一時的なものだというふうにあげていた句で、西東三鬼さんの
広島や卵食ふ時口ひらく
これも有名な句ですが、これは原爆の落ちた広島でつくった句でございます。この場合の広島というふうなものは、すでに時間の流れの中で陳腐化してきている。したがって汀女さんの「春の月」の句のほうが感銘度が深い、いつまでも感銘が残る、というのが楠本氏の立論ですが、私は「春の月」に対する受け取り方が非常に強い人、非常にはっきりしている人、あるいは春の月に非常に特殊な思い出を持っている人の場合には、この句がいつまでも残る句として、印象深く受け取られるんじゃないかと思います。
ところが「広島」、この原爆を おとされた広島に対する記憶の非常に強烈な人が、また一方に必ずおるはずです。私自身もその一人です。この原爆のおちた広島というものは、長崎とともに、いまなお私には忘れられない。そこの写真自身が、瓦礫の中に死んだ人体がゴロゴロしている、あの広島の写真一枚が、ときどき私の脳裏に浮かんでくることがある。そういう者にとっては、おそらく、この「春の月」と同じように、「広島」の句は、いまなお生きているということなんだと思います。
つまり楠本氏のいうような、社会詠が一時的であり、つまり時代をうたったものは一時的であって、自然をうたったもの、季節の風物詩は永遠性を持つ、というふうな公式的な説論は、まず一つ、その点からくずれるんではないかと思うんでございます。
その点に関連して、先ほどの幸綱氏の話にもありましたけれども、都会におりまして、ますます自然から遠ざかっていくということ、つまり逆に、非常に自然にあこがれてくるという面もあります。アイガー北壁三十二日間の登攀ということにいたしましても、あるいは最近のいろいろな山の事故にいたしましても、都会に働く青少年・少女たちが、自然に極度にあこがれるというところから、ああいうはげしい冒険が行なわれる面があるんじゃないか。もちろん、それ以外の要因もあると思いますけれども、そういう面も大きいんじゃないかと思っているんですが、そういう点からいえば、たしかに 都会人・楠本憲吉 の目に、この「春の月」というふうなものは、まことになつかしいものであったでしょうし、それに加えて、戦中派である彼が、瓦礫の東京で、「外にも出よ触るるばかりに春の月」という句を、どんなに感銘深く受け取ったかということは、よくわかります。よくわかるわけであります。
しかし、同時に、広島で妻子をなくされた方、親族をなくされた方、あるいは現実に広島を体験された方、あるいは長崎で原爆を体験された方、あるいは、その後のさまざまな原爆に関する事実を身をもって受け取めてこられた方々は、「広島や卵食ふ時口ひらく」の句も、同様の感銘、あるいは、それ以上の感銘をもって、いまなお受け取るのではないかと思うわけです。
そういう意味におきまして、自然詠が優先いたし、社会詠がおくれていく、一時的なものだということは、私からみれば独断もいいところだと思えてなりません。これは人によって違うんであって、いわば自然に傾斜する人にとっては、自然詠が永久であり、社会に 傾斜する者にとっては、社会詠が永久であるという、そういう双方の面、つまり並列的な受け取り方が行なわれなければならないじゃないか、こう私は思うわけです。
このことに関しては、「俳句研究」で川名大君が、彼はいま俳論時評を盛んに書いておりまして、なかなか名筆を振るっているわけですが、その中で原石鼎氏の
頂上や殊に野菊の吹かれ居り
その句と、私の、
車窓より拳現われ旱魃田
という句を比較しまして、井倉宏という京都の人が、私のほうの「拳現われ旱魃田」のほうは、これは時代の中にアクティブに、思想的に生きていく姿勢、そういう姿勢をとっているがゆえに、ここには生の時間がある。生きている時間があるが「頂上や」のほうは風景の中に自己を閉じ込めてしまっていて、この世界は死の時間というしかない、という評価をしたのに対して、川名大君が、逆のこともいえるのではないか、原石鼎の句のほうが、永遠の相に触れつつ生の時間を刻んでおり、金子の句のほうが時代的、一時的な要素がつよく、むしろ死の時間ではないのか、というふうなことを書いておりました。
私は、その説論自身はおもしろいと思いましたが、しかし同時に、そのいずれを生とするか、つまり、「頂上や」という自然詠を生の時間とみるか、死の時間とみるか、「車窓より」という社会詠を生の時間とみるか、死の時間とみるかという問題は、これは受けとる人個々の思想、人生観によって違ってくると思うんでございます。そういう意味では、先ほどの楠本氏の見解なども、やはり彼の人生観なり思想を反映するものと思うんでございますが、私のいう意味は、そういうふうな個々の思想・人生観によって違ってくるという受けとめ方じゃなくて、これこそ、まさに一時的、流動的なことであって、それを一歩越えたその奥のところが一つの問題になるんじゃないか、ということをいいたいわけでございます。
では、その奥のものというのは、どんなものなのかということですが、私は、それを簡単な言葉で、いつも自分にいいきかせておるんです。つまり「精神の形」が完全につかめたとき、その句は永遠性を持つもんだと、いうことです。そのことは直感的ないい方で、わかりにくいことなんですが、そのまえに、いますこし、社会詠と自然詠ということについて、例をあげて申しあげてみたいとおもいます。その一つは、芭蕉の、
荒海や佐渡に横たふ天の川
という、だれでも知っている句についてです。この句の場合、この佐渡というものについて、私たちがどういうふうに受け取るか、どういうふうに関心を払っているかということによって、この句の受け取り方が非常に違ってくる、ということなんでございます。これは、先ほどの私の申したことの裏づけにもなります。
許六の編纂いたしました「風俗文選」という本の中に、芭蕉が書いたといわれます。“銀河ノ序”という句文がございます。その中で、芭蕉は、自分の句につきまして、二つの点を指摘しております。一つは、佐渡というところは黄金が多く出て、世の宝となっているから、これはめでたい島である、ということ。それから、いま一つは、大罪・朝敵の類が遠流せられて恐ろしき名の聞えがある島ということ。つまり佐渡は、めでたい島であると同時に恐ろしい島であるという一つの想念が、芭蕉の中で重なっていたということです。
それから、この“銀河ノ序”の前段のところには、彼が佐渡を見ておりますと、ちょうど出雲崎は佐渡が目の前に見えるようでして、佐渡の谷の深さとか、山の襞とか、そういうものが全部見える。手に取るように佐渡が目の前に見える。おしかぶきるように見えてくる、という描写がございますが、そういう目の前にありありと佐渡を見ながら、その佐渡はめでたい島であると同時に恐ろしい島だ、という二つの想念が芭蕉の中に交叉しておったという、そういう、いわば 佐渡認識、それがあって、 初めて「荒海や」の句は生きてくるんではないかと思うんです。
しかし、単純に佐渡というだけの、海の上の島、つまり隠岐ノ島でもよい、いずれにしても日本海にある島、ある寒々とした、秋の早い土地にある島、そういう島ていどで受け取っておって、めでたき島であり、恐ろしき島としての佐渡が目の前にあって、旅をはるばると来た芭蕉が、それを海を越えて見ているということがなかったら、この句の幽遠さはわかってこないんじゃないか、こう私は思うわけです。
そうなりますと、佐渡という一つの、当時においても明瞭に社会的な事物、この事物の理解の度合い、関心の度合いというものによって、この句の評価がきまってくる、こういうことになります。
もっとはっきり申せば、「天の川」のほうに関心をもって受け取っておる人は、この句を、私が受け取るようには、受け取れないんじゃないかということです。逆に、佐渡という島のほうに関心を集約して、ここに流人がおり、金が掘られたという、何か妙に輝かしいものと、妙に暗いものとがだぶったイメージの島というものがあって、佐渡をみている者にとっては、はるかに、天の川の面から受け取っている者よりも、この句が複雑に受け取れ、天の川が深く感じられるということが、いえます。その受けとりかたも、いまなお生きている、そういうふうに私は思うわけでございます。そのことが一つです。
それから、季節感というふうなことにいたしましても、先ほどの汀女さんの「春の月」がございましたが、たとえば「枯木」というものが あります。そういうものにしても、決して同じではない。つまりかかわり方の違いによっては、ずいぶん違ってくるという例を端的にあげることができます。
飯田竜太の作品で好きな句があるんですが、それは
父母の亡き裏口開いて枯木山
という句です。竜太氏は、ご両親がいないわけですが、その裏口があいて、その裏口に枯木の山が密接するように見えるわけです。この場合の「枯木」、この「枯木」と、それから星野立子さんの句で、これはよく歳時記なんかにも出てまいりますが、
宇治にきてかくも水急枯木よし
宇治というのは京都の宇治ですね、宇治にきて、かくも水の流れが急である、枯木がいいなあ、というんです。こういう句の「枯木」というものは、明瞭に作者の「枯木」に対するかかわり方が違う。
竜太氏のほうに は、自分の心の世界の象徴として「枯木」というものを見ているわけですね、そういう形で「枯木」にかかわっている。ところが、立子さんの場合には、自分の季節感の媒介と申しますか、自分の季節感を語り合う相手として「枯木」を受け取っておられる。いわば非常に心情的な、やわらかい受け取り方をしている。それに対して竜太氏の場合は観念的な …… 的という言葉はあまり適切じゃありませんが、観念による受け取り方をしておられる。観念のアレゴリーとしての枯木です。そういう違いがあると思います。
そうなってまいりますと、同じ「枯木」を扱った、いわゆる季題を尊重される俳人におきましても、内容のまるで違う枯木が生まれてきて、内容のまるで違う 句が出てくる。
ご承知の蕪村の
葱買て枯木の中を帰りけり
の場合は、この「枯木」は人間と自然との対話でございます。これは季節感とか何とかということじゃなくて、やっぱり蕪村の自然に寄せる心、自然から蕪村に向かってくる呼びかけというふうなものの、両方の奇しき調和と申しますか、そういう接点にとらえられた「枯木」だと思うんですが、そういう意味では、まだまだ立子さんよりも主観的であり、竜太氏よりも客観的、こういうふうなところにあると思うんです。
そういうふうに、「枯木」一つをとりましても、かかわり方によって違ってくる。そうなってくれば、同じ「枯木」の句であっても、ある人は竜太氏の「父母の亡き」を永遠の句とし、ある人は 「宇治にきて」の立子 さんの句を、これこそ、まさに永遠の句として舌頭百転、あるいは千転させるということでございましょう。だか、結局、ことほどきように、自然詠とか、社会詠とかいうふうなことは、それへのかかわり方によって違ってくるということ、それが一つの根本的な 前提だということなんでございます。
その次に、それでは、そういうふうな、つまり、あれか、これかの議論じゃなくて、社会詠であっても、自然詠であっても、究極的に人をとらえているものは何かということになったとき、先ほど申しましたとおり、それは精神の形というふうなものを射止めたときだ、こういうふうに思うんでございます。精神の形というのは、まことに直感的ないい方で申しわけないんですが、非常に素朴に、私なんかいつも経験するんですが、たとえば中村草田男さんの句で、
金魚手向けん肉屋の鈎に彼奴を吊り
という句がございます。戦前の句ですが、あのやろう、非常にくやしいやつだ、だから、肉屋の牛や豚がつるしてあるあのかぎにあいつをつるして、こいつに金魚をたむけてやろう、ということでしょう。これは憎悪の句でございます。憎しみの句でございます。承るところによると、お金か何かのことで草田男さんがだまされて、その人を非常に憎んでいた句だそうです。つまり、そういう憎悪というふうなもの、憎しみというものを表現した句なんです。
しかし、どうも、この句は、私、そのときはおもしろいとは思いましたけども、あとから考えるというと、憎しみが一つの形として定着していないんではないか、ということなんです。つまり、まだ憎しみがムードとしての憎しみであって、ピシャとした形としての憎しみ、つまり、だれの胸からも共感を引きだすことのできるような、決まった形、そういう、いわば型を得た憎しみというふうなものにはなっていないんじゃないか、ムードなんじゃないか、そういう意味で、多分に気分的な句ではないか、こう思ったんでございます。
ほかにも、いろいろと例はございますが、たとえば高浜虚子の、
流れ行く大根の葉の早さかな
というのがございます。これなどは、やっぱり、さすがに人の口に常にのぼるように、あの人の無常感に基づく、流転の相への感応、人間の流転、生生流転と申しますか、それの感受、いわば流転感 …… 変ないい方ですが、流転感とでもいうようなものを、この句は見事に定着しているとおもいます。虚子の流転についての感応が、一つの型として射止められている。つまり、流転の相にふれて現われた虚子の精神の型を止どめ得ている、というふうないい方をしたいと思います。
それに較べますと、戦争が終わりまして、小諸からこちらに帰ってこられるときの、
爛々と昼の星見え菌生え
という現代俳人がこのみそうな、まあ私などは一時非常に拘泥したんですが、この句になりますと、これは燃えるような生命感というより、燃やしすぎて白痴的になってしまった感じがいたしまして、どうも、ある形としての受け取り方がむづかしい。むしろ虚子の、人をくったような面、無常感に立つ非常の構えを覗かせているもので、衣の下の鎧のような句ではないか、そのていどの、いささかはしゃぎすぎた句ではないだろうか、というふうな感じを持つわけです。
芭蕉四十八歳の作で、いつも私は好きな句ですが、
能なしの寝たし我をぎやうぎやうし
という句がございます。「能なし」というのは、要するに能なしで、何をやっても何もできないやつ。「ぎやうぎやうし」は「行行子」で、ギャアギャアなく葭切です。これなんか、表現はゆるいと思うんですけれども、私はアンニュイと申しますか、倦怠の世界というようなものを一つの型として、ここに射止めている句だと思います。そういう意味で、この句は、いつまでも残る句ではないかと思うわけです。このアンニュイには、青春の ときさえ感じられます。精神の若若しさでしょうか。
それから、「奥の細道」終わりのころの
あかあかと日は難面もあきの風
というふうな芭蕉の句などは、やっぱり、はるばると旅をきたときの、あの人の死生感というようなものが、一つのパターンとして射止められているという感じがするわけでございます。「細道」の中でも、あの句などは、明確に刻まれている句ではないだろうかと思います。それ以前の、だいぶ土地の名をおりこんだ句では、先ほどの佐渡の句以外、三、四を除いて、明確に形を刻んだ句はないんじゃないかと私は思うわけです。俳文学者からおしかりを受けるかもしれませんが ……。
そんなふうに、怒りでもいい、喜びでもいい、悲しみでもいい、愛でもいい、死生観でもいい、なんでもいいんですが、そういうふうなものが一つの型として、だれの心中にも刻印を押すように残されていくようなもの、つまり、ゆるぎなきひとつの悲しみであり、ゆるぎなき憎しみであるというふうなものになったときに、その作品は永久性を持つのではないか。永久という言葉も、非常に危険な言葉だと思いますけれども、一応、一時性という言葉に対してお許しを願いたいと思いますが ……。 永久性を持つんではないか、つまり作品としての次元が高いんじゃないか、こう思うわけでございます。
それに対しまして、憎しみがあり、悲しみがあり、あるいは、もっと進んで自分の思想内容、たとえば社会主義という一つの思想があり、あるいは自由主義という一つの思想がある。そういう一つの思想に基づく自分の思想世界、というふうなものを表現したものでも同じことでございますが、それはムードに流れ、あるいは単なるおしゃべりになり、あるいは単なる理論の伝達になっているというふうな状態のときは、どんなに見事に自然がこなされ、どんなに見事に 社会的事物が こなされても、その句は 一時性の句、流れてしまう句ではないかと思うわけでございます。
定型というふうなもの、特に俳句という最短定型詩を見るとき、いままでは五七五の文語定型の基本韻律、その韻律面を私は重く見てきたんですが、最近では、韻律面と同時に、定型空間とでも申しまょうか、空間性を非常に私は重要視する。この最短定型の 空間の中に、自分の思想なり、情感なりの精神の型を射止めたときこそ、その句は永遠性を持つものである、本質的なもので あるというふうに、最近は、はっきり思うようになりました。韻律は、それを色どるものである、それの血肉であると思うわけでございます。
そういう点で、私は、詩の中に自分の心的世界のさまざまなものを動かざる形として打ち出そうと願っている者にとって、最短定型詩型というものは、これはなかなかゆるがせにできない詩型であると思う。
最近、自由詩の人たちが、たとえば大岡信氏などがよくいっておりますが、いわゆる自由詩は型をもたない、ということを盛んにいいます。その型のないむなしさ、さびしさということを、彼らは痛感しているようですが、自由詩の人たちのいう型というのは、私のいまいう精神の形のことだと思うんです。そういうものがなかなか自由詩の中で書きとめきれない、ということのさびしさというようなもの、あるいはもどかしさというようなものを感じているように思うのですが、その点では、最短定型時型は、形式にしばられている間はだめですが、この空間を活用するならば、見事に自分の型を射止めるための媒体になり得るものではないだろうか、こんなふうに思っています。この辺はやや観念的な意見になりますけど、いつも私は、自分でそう考えておりますので申し上げます。
そこまでまいりまして言えることは、楠本氏のいうようなことは、大体において、いまの俳句の世界では常識論だと思うんです。したがって、いま、たまたま楠本氏を姐上にあげて、彼の説を批判したわけですけども、これは、俳人の大方の考えを批判したことになると思うんです。
ところで、自然詠ということを重く見る人、そして社会詠を逆に軽く見る人、そういう立場の人を、かりに伝統的な考え方を俳句に向かってする人と申し上げて差しつかえないかと思うんですが、そういう人たちにとって、私の申し上げました精神の型というふうなことが、どう受け取られているかと申しますと、そこに初めて伝統という問題がでてきているんではないだろうか、こう思っているわけでございます。
私たちの中には、ずうっと以前から、伝承とでもいいますか、精神伝達の世界、ずうっと昔からの日本人がさまざまに感じ考えてきた、その心的活動の世界 ……、 精神というのは、私は心的活動の総称と考えておりますが、その心的活動の世界、つまり精神の世界、それが伝承されてきているわけでございます。伝統的な考えをしている人というのは、その伝承されてきている精神の世界、というふうなものを非常に重く見ておられる方、そして、その伝承された精神世界に一種の権威を与えている。権威を与えることによって、伝承の精神世界をひとつの形として確立することにもなります。伝統(傍点)という考えが生まれます。
たとえば芭蕉の句の中に、無常観というふうなものがあるとすれば、その無常観は、芭蕉の句において一つの型をなして表現されているというふうにお受け取りになって、したがって、芭蕉の句に或る権威を与えて、その中に自分が入り込むことによって、伝統に参加したものと自覚する。そして、そこにある安定感を見い出す、そういう志向ではないかと思います。単純にいってしまえば、要するに、昔から伝承されてきた精神世界のなかに伝統を築き、それに積極的に参加してゆくことです。そこに安定感を見出すわけです。
現在は、先ほど幸綱氏の話にもありましたように、白々しい世界であり、頼りにならんこと、まことに多い世界であります。その端的なあらわれが、言語のたよりなさということになってあらわれていると思います。そういう時期におきまして、伝承されてきた精神世界、しかも権威ある型として明確に認知できる伝統の世界というふうなものに身をおくことは、最大の安息感を得ることである。また、そのことを一歩進めていえば、そういう白々しい現在に対する最大の抵抗でもある、というふうないい方ができるんではないかと思います。そういうふうに伝統的な立場の人は考えておるようです。
森澄雄氏とこのまえ話したときも、彼は、おれが芭蕉を読むということ、おれが伝統ということを非常に重要視するということは、そこに自分の安定を得たいからだ、というふうなことをいっておりました。これなど典型的な意見といえます。
それに対しまして、 私は、 現代的なものの考え方をする、いわば現代派というものを並立させます。じつは、この前、ある会合で、伝統的な考え方に立つ俳句を旧派と呼び、現代的なものの考え方に立つものを新派と呼んで、旧派と新派といいましたら、突如として部屋のすみのほうから、バカヤローとどなられたことがあったんですが、どうも旧とか、新とかいうと、旧と呼ばれた人は非常にコンプレックスを感ずるようですけれども、そんなことは実にこっけいな話でして、先ほど申しましたように、社会詠か、自然詠かというようなことを両方並べて、どっちがいいかというのと同じように、新がいいか、旧がいいか、なんということは、まことにこっけいな話なんです。
問題は、新しいものが典型としてあるか、古いものが典型としてあるかの問題だと思うんです。どちらかが典型としてでもあれば、古かろうと、新しかろうと、それは見事なもんだと私は思っております。社会詠がいいか、自然詠がいいかじゃないんだ、それが典型としてあればいいんです。私は、そのことをさっきからいっているんですが、そういう意味で、新とか、旧とかいうことに、あまりコンプレックスを感じないほうがいいと思っております。
また、ここでどなられちゃ困りますので、今度は伝統派と現代派といいなおします。その現代的な考え方をされる人というのは、伝承された精神世界に傾斜しようとは考えない人です。そうじゃなくて、現在ただいまの生きている現実の中から、自分の精神を形成して、その心象の形をつくり上げていきたい。それを、俳句をつくるものは俳句の中に射止めたい、短歌をつくるものは短歌で射止めたい、こう考えていると思うんです。一人は伝承世界を優先させて、そこに傾斜し、安定を得る。一人は、現在ただいまの現実のなかから、自分が獲得した心的世界、つまり精神のパターンに、形に傾斜し、それを最上と考えるということが、先ほど折笠氏が 動的というような ことを言ったけども、私はその現代派をもって自認しておりますから、つまり自分が刻みとったものを自分の中で型にする、それに依存するということは、まことに一見雄々しいことなんで、そういう意味じゃ動的といわれてもしょうがないと思うんですけど、これは頼るものがない、要するに一匹狼的な行為になるわけでございますね。
最近は、一匹狼になるのがこわいもんだから、みんな集団を組むわけですけども、私なども集団を組んでいますけども、集団でやるということには、一人でやる以上の効果があります。それはかまいませんけど、要するに、少なくとも一ぺん伝承世界を拒絶する。だから、自分が汲み取ったものが伝承世界と一致すれば、それはそれでかまわない。だから、かくいう金子兜太があと十年もたって、なんだ、あいつ、あんなえらそうなことをいったが、チャキチャキの伝統派じゃないか、といわれるかもしれない。それは、私が伝承世界に傾斜したんじゃないんで、自分が獲得した世界が、たまたま伝承の果実と一致したということなんです。それだけのことだ。だから、私の立場からいえば、たとえば、芭蕉が金子兜太をまねしたということなんです。そういういい方になるわけです。これは、まことに不遜ないい方のようにみえるかもしれませんが、すこしも不遜ではありません。また芭蕉の側からいえば、金子兜太も結局はおれと同じになったわい、ということなんです。つまり現代派の立場というのは、そういう苦労の多い立場だと思うんです。これは、なかなかつらいことですけども、また励みにもなることです。生きがいを感ずる場合もある。だから、表現に対するある喜びを感ずることもあるということでございます。
私にいわせれば、現在のなまなましいものから自分の精神を築き上げて、心象を築き上げて、その型を俳句に射止めていくという、こういうことをやることこそ、まさに芭蕉がいった不易と流行ということではないかと思います。
つまり、なまなましい現実が流行でございます。精神世界の型が不易でございます。それをなまなましい現実から刻みとってくる、ということが不易と流行だと思います。
それに対しまして、ともすれば伝統的な考え方をする俳人は、その不易にのみ依存して、流行の相を忘れる。あるいは軽く見る。あるいは流行の相を扱うことは一時的で、これは軽薄なことだというふうに考えがちであります。そういう点が私は危険じゃないかと思うんです。
「週刊朝日」の今週号ですが、あの中で「八月十五日の日記」というのを募集いたしまして、それの入選作品が発表されております。第一席は久米栄子さんという十八ぐらいの少女です。十八歳というと、最近ではりっぱな女性ですね。昔でいえば年増ぐらいになるのかもしれませんが、「戦争体験?ウンザリです」という題で書いております。これは、私、非常におもしろかったんです。こんど芥川賞をとりました庄司薫君の文章「赤頭巾ちゃん …… 」というやつ、あれなんかの文体と非常に似ておりまして、日常の会話体でしゃべっているとおりの言葉で書いているわけです。だから、文章語というものを意識しないおもしろさというのがある。ああいう若い人たちの中に、それが出てきたというのは、私は非常におもしろいと思っているんですけど、ただ、最短定型詩人としての、ここにおられる方々から見れば、これは非常に警戒すべきことだということかもしれません。しかし、私たち最短定型を やっている者は、ああいう、文章語を意識しない若い人たちの文体と言葉を存分に受けて、その中からわれわれの言語、いわば現在的な、これからの言語の世界を築き上げていくような努力をすべきだと、私は思うわけです。
その久米栄子さんが、要するに 戦中派とか 何とかいって、えらそうなおじさん方が、戦争で苦労しただの、ふすまを食ったの、自分の近所の人が殺されたの、という話ばかりしておる。しかし、話だけで、現在、何をするかということに、ちっともつながっていないじゃないか。そんなことは、いくら聞かされたって、けっこうですよ、もうたくさんだ。そういうことを書いているわけです。たしかに正しいと思います。
いつも戦中談だけに花を咲かせて、そして、現在に対しては尊大にふるまっている、説教者の立場であるというふうな大人たちは、当然、若い人から反撃されなきゃならないと、私は前から思っていましたから、そういう意味でも久米栄子さんのお考えには大賛成なんです。
最後にこう書いてあります。漫画か何か見て、これはいっているんですね。「日本人ておもしろいな。やっぱり時代性ってあるんだなと思う」。したがって、戦争体験というようなものも、時代性というふうなものの中で考えなきゃいかん。つまり、現在に有効であるべきよう考えなきゃいかん、というようなことだと思うんですが、これがまさに、私が申している俳句の中の現代派の考え方を代弁してくれているわけです。つまり時代性というものを非常に大事にしている。そして、欲ふかく、私は、同時に、その中に不易を射止めていきたい、つまり精神の型をとどめていきたい、こういうふうなことなんでございます。
こっけいということに到らないうちに、時間が終わりそうになってまいりまして、まことにこっけいなことになってきちゃったんですけれども、最後に、こっけいということについて申し上げてみたいと思います。新旧を問わず、伝統派を問わず、現代派を問わず、要するに問題は、各々の立場において、精神の型を俳句の中に射止めていくということが、これがまさに両方の共通点を得ることでもあるし、それがまた作品を永遠にするものでもあるというふうに思っているわけでしたが、その立場で俳句の世界を攻めてまいりまして、私自身がしみじみ感じますことは、やっぱり存在のおかしさということでございます。このことにぶつからざるを得ないんでございます。要するに現在を見つめていくということは、現代派にとっては、なによりも現在の人間を見つめていくということになってくるわけでございます。いっぽう、伝承世界を見つめていくということになりますと、俳句の場合には、どうも天然の世界を見つめていくということになってしまっています。しかし、そうではない。人間の世界に積極的に相渡ろうとする、伝統派俳人も出現していることは事実でありまして、若い作者にその傾向がつよいようにおもいますけれども、非常にはっきり分けると、そうだと思うんです。私は、その人間を見つめてきたつもりです。逆にいえば、それが現在を見つめている動機だと思っております。
そういたしますと、当然、そこで目に見えない、いわば不可視なものにぶつかってくる。特に私の場合は自分の中を見ると同時に、自分の外の社会のもろもろに対しても目をくばって、そこに蠢めく人間たちについて目をくばってまいった、そういうものから、俳句をつくりたい、こう思ってきたわけですが、そうすると、自分の中にもそうですが、自分の周囲の人たち、たとえばニクソンさんとか、ホー・チ・ミンさんとか、そういう人の中にも、何か目に見えないもの、不可視なものがうごめいているのを常に感じます。
それは、人間の感情というものが、目に見えない働きをしているんじゃないだろうかと思っています。つまり、人間というものを不可視な存在と感じさせる根本の原因の一つというか、最も決定的な原因といってもいいものは感情じゃないか、と痛感するわけです。その感情というものを見ておりますと、それを動かしているものは人間の本能だということを知ります。これは、自分に即して知ります。その本能というものを、さらに見ておりますというと、これは「自然」である。自然というものが、もしあるとすれば、人間の本能世界こそ、まさに自然というものでなのではないだろうか、そう思っております。
したがいまして、私は、先ほどから自然詠、自然詠なんていう言葉を申しましたけれども、厳格にいうときは、草や、木や、ワニや、蛇やというものは自然と呼ばず、天然と呼ぶことにしております。天然と自然というものは分けなきゃいかんのじゃないか。自然というものは、人間の中にすぐれてあるものであると、こういうふうに思っておるわけです。人間の中にある自然というものが、実に摩訶不思議なものでして、これは人間をわからなくしている。それが、実は、人間という存在のおかしさである。だから、非常に合理的な考え方をする人が、突如として実にばかばかしいことをやるということの根本原因というのは、そんなところにあるんじゃないか、そんなふうに思っているわけでございます。
この人間の中にある自然の世界というものを掌握したとき、初めて人間の心の型というものが認められるのではないだろうか、というか、もっと厳格にいえば、自然というものと密着した 状態で、たとえば 怒り、悲しみ、喜びとか、あるいは思想とかいうものがつかまえられれば、これは見事に生きた、なまなましいものとして定着できるんではないだろうか。なまなましいものであるということが、まず型として定着する大前提だと私は思うんです。
この前、石田吉貞という方の「隠者の文学」という本を読みましたところが、その中で石田さんが、わが国中世の隠者に三つの型があるということを書いておられました。一つは西行の型です。西行 というのは、いわゆる 自然とか、万有、そういうふうなものをじかに掌握しようとして努力した人だ。そういう意味では、万象の根本存在とでもいうべきものに猛烈と立ち向かった人だ。日本の、少なくとも短詩型文学の伝統は、西行と、それを受け継いだ芭蕉、その系列の中にあるというふうなことをいっています。つまり日本の文学の、特に短詩型文学における伝統というふうなものを見る場合には、西行の方式を見さだめる必要があるということを書いておられます。
それに対しましては、ほかに二つの型がある。その一人は「徒然草」を書いた兼好法師ですが、兼好の場合には人間生活を書いた。「徒然草」というのは人間生活についてのおもしろさ、おかしさの物語に満ちているわけですが、それによって、人間というもののおかしさを書いた。
それから、「方丈記」の鴨長明の場合がいま一つ。長明の場合は、自分の生活を書いた。ところが、兼好とか、長明の場合、結局、西行ほどに存在の深みにいたり得ていない。人間の流動の相にとらわれてしまった。そういう意味でも、中世隠者の三つの型の中で、西行が、文学の伝統になり得る基本を持っていた、というふうないい方をしておられます。
私にも、それは非常によくわかるわけです。また、じっさいにもそうだと思います。本当に伝統的な考え方をしておられる俳句作者たちは、西行、芭蕉の系列の中でお考えになっているんじゃないかと私は思います。その人たちの見定めている伝統というものは、そういうものだと思うんです。
しかし、私はあえて兼好の 道を自分では考えております。人間の中で人間を見つめることによって、兼好が「徒然草」で書ききれなかった人間の存在のおかしみのようなによって、私は何とか俳句の中に書きとめてみたい、こうものを、人間の持っている自然というものを射止めること思うわけでございます。それがまた、現代派といいますか、現代的に俳句を考えようとする者の根本的な立場でなければならないんじゃないか。それがもしほんとうに行なわれますと、いわゆるモダニズムとか、いわゆる前衛的アクロバットとかいわれるものは全部克服されてしまう。逆にいえば、そういう人間の存在のおかしさ、つまり、人間の自然というふうなものを見定めることのなかで、人間を書ききろうとする徹底した志向がない間は、現代俳句といわれるものは伝統俳句を乗りこえられないんではないか、そういうふうに私は思うんで ございます。 そういう意味で、現代というものは、それが白々しく荒廃していれば荒廃しているほど、私たちは、この現実の中に蠢めく人間の存在というものを明確に感じ、見てとって、それを俳句の中に置いていきたい、俳句としてあらわしていきたい。それができて初めて現代俳句は成立する。そのとき、それは「天然の中の自然」とでもいうべきものとかかわり得る。先ほど幸綱さんが「風」についていっていましたが、「風」という天然の現象の奥に、まさに自然としかいいようのない肉質が感じられますね。それは朝という時間の中においても感ずるし、「春」にも感ずるし、桜にも感ずる。私たちが、トンボならトンボ、ワニならワニ、蛇なら蛇、桜なら桜というものが、ほんとうの意味で共感を呼ぶときは、ワニならワニの格好じゃなくて、ワニの持っている妙に本能に響いてくるようなもの、つまり、こちらの自然にワニの自然が共鳴し合ったとき、それがほんとうに生きた形でおどり上がるように、私たちの中に飛び込んでくるわけでございます。
先ほど、「風」というものと、その「風」というものの実質というようなことを、幸綱さんがいっておられたと思いますが、「ワニ」という生きものと、「ワニ」というものの実質というものとは違うと思うんでございます。「ワニ」の実質は、「ワニ」の持っている自然なものだと私はいいます。それはなぜかといえば、「ワニ」の生きている本能が、こちらの自然の部分に感応しているからだと思うんです。それを私は、自分の自然が天然の自然と感応し合っている、というふうにいうんです。
秋深き隣は何をする人ぞ
という場合、これは軽みの世界にあって、隣人と芭蕉との相対の関係を、多分に情緒化して扱っている面がありまして、その点、人間の世界に深く立ち入った句だとは思わないわけです。むしろ、その隣人と芭蕉の間に漂う情緒のたゆたいのようなものが、逆に、この句の大衆性を保持していて、現在までも人口に膾炙されている原因だと私は思うんでございます。軽みのよさであり、拙さでありましょうか。しかし、そうは言っても、隣人と芭蕉の情緒関係のなかには、いや根本には、隣人という人間の存在を、その自然への感応をとおして、はっきりとらえておったと思うんです。それは、芭蕉も秋深き一人居の中で、おのれの全くズブな人間のなかに入っていたからできたのです。芭蕉の自然と隣人の自然の触れ合いを、芭蕉がつかむことによって、「秋深き …… 」の表白に到り得たわけです。
中村汀女さんの「春の月」の句にしても、「春の月」というものの持っている季節感とか何とかいいますが、そんなもんじゃない。「春の月」というものの、あの何か妙な生臭さ、なまなましさというものに、中村汀女という人間がたまたま偶然に入り得たから、この句の迫力が出てくるんじゃないかと思うわけです。このへんのところは、もっと言葉を費やさなければならないところですが、一応、直感的な意見としてお受け取りおき願いたいとおもいます。
私は、そういう意味で、人間の自然というものを射止めることによって、現代俳句というものは、初めて確固たるものができる。同時に、しかし、そのことは、伝統俳句が、やはり天然の自然を射止めたときでないと、今度は、だれをも感応させないということと同じだと思う。つまり、伝統俳句というものが、非常にたくさんの駄作をつくっている、という現状をごらんになってみればわかるとおり、これは、ただ天然のものが、天然のものとしてしか書かれていないからです。「桜」は「桜」であり、「ワニ」は「ワニ」であり、「蛇」は「蛇」にすぎないのです。その中のナチュラルなもの、自然なものが、作者の自然なものと感応していないから、その句は名句にならない、独自性を持たないと私は思うんです。
そういう意味におきまして、やっぱり伝統俳句のほうの側も、もしも自然詠を事とするならば、天然の自然に立ち入ってもらいたい。そこにおいて、初めて西行、芭蕉につながる存在の悲しみに照応することができましょう。現代俳人はまた、人間の自然の中に入って、それを射止めることによって、人間の存在のおかしみを射止めたい。それで初めて、伝統俳句も、現代俳句も、共通の地盤で語り合え、作品を見せ合え、評価し合うことができるんじゃないか、こんなふうに思うわけでございます。
まだ、あと二時間ぐらいしゃべる時間が与えられますならば、さらに、このことを布衍したいと思うんですが、きょうは直感論でごかんべん願いたいと思います。
最後に、こっけいということなんですが、存在のおかしみ、存在のかなしみ、存在のおもしろき、つまり存在というもの、それ自体が、私はこっけいだと思うんでございます。俳句におけるこっけいというものは、私は、人間存在のおかしみのことだと思ってみております。俳句は、こっけい精神である、というような ことをいわれておりますが、私はそういうものだと思っております。つまり、西行、芭蕉の伝統の中で受けとめたこっけいも、極まるところ、これであり、現代派の私たちが、現在ただいま、考えなきゃならないこっけいも、これであると思います。私は、こっけいというのをそう考えております。それは、かってな考え方だといわれるかもしれませんが、私はそう考えております。したがって、こっけいの基本は自然である。くどいようでございますが、その自然は天然にもあり、人間にもあるものだ、そう思うわけでございます。
そういい終わったとたんに、どうも自分が、その自然をほんとうに見ているの かというと、見ているんじゃなくて、ただ、皆さんの前で自分の自然をさらけ出して踊っているにすぎないような感じがしてきちゃって、どうも一番こっけいなのは金子兜太で、そのこっけいを見さだめているのは、聞いている皆さんだというふうな感じを持ちまして、先ほどいわれた、おまえは一口多いぞ、ということがまたここでよみがえってくるわけでございます。
これでおしまいにします。(第一回俳句研究全国俳句大会講演 · 俳句研究一九六九年一一月号)
『定型の詩法』所収/海程社1970