「海原」オンライン句会参加者からのリクエストにお応えして、毎月、金子兜太の言葉を抜き書きするコーナー「金子兜太・語録」を句会資料に設けています。同じ内容をこのコーナー「海原テラス」に転載します。
【三】率直に〈生活実感〉を
(『金子兜太の俳句入門』角川ソフィア文庫2012年より抜粋)
降る雪や明治は遠くなりにけり
中村草田男の句。コマーシャルに使われたりして、一般にもよく知られているものです。
昭和十年代の作ですから、そろそろ「明治は遠くなった」という思いが、人々の胸にただごとならず湧く時もあったのでしょう。今なら「大正も遠くなりにけり」。いや、「昭和」も。
とにかく率直な生活実感です。それに「降る雪や」がよい。これによって、生活実感は深く、しっかりと心に沈められ、句に定着させられています。
これを「雪降るや」と普通に書けばまだるっこくて「や」(切字といいます)の働きも鈍り、その後も間延びしてしまいます。この句から分かることは、まず、率直に生活実感をとらえること。次に、それを深め、定着させるのにふさわしい具体的な事実なり、情景なりをつかむこと―そういう作句経路のほうが初心者向きです。
体育祭遠く逃げるよ石灰線
青森県八戸工業高校在学時の内沢一君の作です。体育祭の時の実感を、そのまま句にしています。
体育祭のグラウンドには、たくさんの白線が描かれていて、それを見ているだけでもチラチラするくらいですが、ここを走っている時には、なおさらです。その感じが「逃げる」。どんどん自分から逃げていく感じなのです。それくらいに白線が鮮やかで、賑やか、といってもよい。つまり、この句では、体育祭で目に触れ、いかにも体育祭らしいと感じたものを、そのまま具体的に書いています。
まず、情景を書いておいて、それから盛り上がってくる実感は、情景の奥に秘めておくわけです。読者に感じ取ってもらうのです。
【四】実感と言葉
馬をさへながむる雪の朝かな
松尾芭蕉の句です。雪が降り積もった朝で、よく晴れています。はだか虫の洗濯といわれる時で、日にキラキラ光る白一色の世界に、馬が立っているのです。「ほう、馬がいる」という驚き、眩しいばかりの白雪の地上では、赤馬か黒馬か分かりませんが、これは目の憩いであり、新鮮な気分でもあります。「馬をさへながむる」というところに、それが表されています。
情景をそのまま書きとめて、実感を伝えている句ですが、こういう時の「雪の朝」は動きません。冬の季語の雪ということではなく、外すことのできない題材だからです。実感にとって代わることのできない言葉、といってもよい。
春の街馬を恍惚と見つつゆけり
石田波郷の句で、昭和初年代の作。「こうこつ」と馬を見ながら街を歩いていくのです。ただそれだけですが、春の生暖かくどこかボヤーッとした街の雰囲気と、馬に見とれている駘蕩たる気分がよく合っていて、しだいに、この馬の背が高くなって、ひときわ目立つように感じられてくるから妙です。
ここでも、春と馬は動きません。これは、そのものズバリの春の季節感ですが、その実感の中に馬はピッタリ収まっています。
銀行員に早春の馬唾充つ歯
私の句で、昭和二十五年(一九五〇)、四国高松での作。朝の急行列車に乗ろうとして、街を歩いていた時、仕事前の秣をモグモグ嚙んでいる馬に行き当たったのです。唾液がいっぱいでした。駅に向かう私も馬も、活力に満ちた朝で、その実感が「早春」という若々しい季節感を孕んだ言葉と「唾充つ歯」をとらえたのです。銀行員という少し堅い感じの言葉もよく合います。
(p14~17)