「生きもの」としての尊厳  柳生正名

『海原』No.15(2020/1/1発行)誌面より。
《誌上シンポジウム》金子兜太最後の句集『百年』を読む

「生きもの」としての尊厳  柳生正名

◆『百年』より五句鑑賞

 津波のあとに老女生きてあり死なぬ
 山影に人住み狼もありき
 炎天の墓碑まざとあり生きてきし
 わが師楸邨わが詩萬緑の草田男
 さすらいに入浴の日あり誰が決めた


 映画「天地悠々」で最も印象的な場面は兜太が最期に倒れる直前の最後のインタビューでした。そこで自身の残る人生をどう生きるかという問いに、師は一茶の生きざまに託し「何でもいいやい、死なねえやい」という言葉で答えました。
 この言葉に込められた切実な思いは私の選句で1句目に掲げた「生きてあり死なぬ」とイコールでしょう。3・11直後の作ですが、ひらがなで記された「あと」は後・跡・痕のいずれとも読め、「老女」も「兜太」「わたし」「あなた」とどんどんずらして受けとめることができます。
 実は冒頭の兜太の言葉は間違いなく、中村草田男の「浮浪児昼寝す『なんでもいいやい知らねえやい』」の記憶が最期に一茶の生き様と一体化し、口を突いて出たものでしょう。私の挙げた4句目では、兜太自身が最短定型詩の「詩」の部分を草田男に負っていることを認めています。あれだけ、激しい論争を交わした論敵の詩想が師の記憶の深層に根を張っていた証であり、兜太俳句がよって立つ根源を垣間見せてくれます。
 兜太がこの言葉を語ったインタビューの約1か月前、筆者を含む「海程」の10人ほどと一時入所中の施設で懇談の場が設けられました。この時、兜太は施設職員の女性の介護で入浴した体験を楽し気に語りました。これが「た」止めの印象的な最後の句の「入浴」でしょう。
 兜太の代表作「おおかみに螢が一つ付いていた」は各俳句総合誌による「平成を代表する句」投票で一位を獲得しました。昨年、平成最後の蛇笏賞を受賞した大牧宏の句集『朝の森』の帯に記された一句も「敗戦の年に案山子は立つてゐたか」。「た」は自由律俳句で多用され、その影響で渡辺白泉「戦争が廊下の奥に立っていた」など新興俳句にも登場しながら、戦後俳句に定着しませんでした。それが兜太の句をきっかけに平成の時代に強烈な存在感を示すようになった。私は文語の「けり」と同様、「た」は口語俳句における切れ字の位置を占めると考えています。兜太はこの切れ字「た」を俳句文体に定着させた存在として俳句史に位置づけられるでしょう。
 一方、今回、私が選んだ2句目は「き」止め。文法的には「た」も「き」も過去の助動詞ですが、一説によれば、後者は「過去に自分で直接経験したこと」を意味し、伝聞など間接的な経験は「けり」を使うのが「源氏物語」「枕草子」の時代には普通だったとされます。これに対し、明治になって生まれた「た」は直接、間接の両方を表現可能。直接経験か、間接経験か曖昧だった一句から10年以上を経て、狼の実像が兜太の直接的な記憶の中にしっかりと棲みついた「き」と受け止められます。実は『百年』には「き」やその連体形「し」が数多く見出され、特に追悼句に使われる例が目立ちます。兜太が日課にしていた毎朝の立禅で想起した人々や物事を偲ぶ句だからこそ「き」を使ったのではないでしょうか。
 そして3句目。終戦後、トラック島を去るときの「水脈の果て炎天の墓碑を置きて去る」を踏まえ、そのほぼ70年後に詠んだ句です。この兜太の戦後の人生が圧縮されたともいえる作の最後は、やはり実体験を示す「き」の連体形「し」で締めくくられます。
 実は『百年』の後記で安西篤代表が非常に重い事実を記しています。「ご子息、眞土氏によると、すでに2年ほど前から認知症の初期症状が出ていた」。周囲にいたわれわれには年齢相応の記憶力低下という以上のものには感じられなかったのですが、確かに往年の兜太の野生的な記憶力はすさまじく、旺盛な作句や評論活動の源となっていました。それと比べ、晩年の兜太自身が自分の過去の記憶と必死に向き合い、懸命に手繰り寄せる場面がしばしばあったのではないか。だから『百年』の中に「き」「し」が多用されたのだろうと想像します。

◆「生きもの」としての尊厳をもって

 人が「私」と言うとき、自分が体験してきた記憶の総体が前提になります。私は私の記憶が形作っている存在と言ってよい。だから重度の記憶障害では自分が誰であるかも分からなくなります。そんな時でも、私は「生きもの」としての尊厳をもって確かに在る―それが晩年、兜太が語った「存在者」ではないか。「俺が俺自身か、それとも別人かなんて何でもいいやい、俺はここに確かに存在し、死なねえ」という思いこそが、『百年』に収められた700余りの俳句のひとつひとつ、中でも今回、私が掲げた5句の中に込められている―。今『百年』を改めて読むことで、改めてそう感じずにはいられません。

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