『海原』No.61(2024/9/1発行)誌面より
シリーズ 十七文字の水脈を辿って 第7回(その4・最終回)
霧過ぎて鈴懸の実の逞しき(四)
~埋もれた異才の俳人・出澤珊太郎~ 齊藤しじみ
(一)揺れる心
「海程」の句風や兜太の俳句を批判した珊太郎。その俳句は昭和四一年以降、「海程」の誌面から姿を消してしまった。「海程」のバックナンバーをたどっていくと八年間の空白期間を経て昭和四九年四月号から再び珊太郎の作品が登場する。珊太郎はその空白の理由について告白していた。五九歳の時である。
兜太さんと俳句を共にしてから既に四〇年も経ち、自らの王道を子規・茂吉・草田男の系譜に求め、私なりに努力してきました。俳句は孤高の中からは生まれにくい宿命を持ち、作品の創作発表と仲間との切磋琢磨の中断は、俳句のスランプに通ずることをしみじみと反省し、最近は日夜句作に精進しています(「海程」昭和五二年四月号)。
「俳句創作のスランプ」という理由ではあったが、この告白の約半年後の「海程」の昭和五二年一一月号を最後にして珊太郎の句は再び姿を消し、今度は二度と掲載されることはなかった。
その一一月号に特別作品「帰らなむ」と題した珊太郎の一二句が掲載された。
「帰らなむ」とは、北原白秋の著名な歌「帰らなむ筑紫母国早や待つと今呼ぶ声の雲にこだます」を意識したのかもしれない。「仲間がいる古巣の萬緑に帰ろうではないか」という意味にも解釈できるが、結果として「海程」への別れの挨拶になった。その中の一句は、自分の半生を振り返るようであった。
黒衣めきて過ぎし歳月枇杷の花 珊太郎
珊太郎の長男の出澤研太さん(七四)からお借りした資料の中に珊太郎直筆の兜太宛の便せんが一枚含まれていた。体裁からは手紙の下書きと思われるが、実際に兜太のもとに届いたのか、具体的にいつ書いたのかはわからないが、内容からはおそらく「帰らなむ」の掲載時期の前後と推測される。そこには「海程」から「萬緑」へ移る決断と内情が綴られていた。その一部を原文のママに紹介する(写真1)。
拝啓
他の結社の同人は万緑の同人にしないという原則論による、万緑同人達の要求により不本意乍ら海程同人を辞任するの止むなきに至りました。(中略)貴兄との友情その他に関して私は変ってをりません。万緑内の私の立場が固まりましたら改めた行動に移つる考えですが、これは誰にも云わないで下さい。(中略)とても深刻につらいのです。
5/24 朝六時 敬具
金子兜太様 出澤珊太郎
(二)「萬緑」への復帰
学生時代の「成層圏」の仲間の多くが所属した「萬緑」に珊太郎はその旗揚げにかかわったものの、昭和二九年以降はその句が誌面に掲載されることはほとんどなく、深いかかわりが続いていたとは思えない。
珊太郎と旧制水戸高校時代から生涯付き合いのあった一学年上の作間正雄は「萬緑」(昭和五五年一一月号)で、珊太郎が会社の経営に追われて俳句に本格的に取り組む余裕がなかった事情とともに、珊太郎の心情を明らかにしていた。
本来が草田男崇拝者で本格的な写生俳句の道を歩んだ彼(珊太郎)が「海程」のような俳句ができる筈がなく、其処にも友情と芸術的な主張を一緒にする楽天的な人の好さがあったと思う。
彼が金子氏との友情は存続させても俳句的に「萬緑」一本に絞ろうと思い立ったのは昭和四〇年頃であって(中略)「萬緑」に投句を欠かさなくなったのは昭和五〇年頃からである。其の頃私も彼に相談を受け岡田海市氏(注釈①)と共に、一から出発しようとする彼の気持を激励した事がある。兎に角俳壇的虚名を捨て真摯に俳句を作ろうとする態度には打たれるものがあったので草田男先生にこのことを伝えた覚えがある。
また、作間氏は珊太郎が昭和四五年ごろから「星景太」などの異なる俳号で「萬緑」に作品を発表していた秘密も明かしている。あらためて「萬緑」のバックナンバーを調べると、「星景太」の名前がたまに出てくる。
共に老いて母娘疎遠や実南天 星景太 (「萬緑」昭和四五年二月号)
珊太郎の俳号の作品が「萬緑」に定期的に登場するのは、実際には昭和五一年二月号からになるが、結果的には、珊太郎は濃淡ありながらも昭和四〇年代から五〇年代初めにかけて「海程」と「萬緑」の二つの結社にかかわっていたことになる。
珊太郎は昭和五五年一〇月、六三歳の時に「萬緑」の同人に昇格した。学生時代の俳句仲間には「萬緑」ですでに同人として活躍していた者が複数いたことを考えると遅きに失した感がある。しかし、珊太郎が当時多くの人に同人昇格を知らせていたことから、その喜びはひとしおだったようである。
(三)俳句誌「すずかけ」の旗揚げ
「海程」への別れと「萬緑」への本格的な復帰を果たした珊太郎。時期は少し遡るが、珊太郎はようやく自分の居場所を探し当てたかのように俳句誌「すずかけ」を昭和五一年一二月に発行する。五九歳の時である。「すずかけ」の名前は珊太郎の旧制水戸高校時代の代表作「霧過ぎて鈴懸の実の逞しき」にちなんでいる(写真2)。
創刊号はA5サイズのわずか四ページのホチキス止めのタイプ印刷で、三〇人の俳句が掲載されている。出身の麻布中学や旧制水戸高校や東京帝国大学時代の同窓生をはじめ、当時住んでいた世田谷区の地元老人クラブの人たちが中心だった。
並行して、珊太郎の自宅では月一回の句会も開かれるようになった。
「すずかけ」は毎月発行され、翌年の一月号で珊太郎はこの俳句誌にかける熱き思いを書いている。その一部を原文のママ紹介する。
私個人としては子規―アララギ(茂吉)―草田男(万緑)を現代短歌俳句の正統とし、その王道を発展進歩させるべきだと信じていますが、この「すずかけ」の場は広く各俳誌所属作家に公開し、自由に作品評論等を発表して戴ける「場」とします。(中略)会員の熱意と急増により、発展させて俳句の総合誌、主宰誌、同人誌等の長所を兼ねた新感覚の独自な俳句誌としたいと念願しています。
「すずかけ」は発行を重ねるにつれて俳句誌としての体裁が徐々に整い、しばらくして表紙がつき、ページ数も一〇数ページに増え、後にタイプ印刷からオフセット印刷に代わり、常に毎号二〇人から三〇人が出句するようになっていった。
また、誌面には会員の俳句や句評だけでなく、外国留学中の大学教授からの便りや國學院大學出身の教師による金田一京助や角川源義との思い出話などのエッセイも随時掲載されるようになった。
加えて珊太郎は海外に俳句を紹介しようという夢を抱き、英訳した会員の作品も誌面で紹介することも始めていた。
霧過ぎて鈴懸の実の逞しき
Being the fog cleared up, The nuts of the
plane-trees, Seen so sturdy
「編集後記」には毎号珊太郎がしばしば「すずかけ」の方向性について自らの思いを書いていた。
この俳句誌は主宰誌としたくない。各人の能力を育てて異質多様な各種作品の開花を楽しむのが主眼である。自由な発言の場としたい。私個人が草田男氏を師としてその師系にあることは私個人の自由意志による信念である。しかし、本誌は私個人と反対の意見も掲載してゆく。(昭和五三年七月号)
珊太郎は有名俳人の俳句鑑賞の連載のほか、「ねむの花」という俳句を題材にしたエッセイの長期連載も持ち、そのテーマは多岐にわたったが、その中に兜太の句に寄せた一文があった。兜太に対する珊太郎の変わらぬ俳句観がわかるので、原文のママ一部を紹介する。
山には枯畑谷には思惟なくただ澄む水 兜太
若き頃からの古き親友、金子を愛する私は、この「思惟なく」を捨てて欲しいとねがっている。このような観念、思想、概念を詠うのは俳句としてはむつかしいからである。(中略)。社会性、造型とスローガンを掲げるようになると、そのことにより逆に作風が限定されて、かたくるしくなってきていると残念に思っている。(昭和五三年一二月号)
(四)句縁の広がり
「すずかけ」の誌面からは、俳句誌の発行だけにとどまらない珊太郎の八面六臂とも言える活動ぶりも見えてくる。
月に一度の句会については、当初は珊太郎の世田谷区の自宅で開かれていたが、参加者が多くなったため、昭和五四年六月から渋谷駅から徒歩一〇分ほどの渋谷区勤労福祉会館の会議室に会場を移した。参加者のある一人は当時の句会の様子について書いている。
実に和気藹々、結社俳句の世界に見られぬ「すずかけ」ならではのいい雰囲気。ここには先生も弟子もいない。皆自由で平等である。(中略)だからめいめい勝手な熱を吹き合って何のわだかまりも残さない。これが本当の俳諧、連衆の文芸に生きる喜びだ。(昭和五六年四月号)
昭和五三年一一月には、旧制水戸高校俳句会のOB句会が開かれ、珊太郎をはじめ一二人が出席した。おそらく珊太郎が発起人であっただろう。それ以降、この句会は定期的に開かれるようになる。
失ふ友得る友いわし雲流る 珊太郎(句会での句)
また、昭和五四年一月から、珊太郎は文京区本郷の学士会館を会場に「成層圏」復活と称して学生時代の友人らに呼び掛けた句会を毎月開くようになった。
「光年」の語に安らぎて寝正月 珊太郎(句会での句)
さらに、昭和五六年八月には珊太郎が代表幹事になって「一高・松山・水戸・静岡」の旧制高校四校の出身者に呼び掛けて「交歓俳句大会」を開いている。四〇人近い参加者があり、年に四回開いていくことを決めている。
一方、昭和五四年一一月のことだが、「成層圏」の指導者だった竹下しづの女の生家のあった福岡県行橋市にしづの女の句碑が建立された。句碑に刻まれた句はしづの女の名をかつて俳壇に知らしめた「ホトトギス」の巻頭句だった。
緑蔭や矢を獲ては鳴る白き的 しづの女
「鈴懸」の句を初めて高く評価してくれたとあって、珊太郎は除幕式に馳せ参じ、次の句を詠んだ。
末席はひつじ田の畔句碑開 珊太郎
また、句碑建立を記念した俳句大会が地元の小学校で開かれた。珊太郎は山口誓子や大野林火などの大御所と並び、大会の選者を務めるという大役を担った。おそらく、しづの女の次男で当時、九州大学教授の竹下健次郎と戦後も交友関係が続いていたことが栄えある選者になった背景にはあったのだろう。
(五)晩年の俳句と家族
草田男を師と仰いだ珊太郎の俳句はどのような特徴があったのだろうか。「すずかけ」創刊時の珊太郎は五九歳、亡くなったのは六七歳だったので、「すずかけ」の時代は晩年とも言える。その特徴は、一つは「家族」である妻と一男三女それに孫、もう一つは自己の「境涯」をそれぞれ題材にした句が多いことだ(年は和暦)。
【家族】
孫得し夕の地下街に滝迸り (五一年)
朝寝の娘らの窓閉じて初の蝶 (五二年)
足裏より砂崩るごと嫁ぎ去り (五二年)
孫の鳴く声にて終り初電話 (五三年)
十薬が庭にひろがり孫生れし (五四年)
晩夏光掌の皺を娘に伸ばされて (五六年)
「父が悪い」でおさまる家族いわし雲 (五七年)
妻子らに父の沈黙の威秋晴るる (五八年)
柳の芽妻と無言のあたたかさ (五九年)
薄氷ただ見守るのみ未婚の娘 (六〇年)
珊太郎は一六年前に亡くなった妻・貴美子との間に昭和二〇年生まれの長女を筆頭に一男三女に恵まれた。
長女の道子さん(七九)は結婚する三〇歳まで珊太郎と自宅で暮した。道子さんの話では「早寝早起きの珊太郎とは生活時間帯が異なることもあって、父娘の間で会話らしい会話をした記憶もほとんどなく、叱られたり褒められたりしたこともなかった」という。肉親の愛を知らずに生まれ育った珊太郎にとって家族は何にも増してかけがえのない存在だったであろう。それが直接の愛情表現の代わりに、一七文字としてあふれ出たのではないか。珊太郎が幼き頃の道子さんのことを詠んだ句がある。
道子よ赤いぐみの実でおはじきし 珊太郎
道子さんは珊太郎の父親の星一、つまり祖父にとっては初孫にあたる。幼少期には箱根の別荘で星一に抱っこされたという話が伝えられているが、記憶の中の祖父はかつて自宅に飾られていた遺影にしか残っていないという。
また、道子さんの長女は珊太郎にとって初孫にあたる。生まれたのは昭和五一年一〇月で、その頃、珊太郎は孫の句を多く詠んでいる。
孫得し夕の猫が水舐む刻長し (五二年)
孫の掌握るや浅瀬きらきら秋の風 (五三年)
長男の研太さんは珊太郎の母校で新制の麻布中学・高校の出身で、一〇年余り前に日本IBM常務執行役員を退任後、現在はホームページの制作会社の社長を務めている。息子から見た珊太郎は責任感が強く、他人に尽くすことを厭わない性格で、かつて自宅に額縁で飾ってあった宮沢賢治の『雨ニモマケズ』の人物像にイメージが重なるという。
また、珊太郎が安定した職を得ていれば、好きな俳句にしっかり取り組めたのではないかと今でも思うことがあるという。
その生き方を通して研太さんが学び、信条としたのは「過ぎた事の愚痴は絶対に言わないこと」で、確かに珊太郎の「境涯」俳句にも反映されている印象を受ける。
【境涯】
冬欅朝映え晩年展けくる (五一年)
茗荷掘る余生ゆたかと信じつつ (五二年)
落丁多き生涯なりしよ植樹祭 (五三年)
梅雨夜風多芸小才をいましめて (五四年)
新涼の夜風よ余生永かれと (五六年)
定年の無き職愉し火焔草 (五七年)
二十年生き抜くと決め梅雨の薔薇 (五七年)
余生には遠き忙しさ寒椿 (五八年)
死後が見ゆすずかけ黒き実の数多 (五九年)
寒桜余生はなりゆきまかせかな (六〇年)
研太さんは珊太郎から俳句を勧められ、小学六年生の時に「海程」(昭和三七年一二月号)に初めて句が掲載された。珊太郎は大変喜んでくれたというが、名前は「出澤研太」ではなく「星研太」だった。俳句は結局長続きしなかったが、その句は今でもそらんじることができる(注釈②)。
日かげのポプラさらさら落ちて水飲む子
研太さんは珊太郎の出自については直接本人から聞いたことはない。その生い立ちのことや小学生の頃から作品を愛読した星新一が父の弟にあたることは母から聞いたのではないかと振り返る。
(六)早すぎた突然の死
昭和五七年以降の「すずかけ」は毎号作品が掲載される会員は五〇人~六〇人に上り、誌面も二〇ページを超えるまでになった(写真7)。
また、都内での句会だけでなく千葉県や神奈川県それに多摩地区でも会員同士の句会も開かれるようになった。当時の誌面によれば会員数は一〇〇人に達する見込みという記述もあり、少なくとも「同人」に名前を連ねた人は三六人いた。
亡くなる年の昭和六〇年になると、「すずかけ」での珊太郎の句は、死や老いを強く意識した「境涯」が一層色濃く漂うようになった。
一月号 死は近き遠きかも冬銀河
二月号 そのひとはいない木椅子に初雀
三月号 後悔のむなしさ風花口に受け
四月号 昭和老い童となりて冬木佇ち
五月号 妻なき友の合掌かなし花吹雪
珊太郎は心臓病の薬を持ち歩いていたというが、その死に前触れはなく、家族にとっては驚きであった。亡くなる前日には、昼間は母校の麻布学園創立九〇周年記念式典に出席し、夜は自宅で「すずかけ」六月号の編集を済ませていた。
昭和六〇年五月一七日の朝、寝床から起きてこないことから、妻の貴美子が異変に気づいた。享年六七。死因は心臓弁膜症だった。当時の平均寿命の七三歳にも届かない、早すぎる死でもあった。
研太さんは珊太郎を知る人たちに電話で連絡を次々にとったが、その中には母から初めて電話番号を教えてもらった星新一も含まれていた。叔父にあたる星新一と話すのはこの時が初めてだった。それは星新一の日記にも記されていた。
出沢三太死すとのtelあり。ムスコより (※出典①)
兜太は外出先で妻の皆子からの電話で知った。重要なものの喪失感を覚えたという兜太は通夜に足を運ぶとともに珊太郎の死を悼む句を詠んだ。
椎匂う波乱の生にというべき死 兜太(※出典②)
「海程」を去った珊太郎と兜太の友情は生涯断たれることはなかったようだ。兜太は珊太郎が亡くなった後に出版された本に次のような感謝の気持ちを吐露している。
あなた(珊太郎)のおかげで、いろいろな人間に会え、さまざまに勉強し、あれこれと楽しむことができた。あなたとの出会いがなければ、私の人生は貧相なものに終っていたにちがいない。(※出典③)
珊太郎の葬儀は自宅に近い世田谷区の浄真寺で営まれた。参列者は無名の民間人としては異例とも言えるほど多い四〇〇人近くに上り、その中には星新一の姿があった。貴美子を除いては研太さんをはじめ四人の子どもにとっては初対面だった。
実は珊太郎は生前、星新一とは趣味の碁を互いに打つほどの関係ができていたという。星新一も星一の後継者とされながら実業の世界では成功せず小説の創作に身を投じたことを考えると、二人の間には相通じる点があったのだろうか。
珊太郎の死は交友関係のあった多くの者に大きなショックを与えた。「すずかけ」は事実上、珊太郎が代表で、実務者でもあったため、亡くなった年の九月号をもって創刊から八年余り、一〇〇号を超える発行の歴史に終止符を打った。九月号は「珊太郎追悼号」として俳句仲間から寄せられた追悼文が掲載された。
研太さんは死後まもなく、珊太郎が俳句を書き留めていた一〇冊余りの大学ノートを見つけた。晩年は息をするように毎日たくさんの俳句を詠んでいたというが、最も新しい大学ノートには亡くなる二日前の俳句があわせて二一句あった。そこには生涯その存在さえ知ることができなかった生母を詠んだ句も含まれていた。
母知らぬことかみしめて春の雪 珊太郎
珊太郎が亡くなった年の秋、星新一は講演に呼ばれて、星一の故郷である福島県いわき市を訪ねている。そこで珊太郎の実母の存在を探ろうと地元の親類筋から話を聞いた。しかし、何の手がかりも得られず、その旨の手紙を貴美子宛てに送っていたという。
珊太郎は亡くなる年にも「すずかけ」に星一を慕う句を残している。
吾を救ふ亡父ある幸よ樹々芽吹く 珊太郎
珊太郎の誕生日は星一と同じ一二月二五日、しかも本名の三太は星一の父親、つまり祖父の喜三太から取られていた。そのことから、星一はおそらく産まれた時には珊太郎を星家の血脈の正統な男児としてみなしていたと考えられる。珊太郎もそんな父の期待に応えようとして必ずしも性格や夢に合わなかったと思われる実業の世界に足を踏み入れたのだろう。
(七)終章―珊太郎と鈴懸
珊太郎が亡くなって六年後の平成三年に珊太郎の句集が旧制水戸高校時代の同窓生の手によって発行された(写真9)。五〇年以上の俳句歴を誇った珊太郎にとっては初めての句集であった。句集の編集後記で同窓生の一人は珊太郎の人となりについて記していた。
学生時代を含めて先輩・後輩を問わず彼の活動によって俳句を知り、道を開いてもらったものは数知れない。晩年においても、辺幅を飾らない彼の周りには、老若・性別に関わらず多くの人が蝟集して句作の楽しみを教えられた。
この原稿を書き終えた七月下旬に、私は新宿御苑を訪ねた。半年前の冬の時期には骨格標本のような裸の枝だった鈴懸は緑の葉で膨らみ、幹が見えないほど鬱蒼と生い茂っていた(写真10)。
旧制水戸高校の学生寮どうしをつなぐ通路に沿って続いていた鈴懸の並木。珊太郎は冬には葉を落として暖かな日差しを、夏には涼しげな緑陰をそれぞれ与えてくれる鈴懸に心惹かれていたという。
早熟で埋もれた異才の俳人と言える珊太郎が亡くなって来年で四〇年になる。人生に仮定は成り立たないことは承知の上で言わせていただけば、戦後も珊太郎が俳句の世界に身を投じていれば、おそらく昭和の著名俳人の一人には数えられていたであろう。
また、珊太郎が俳人兜太の生みの親だったことを考えれば、「海程」や「海原」に集った者にとっても「鈴懸」と言える存在かもしれない。青々とした葉をたくさん枝にまとい、山の峰のような「鈴懸」を見上げながら、そう思わずにはいられなかった。(了)
※文中では一部の方を除き敬称略とした。また、珊太郎および家族の過去の写真はいずれも研太さんから提供を受けた。(本ウェブサイト上ではご家族の写真掲載は割愛しました)
【主な参考文献】
・『星新一 一一〇一話をつくった人』(最相葉月著・新潮社)
・茨城県立図書館、水戸市立中央図書館、水戸市立博物館には郷土資料の調べや閲覧などでお世話になりました。
【出典】
①参考文献と同じ
②『金子兜太戦後俳句日記第2巻』(白水社)
③『遠い句近い句―わが愛句鑑賞』(金子兜太著・富士見書房)
【注釈】
①「萬緑」の同人で、珊太郎の高校大学時代の先輩。元朝日新聞記者で、朝日ジャーナル編集長などを歴任。
②研太さんの記憶とは句の一部が異なるが、本稿では「海程」掲載の句をそのまま掲載した。