『海原』No.58(2024/5/1発行)誌面より
シリーズ 十七文字の水脈を辿って 第7回
霧過ぎて鈴懸の実の逞しき(一)
〜埋もれた異才の俳人・出澤珊太郎〜 齊藤しじみ
序章
誰にでも、この人には敵わないという人物がいるものだが、出澤珊太郎という人は私にとってはその一人だった。いや、おおぜいの人がそうだったのではないか(略)私が俳句をつくるようになったのも、この人の魅力の故であって、出澤さんのあとを付いてまわり、いろいろのことを教えてもらった。
金子兜太(敬称略・以下兜太)が出澤(敬称略)の遺句集に寄せた序文の一節である。
兜太が出澤と出会わなければ、私たちの知る「俳人 金子兜太」はおそらく生まれなかったであろう。
兜太が生前、敬愛してやまなかった出澤は兜太の旧制水戸高校の一年先輩で、大学も同じ東京帝国大学経済学部に学んだ。
また、出澤は「海程」の旗揚げの中心人物の一人であり、晩年には中村草田男の「萬緑」の同人の傍ら、自ら俳句誌を一〇年近く発行し続けたが、昭和六〇年に心不全で六七歳の生涯を閉じた。その人生をたどると昭和の俳句史に明白な足跡を残している。「埋もれた異才の俳人」と言える出澤の人生と俳句を来年で死後四〇年になるのを前に三回の連載で書きとめておきたい。
なお、以下の文中での出澤の名前は本名の「三太」ではなく、俳号の「珊太郎」を使用する。高村光太郎や萩原朔太郎を敬慕していたことが俳号の所以という。
(一)珊太郎の生い立ち
珊太郎の実の父親は実業家の星一(明治六年〜昭和二六年)であることは兜太をはじめ親交のあった人たちにとっては周知のことであった。星は星製薬の創業者、星薬科大学の創立者、国会議員も務めた立志伝中の人物で知られ、その長男はSF作家の星新一(大正一五年〜平成九年)になる。珊太郎はその星新一の九歳上の異母兄にもあたるが、「星」姓を名乗れず、実の母親を生涯知ることができなかった出自は珊太郎の人生や俳句に影響を与えることになる。
大正六年生まれの珊太郎は現在の都内港区に住む血縁関係のない医師の家で育てられ、私立の麻布中学を卒業後、昭和一一年に旧制水戸高校(以下・水戸高校)に入学した。同期は一四六人で、学校が茨城県にあっても入学者のうち東京の中学出身者が五七人と全体の四割近くを占めた。水戸高校は「北関東の秀才と東京の半不良中学生の混成」とも揶揄されたが、珊太郎は中学時代から文芸を嗜む優等生だったようだ。
大正九年設立の水戸高校は戦前約四〇校あった旧制高校の一つで、戦後の学制改革で廃校になったが、同窓生は五〇〇〇人を超える。旧制高校生は同年代の一%も満たない若きエリートで、選り好みをしなければどこかの帝国大学には入学できたことから、珊太郎のような文科の学生は高校生活を謳歌できたようだ。
珊太郎は昭和三七年発行の「海程」の創刊号から「わが俳句的遍歴」という四回連載の自伝を掲載し、高校や大学での思い出を綴っているが、当時の雰囲気が伝わる一節を紹介する。
水戸の街は馬の背のような丘の上に長々と続いた古ぼけた城下町である。この東の丘陵地帯の高校に私が入学したのは昭和十一年四月で、二・二六事件あって間もない頃、右翼思想が急激に日本をゆすぶり始めていたが高校内の自由主義、個人主義の伝統はまだがっちりで、残っており、誇り高き自治寮で古き良き時代の高校生活を三年間体験した。
当時の高等学校とは学問をするのではなくて、まるで運動部に入り寮生活のなかで心身を鍛練するのが目的のようだった。私は籠球部を選んだ。(略)夜はよくコンパと称して菓子など食べながら駄弁ったものだったが、皆が寝しずまったころ私はふとんのなかで読書に耽った(写真1)。
弊衣破帽に長髪で無精ひげという風情だったという珊太郎は乱読生活の中でしだいに関心が俳句や短歌に移り、心の中で発酵するように句が浮かんでくるので、枕元から紙と鉛筆を手放せなくなったようだ。
(二)水戸高校俳句会の誕生
一人で句作を続けていた珊太郎は二年生の秋に学内である行動を起こした。俳句仲間を求めて、籠球部の部長の長谷川四郎教授に相談を持ち掛けた。長谷川教授は東京帝国大学の首席組、旧制第一高校時代は芥川龍之介と同級生で、学生からは独特の髪型から「おわんちゃん」と呼ばれた名物教授だった。その長谷川教授は俳句に造詣の深い同僚の吉田良治教授を紹介し、昭和一二年一一月に初めての句会が吉田教授の自宅で開かれた。水戸高校俳句会の誕生である。長谷川教授は後に自著で「出沢三太は、同俳句会の実際の設立者であった」と明言している(注①)(写真2)。
一回目の句会の出席者は学生七人、長谷川・吉田両教授、大学職員三人の一二人だった。ここでの珊太郎の句は六句ある。
霧過ぎて鈴懸の實の逞しき
路地忙し童ら秋日をひさに浴び
鶯鳴くや一望の刈田月に照らふ
雑踏や夜霧の底の書肆ひろし
秋堤あかねの雲を童ら呼ぶ
栗噛んで逍遥に思ふこと遠し
冒頭の句の「鈴懸(すずかけ)」は一般に「プラタナス」と呼ばれ、水戸高校の七棟あった学生寮のまわりに植えられていた。珊太郎は夏には緑陰、冬には葉を落として日差しを与えてくれる「すずかけ」に心惹かれていたという(写真3・4)。
(三)兜太との出会い
珊太郎と兜太が知り合うきっかけは、兜太の記憶では水戸の偕楽園の白梅が咲き始めていた頃に高校生たちがよく集まる飲み屋の女将が「さんちゃん」「とうちゃん」という似た名前を面白がって結び付けたという(注②)。
また、学生寮の自治を担う「委員会」で、二人は同時期に委員を務めていたので、面識が元々あったことも考えられる。柔道部所属の兜太は珊太郎の誘いで昭和一三年一月の三回目の句会に初めて参加したが、その経緯を次のように回想している。
ある日、出沢が「金子、お前、俳句をやらんか」と言われたけれど、中学生のころからお袋に「俳句なんかやっちゃいかん。(略)」と言われていたんです。そう告げると「母親に言われたぐらいでやらないなんて。男じゃねえ」と皆の前で罵倒されました(注③)。
翌二月の四回目の句会で、兜太は初めて出した句「白梅や老子無心の旅に住む」が好評だったという話は知られているが、珊太郎は兜太の俳句の才能について振り返って評価している。
金子は俳句会の仲間の中で最初から飛躍して光っていた。私は金子の素質に気がつき、他の連中と判然と区別し始めた。(略)金子に対して誠に私は悪い先輩だった。ましてや「俳句という麻薬」を常用させ、治療不能の重症患者になる。「きっかけ」を与えたことは七分の「後むきの悔い」もあるが、三分の「前むきの誇り」も私の心の奥底にひそんでいる(注④)。
句会の後は皆で夜を徹して酒場で安酒を飲み論じ合うのが習わしで、珊太郎は朝方に寮に戻っては授業にも出ずに昼頃まで眠るという生活を送っていたという。
(四)珊太郎の才気
高校時代の珊太郎について、兜太はさまざまな回想の中で語っているが、そのいくつかを紹介する。
●自由人で、ほとんど学校にも行かないで酒を飲んでいる。(略)俳句を作って小説を書いて詩を書いて、ブラブラブラブラ。(略)東京へも帰らない。年中、水戸にいて、水戸でブラブラブラブラしていたんです。それが私から見るとたいへん魅力的な先輩だった(注⑤)。
●スポーツマンとしても優秀だったんですが、文芸関係が特に優れていました。学生相手のいろいろな雑誌や新聞が、当時もたくさんありました。それに彼は小説を出し、詩を書き、短歌を書き、俳句を書き、川柳も書く。六種類ぐらいのものを自由自在に書いて、どんどんどんどん応募している。しかも、それがみんな優秀(注⑥)
●出沢のことは奇才、天才だと僕は思っている。出沢は当時、英語教育で有名な麻布中学校を出て、英語は抜群にできた。水戸高で英語の教師が、麻布からきた出沢を知っていて、「君は来なくていいよ」と言ったほどでねえ。(略)出沢は結局三年間欠席して東大に入っちゃった(前掲注③)。
また、同学年の友人の一人は寮の炬燵で珊太郎の話に耳を傾けた思い出を書いている。
聞かされたのは子規、虚子から始まって秋桜子の造反、誓子、草城らの新興俳句、有季、無季論、そして中村草田男の話だった。それは眩しいほどの物語であり、彼はその流れに棹をさしてゆく希望に輝いて見えた。(略)彼の語る俳句の世界は、私には凡俗の近寄れぬ天才達の花園に見えた(注⑦)。
ところで、当時の学生寮発行の新聞「暁鐘寮報」(水戸市立博物館所蔵)に、珊太郎は「晩秋紀行」という題で茨城県北部を旅行した俳句を添えた紀行文、紙面一ページ全面で展開した著名俳人の俳句評論、それに俳句界の啄木と呼ばれた大正期の俳人富田木歩を紹介した記事をそれぞれ署名入りで発表している。
また、当時の学生寮の業務日誌と言える「暁鐘寮史」(国立国会図書館所蔵)には寮の組織「図書部」の代表に珊太郎の名前がある。図書部が当時、寮のホールを改造して図書室を新設したという記述からは、その行動的な一面も見えてくる。
(五)「成層圏」との出会い
高校時代の珊太郎を語るうえで、もう一つ欠かせないのが「成層圏」である。「成層圏」とは旧制の福岡高校、山口高校、姫路高校の学生一一人が結成した「全国高校俳句聯盟」発行の俳句の機関誌で、昭和一二年四月に創刊された。二年生の珊太郎はその年の八月に水戸高校から一人で入会し、翌年の昭和一三年一月号に一〇句の作品が初めて掲載された。
霧晴れて今は魂なき姉とあり
霧過ぎて鈴懸の實の逞くましき
路地忙し童ら秋日をひさに浴び
霧らしと沈黙のまゝ村に戻りけり
栗噛んで逍遥に思ふこと遠し
ボート待つ合歓の微風や秋晴るゝ
ガーベラ露けくて思索に倦みたり
天垂れて銀杏に荘の秋ゆらぐ
霜晴れの日差しに白菜雫もつ
話絶えて夜寒の星の夥し
「成層圏」の指導役は女流俳人・竹下しづの女(明治20年〜昭和26年)だった。しづの女は大正九年の「ホトトギス」誌上に「短夜や乳ぜり泣く児を須可捨焉乎」などの句を発表し、師の虚子から女性として初めて巻頭に推されたことで知られる注目の俳人だった。そのしづの女がその年の「成層圏」七月号の誌上で珊太郎の句を高く評価した。
霧過ぎて鈴懸の實の逞くましき
この句を一読して其調子と言葉と及び直感とが音楽的諧調を奏しているのは感服する。自然とはかくも吾々の呼びかけに応えてくれるものであるかと思ふと懐しい。吾等俳人がいかに自然凝視によりて秀れたる俳句を成し得るかを、この鈴懸の句から学ぼうではないか。
珊太郎は有名俳人から生まれて初めて賛辞を受けたことが大変嬉しかったと述懐している。その後、「成層圏」には珊太郎の紹介で水戸高校の仲間が相次いで入会した。その一人の兜太は珊太郎の活躍を振り返っている。
出沢さんは「成層圏」のなかのチャンピオンの一人でした。そういう人です。すぐ目立つ人でね(前掲注⑤)。
竹下しづの女は、関東に出沢珊太郎あり、と頼もしげに眺めていたのではないかと、私は今にしておもう(注⑧)。
(六)新たな旅立ち
珊太郎は昭和一四年三月に水戸高校を卒業した。高校生活最後の句会で違和感を感じる一句を出した。俳句よりは「心の叫び」と言ったほうがいいかもしれない。
童の妬心よ炬燵の父母と遠くゐてものを云わず
実の両親を知らずに育った珊太郎は高校時代に初めて父親が「星一」であることを知ったという。兜太の思い出の中に「珊太郎が盆や正月の時期も東京の自宅に帰らずにがらんとなった学生寮で一人残っていた」という話があるが、高校時代に才気あふれる活躍をした珊太郎の哀しみの一端を感じてしまう。
卒業後の珊太郎は東京帝国大学経済学部に入学した。そして当時の著名俳人とも親交を深めながら、上京した成層圏の俳句仲間らとともに俳句の世界にさらに身を深く投じる学生生活を送ることになる。
(次号に続く)
【後説】
「霧過ぎて鈴懸の実の逞しき」は出典によって語句の違いがあるが、「出澤珊太郎句集」(卯辰山文庫)掲載の句に従った。
【参考文献】
・星新一 一一〇〇一話をつくった人(著・最相葉月 新潮社)
・明治・父・アメリカ(著・星新一 筑摩書房)
・わが戦後俳句史(著・金子兜太 岩波新書)
・金子兜太(著・安西篤 海程新社)
・学歴貴族の栄光と挫折(著・竹内洋 講談社学術文庫)
・旧制高校物語(著・秦郁彦 文藝春秋)
・青春三十年 旧制水戸高等学校物語(著・山極圭司 朝日新聞社)
・俳句研究(昭和四二年六月号)
・時代を生きた名句(著・高野ムツオ NHK出版)
【出典】
注①「岫雲録」(著・長谷川朝暮 吾妻書房)
注②「語る兜太Ⅰわが俳句人生」(岩波書店)
注③「銀の爪 紅の爪」(福岡市文学館)
注④「海程」(昭和三七年創刊号)
注⑤「証言・昭和の俳句㊤」(角川選書)
注⑥「人間 金子兜太のざっくばらん」(中経出版)
注⑦「萬緑」(昭和六〇年九月号)
注⑧「遠い句近い句―わが愛句鑑賞」(著・金子兜太 富士見書房)