英国Haiku便り[in Japan]〈79〉特別版〈韓国ソウルでラファエル・ローゼンダール氏と対談し考えたこと〉小野裕三

『海原』No.83(2026/11/1発行)掲載文に訂正を加えたものです。

英国Haiku便り[in Japan]〈79〉特別版

韓国ソウルで
ラファエル・ローゼンダール氏と
対談し考えたこと  小野裕三

◇韓国の聴衆の前でhaikuとアートを語る
 ファンロンパイ氏の来日に同行したのは七月だったが、その前月の六月に僕は韓国を訪れた。haikuのことで招待されたのだけど、その経緯を説明するといささか長くなる。
 そもそもの発端は、ラファエル·ローゼンダール氏が韓国で刊行する句集だった。彼のことはこの連載でも以前に触れたけれど(第60回)、オランダにルーツを持ち、現在はニューヨーク在住。もともとはインターネットアートの世界で先駆的に作品を発表して有名になった美術家だ。だから決して詩人でもなかったのだが、そんな彼が以前の来日をきっかけにhaikuに興味を持ち、実際にhaikuを作り始めた。そんな彼の句集が、韓国ヒュンダイ·グループの支援で刊行されることとなった(写真1)。そこで、その句集の解説文とhaikuの日本語訳を僕が依頼を受けて請け負うことになる。さらにはその過程でやりとりをしているうちに、「刊行に合わせてトークショーをソウルでやりたいので、あなたに登壇してほしい」という追加の依頼が来た。

 僕とラファエルのふたりの対談で、だからテーマはアートと俳句。聴衆は主に韓国人。会話する言語は英語。そんな条件なので僕にとってはかなりチャレンジングなオファーだったのだけど、ここは勇気を出して受けることにした。
 当日のソウルは暑かった。汗だくだくになりながら会場に到着。対談の背景になるパネルには彼のhaikuが印刷されていて(写真2)、雰囲気を盛り上げる。ラファエルは、美術雑誌などからの取材も前後の時間を使ってこなしていた。開始時間が近づいてくると、狭い会場に聴衆が数十人も集まってくる。

◇俳句は焦点を作り視覚的で常に新しい
 かくして対談は始まった(写真3)。約一時間の対談の中で、特に興味深かったラファエルのコメントを紹介する。

 一点目は、彼が俳句に出会ったときのこと。彼は芭蕉の句を知り、それが視覚的だと感じたと言う。視覚芸術の作品を作る彼がそう感じたのは興味深いし、そしてそれは小説や他の詩形式とも違う俳句の独自性だと彼は感じているようだ。俳句の短さゆえに、それが書かれた時代の文化的文脈からは切り離されてイメージが立ち現れる、ということなのだろう。芭蕉の古池の句に読み手が見るのは三百年前の池ではなく、そこでは常に新しい池が立ち現れる、と彼は語る。
 そしてその話とも似ているのだが、彼は自身の展覧会でも、俳句をパネルのような形にして展示する。それは、通常ならそこは絵画や写真を展示するスペースなのだが、そういう場所に俳句を展示する。すると、俳句はもちろん文字であるにもかかわらず、絵と同じような感覚で視覚的イメージが見る側の中に立ち上がってくる、と言う。
 このように、極めて情報の少ない伝達手段である俳句が、逆にそれゆえに視覚芸術に近いものとして機能する、というのは面白い視点だし、そのことを視覚芸術の美術家である彼が感じているという事実が、ますます面白い。
 特に、俳句とアートの共通点として彼が強調していたのは「焦点」ということだ。俳句もアートも、日常のありふれたものに独自の焦点を見い出して提示する。それはこれまでになかった視点となり、さらには受け手へとエネルギーを生み出す。そのようなことの起点になる焦点を作り出すという意味で、俳句の簡潔さはアートに似ている、と言う。

◇創作への恐れを止めることが大切
 二点目に、創作者と編集者、ということをラファエルが論じたのが示唆に富んでいた。詩やアートを含む創作活動全般において大切なのは、このふたつを切り分けることだ、と。ひとりの人間の中には、創作者の側面と編集者の側面が同居しており、後者が過度に干渉することで前者の活動の活力を削いでしまう、と言う。それゆえに、創作の過程では編集者の側面にはいったん退場してもらい、少し時間を空けて再登場してもらうのがいいし、そのことによって、創作への恐れを止めることが重要なのだ、と。
 その話を聞いて僕が思ったのは、創作活動全般においてその分離が必須なのであれば、俳句はそれがとてもやりやすいとも言える。というのも、俳句はとても短いから、自分の中の編集者が介入してくる前に、自分の中の創作者はもう一句を書き終わっているからだ。
 ともあれ、ここまで挙げた事柄は、アートの世界で実績を積んできた彼ならではの洞察だと思うし、彼のような立場の人物が俳句を実践し理解することで、日本の俳人には気づきにくい俳句の特性が見えてくると感じる。

◇俳句は短さによって言語を超える
 そんな彼からの話の一方で、僕は僕でこれまで俳句を作ってきたり、英国の美術大学で学んだりした経験を踏まえ、次のような視点を対話の中で提示した。
 一点目は、言語を超えるという欲望について。アートも、そして詩全般も、そのような欲望を潜在的に持つ、と考える。なぜならば、言語とは人間の日常的な思考に深く埋め込まれており、それゆえにある種の束縛でもあるからだ。言語という形式を取らないアートが、言語を超えたいと欲望するのはわかりやすい。一方で、詩にとってはその欲望はいささか自己矛盾で、言語を使って言語を超える、という逆説を常に抱える。
 そこで俳句は「短さ」、つまり極限まで言語を切り詰めることによって、その矛盾を乗り越えようとした。そもそも世界のそれぞれの言語や文化に、最短詩型は存在する。英語ならリメリック。韓国でも「時調」と呼ばれる詩型がある。だが、それらはだいたい俳句の三倍に近い長さがあり、結果としてそこには起承転結が生まれる。俳句は短すぎて、起承転結が生まれない。起承転結を持たないことで、言語が生み出しがちな物語や理屈・理論を俳句は避ける。それゆえに結果として、言語を超えるという欲望を実現できる、というのが僕の見立てだ。ラファエルも共感してくれたように思う。

◇haikuは多様な文化に開かれた扉
 二点目は、世界に広がる英語俳句が果たす役割について。英語俳句は、世界にある多様な文化の感性を受け止める受け皿になっていると感じる。英語俳句の審査員や選者を務める経験から僕が体感してきたのはまさにそのことだ。インド、アフリカ、東南アジア、といった異なった視点や感性から作られた英語俳句に常に驚かされてきたし、俳句という共通基盤の上でそのような感性が交流することには大きな可能性を感じる。そんな思いをラファエルに伝えると、「僕がそのいい例だね」と笑ってくれた。その上で彼は言った。アートや詩の使命は、まさにそのように多くの人に開かれた扉を作ることにあるのだ、と。
 このように、今回の対談では多様な話題が行き交ったが、異文化・異言語・異ジャンルに立脚するラファエルと僕が対話することは実りの多いものだったと自負している。

◇韓国で俳句を語ることの意味
 その一方で、もうひとつ痛感していたことがある。それは、そのように国際化した俳句について韓国という場で話すことの意味だ。西洋人を相手に俳句のことを語るのは、図式としてはわかりやすい。日本人が追いつき追い越せで向き合ってきた西洋という存在があり、ところがその西洋人が俳句という日本文化に敬意を払っている。その図式には一種自尊心をくすぐられるところがある。
 だが韓国には逆に、日本による植民地支配という、重い過去がある。さらにその一方で、韓国は詩がきわめて盛んな国でもあり、それはノーベル文学賞を受賞したハン・ガンが詩を書くことからキャリアを始めたのが象徴的だ。詩を書くこと、そして詩集を買って読むことが、日本より遥かに一般的なこととして受け止められているのが韓国の実情だと聞く。そんな国の人たちを前に、いったい俳句のことをどのように語ればいいのか。そのことへの回答には、まだ迷いがある。
 今回のソウル滞在では、市内の風情ある旧跡や街並みも巡り(写真4)、食事も楽しんだ(写真5)。その一方で、日本の植民地支配と、それに対する韓国人の行動や意見を記録する博物館・記念館なども意識的に見て回った。そんな中で、ひとつ思ったことがある。haikuが国際的に評価されることに、日本人が誇りや自尊心を持つのは、人間の感情としてある程度自然だとも思う。しかしそのことが、日本という存在を誰かに向かって過度に誇示することと繋がってはいけないとも思う。それは西洋に対しても、韓国やその他の国に対しても、そして国内においても。
 これは僕の見立てだが、どんな文化にも、一行詩的なものを生み出す感性はある。そのことをいち早く「俳句」として体系化した日本文化に一日の長はあるし、その点で他文化の人には参考になることも多いだろう。だが逆に言えば、そのことを必要以上に過大評価すべきでもない。今や世界共通の基盤であるhaikuにおいて、多様な感性や価値観が等しく交わり刺激し合うのが望ましい姿だし、haikuが世界に貢献できることがあるとしたらそれなのではないか、と感じる。

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