気のエネルギーとしての存在者/第一回 兜太の見ていたもう一つの世界/大髙宏允

気のエネルギーとしての存在者 大髙宏允

 第一回 兜太の見ていたもう一つの世界

    一 俳人と宇宙を繋ぐもの

 金子先生が亡くなって、自分の年齢も八十の大台を超え、歳月は加速度を早めてさえいると感じる心境だか、先生への想いは一層深まるばかりである。先生は晩年、他界への思いを様々のところで語られてきたが、自分にも同様の現象が現われてきた。他界ほど未知で謎めいて魂を揺さぶるものはない。遺言作成、そして断捨離計画が進む中、この命の行く末のことがしばしば頭をよぎる。
 「どこから来てどこへ行くか」。いつの世も人にとって切実な問題のはずだか、納得のいく解答はあるのだろうか。
 宇宙は神秘そのもの。ビックバン理論を考えたのは、カトリック司祭ルメートルであり、極微小DNAがたった4種類の塩基の組み合わせで三十億もの塩基対でできている精妙さをサムシンググレートと呼んだのは村上和雄筑波大教授だ。
科学が、他界や大いなるものの秘密に迫る日が来ている。
 一方、先生は亡くなる4年前に出版された「他界」で、講談社の編集者に語った次の言葉は私の心から離れない。
 「土の上に立ってくらし、土に還っていくということは、アニミズムの世界に還っていくということなんです。ここが大事です。というのは、土は太古の昔、木を生やし森を形成し、そこに人間一人ひとりが生きて暮らし、お互いのなかに精霊を感じ、信仰し合っていた、そういった世界です。その状態のもとにあるのが土なんですね。今わたしが考える土も、そういう原始社会を念頭に置いての土です」(中略)
「その上で人殺しが行われた土なんていうのは、これは社会というものができてからの土であって、汚れている。本当にそこへ戻りたいと思っている土はきれいな土でなきやいかん、
源郷とわたしが言うようにきれいな土というのはそこに人間が生きていて、しかもみんなアニミズムを信仰していたという、そういう世界。だから土はアニミズムの世界だと言うことです。そのように考えないと、他界説なんて馬鹿馬鹿しくてわからなくなると思います」
 九十歳を越えた兜太の心は、すべての命を育む土と、心ならず兵士として死に赴いた者たちへの思い、彼らの死を無駄にしないよう平和のために生きる、先に逝った者と繋がる他界を日々信じて生きる・・・といったもので占められていた。その思いは、兜太という存在の骨格と、肉体、そして魂を含む兜太の全存在に脈打っていた。
 今もそれは兜太の気のエネルギーとして私に伝わってくる。
あらゆる存在、つまり極小の生命体や物質、さらには宇宙を構成するすべてのものに共通した原理の存在が量子力学の研究によって明らかにされつつあるが、それは意外にも精神と物質の一元的世界観である。それはなんと、紀元前六世紀のギリシャ哲学ミトレス派の世界観でもあった。彼らはすべての存在が命と精神とを持っていると考えていた。こうした世界観は、仏教、ヒンズー教などの世界観とも共通すると矢作直樹(東大工学部教授から医学部救急医療分野教授に転身)は語る。(「人は死なない」バジリコ社)
 彼は、最愛の母の死後、霊脳者との出会いにより、母と再会するという体験をした。救急医療という現場でいくつもの不思議な現象を目にしてきた彼も、身内の死者と対話するという科学で説明できないことを体験し、この本を世に出した。この本を読んだあとで、金子先生の「他界」などで語られてきたことを再読した。先生は、自分の命をこの宇宙に送り出したものこそ土であり、そこには宇宙に流れる大いなる神秘の力が働いていることを感得していたことを理解できた。
 科学者であり、医師である立場から矢作氏が、「人は死なない」という本を世に問うたことの意味は大きい。矢作氏は、自分しか知らないことを霊能者が語ったことにより、今まで認識してきた世界に、別の世界があることを感じ取った。彼自身、素粒子の不思議な働きを知っており、その本でも触れているので、宇宙の神秘と、そこに働いている大きな力についても語っている。
 一方で兜太は文化系の人間であり、俳句が飯より好きな人間だか、その精神の根っこでは、生まれ育ってからの自然環境から受けた身体感覚の影響は計り知れないほどの大きさであった。なかでも、土に対する思いは先に触れたように並々ならぬものがあった。
 その土について、ここで最新の科学が明らかにしたことを見ておきたい。足もとの土は一つの宇宙なのである。

    二 土も生きものである

 生まれたときから我々は土の上で暮らしている。そして寿命が尽きれば土に還る。ふだん、その土についてお百姓さんでもない限りあまり考えることもない。地球が宇宙に浮かび、ものすごい早さで太陽系を回り、太陽系がどこかに向かって永遠の旅をしていることも。ともあれ、暮らしの場である土について科学者に教えていただこう。森林研究所藤井一至氏は、地球の表面の3割が土であり、その土は地球の46億年の歴史の比較的新しい5億年前から出来たという。地衣類と藻類で土になり、そこに1グラムあたり50億から200億の微生物がいるようだ。これらの相互作用によってはじめて土となる。微生物たちは、それぞれ自分の勢力を広げる働きをするが、必ずある程度のところで折り合いをつけ、共生するという。もし、共生せず一方だけが覇者となると、むしろ全滅してしまうらしい。これはまさに摂理であろう。
 また、土は大気中のCO2の2倍の量を蓄えているが、それを人間が脅かさない限り、気候温暖化をセーブしているのだという。むしろ、土の構成物である団粒たちはCO2の吸収源になっているのだ。
 我々の足もとの土は、まさに地上の生命にとっての絶対条件と言えよう。土は太陽と同じように、生き物たちにとって絶対条件である。その土を、人間はアスファルトで覆い尽くし、巨大なビルを建てまくってきた。人間にとって便利で快適であることを最優先してきた。その結果が温暖化による生命存続の危機である。
 前項で紹介した金子兜太の土への悲痛とも思える思いを読み、決定的で多大な恩恵を受けている土という自然に命がやどるというアニミズムの原始宗教を見ていたことを知った。さらに、その清らかな土への思いがなければ、他界説などあり得ないという強い思いも伝わってきた。
 我々人間が自然のなかで生き、暮らしを立て、俳句を作る。そのすべての有り様を先生は日々体感しつつ生きてきたゆえに、人殺しが行われないきれいな土こそが先生にとっての源郷であると見た。現代人が失った世界を見ていたのである。   
自然破壊と戦争が止まない土は、もはや源郷とは呼べないものである。我々は果たしてその源郷を取り戻し、きれいな土に立って俳句を詠むことがこれから先できるであろうか。
 椋神社のお札を身につけて戦死を免れた先生は、何か大きなものに守られていると感じたとも語っている。身に起こった不思議なことを通じて、大きなものの世界を感じ取っていた。それゆえの他界感である。自然を生み出し、命を生み出し、宇宙を生み出しているものを、先生はいつも体感していたのであろう。すべての存在が繋がる世界である。弟子との関係も、そうした感性が働いていた。ある年の新年句会で、「君たちの投句を、恋人からの手紙と思って見ている」と語ったことがある。私は自分のいい加減な俳句もそんな気持ちで見ていただいていたのかと、いささか吃驚した。
 また、皆子夫人から、「私の病気は、あなたのせい」と言われた。弟子にばかり顔を向け、弟子からの電話や、各地からの句会の誘いなどに対し、一貫して弟子優先の日々を送っていた。投句を恋人からの手紙などと思っていた先生ならではの対応である。そんな先生を他界で迎えられた皆子さんは、もはや非難ではなく、一輪の花を差し出して迎えたことだろう。そして、互いに笑みを浮かべられたに違いない。

    三 気のエネルギーとして繋がり合う世界

 金子先生は、定年の少し前、皆子夫人に「東京のマンションに入って、俳句雑誌を中心にやっていきたい」(以下「いま、兜太は」岩波書店)と告げた。すると皆子夫人の「あんたは東京のそんなところで生活していたら、駄目になる」と言われ、更に「あんたはマンションなんて暮らしの合う人じゃありません。絶対に土の上でなきゃ駄目です」と言う言葉が返ってきた。
 この一件によってと言ってもよいくらい、秩父の熊谷での後半生は、先生の俳句生活に大きな影響を与えた。そして、秩父の熊谷に移ってから約四十年間に「両神」「東国抄」「日常」の三つの句集が編まれた。
酒止めようかどの本能と遊ぼうか
長生きの朧のなかの目玉かな
よく眠る夢の枯野が青むまで
おおかみに螢がひとつ付いていた
おおかみを龍神と呼ぶ山の民
狼生く無時間を生きて咆哮
老母指せば蛇の体の笑うなり
定住漂白冬の陽熱き握り飯
病いに耐えて妻の眼澄みて蔓うめもどき
言霊の脊梁山脈のさくら
左義長や武器という武器焼いてしまえ
今日までジュゴン明日は虎ふぐのわれか
など、アニミズム感や生きもの感覚から反戦平和への願いを込めたものまで、自ら『近年ますますこの詩形から力を貰っている』という兜太世界を見せてくれた。こうして先生の俳句人生を振り返るとき、先生の「気のエネルギー」の伝わってくるのを感じ、「ああ、この出会いを頂いてなんとよかっただろう」の思いがこみ上げる。
 そうした思いに誘う自然が人間に与える影響を科学の面から眺めるとどうなるか。「死は存在しない」(光文社新書)の田坂広志氏の見解を見てみたい。
量子力学的に見るならば、我々が「物質」と思っているものの実態は、すべて、「エネルギー」であり、「波動」に他ならず、それを「質量や重量を持った物質」や「固い物質」と感じるのは、実は、我々の日常感覚がもたらす「錯覚」にすぎない。実際、我々は自分自身の体も、この世界も、明確な「物質」として存在していると思っているが、実は、我々の体やこの世界は、すべて「原子」によって構成されており、
その原子は、さらに電子や陽子、中性子という素粒子によって構成されているのである。そして、この素粒子の正体は、実は「エネルギーの振動」であり、「波動」に他ならない。
 
 こうした現代科学の新たな視点を、先生は知っていたわけではない。もっぱら自分を自分としてあらしめている何かに、大いなるものの存在を感得したゆえに兜太的自然観や他界感が育まれ、生きもの感覚の俳句が生まれたといえる。その意味で、先に見た十二句などは、芭蕉以来の伝統的美意識とは次元を異にする視点からの、まさに生きもの感覚から生まれた自由な作品と思う。
 田坂氏のいう「エネルギーの「振動」「波動」が、すべての存在の真の姿だとすれば、先生のいう「存在者」は、直感的に獲得された世界観である。エネルギーの振動、あるいは波動は、生きもののみならず草木、水、風などをはじめ土の中の微生物などすべての現象に共通であることを考えれば、この星の同じ仲間として繋がっていると受けとめるのが当然となる。両神山の見える秩父をこよなく愛し、森羅万象を愛し、家よりも弟子たち優先しがちだったのも、お互いの中に精霊を感じ、信仰し合うというアニミズム感が根っこにある。弟子たちへの思いは、董振華さんの「兜太を語る」(コールサック社)に登場された皆さんの発言でもよく伝わってきた。
 
 ところで、先ほど紹介した十二句のうちの、「おおかみに螢がひとつ付いていた」について、中沢新一は、角川の「俳句」(2016年3月号)で、次のように語っている。
 おおかみはもういなくなってしまったが、じっさいに見たこともないのに、私たちの中には、おおかみの目の光りの記憶があるように思えます。たぶんこの目の光りは、「東国」の自然の放つ霊妙な原始的エネルギーの化身なのでしよう。
 この発言で私が注目したいのは、
 おおかみの目の光の記憶
 霊妙な原始的エネルギー
 化身
という三つの言葉である。一番目については、時空を越えておおかみの目の光を獲得できるということ。二番目については、人智を越えた原始的なエネルギーを獲得できるということ。三番目については、目の光が化身であるということ。
 これはもはや、世界中に愛されている日本アニメの世界といってもいいくらいだ。たつた十七文字でそんな魔術的な技を表現できたともいえる。
 時空を越え、人智を越え、化身となったものを感知し、それを言葉で現わす。そうした行為を人間に出来るということは、どういうことであろうか。目の光りが霊妙な原始的エネルギーの化身なら、万象を菩薩や神の化身と感じても不思議はない。このことは、田坂氏の次の話からも理解できる。
 我々が、「目に見えない意識」と思っているものも、その本質は、やはり、すべてエネルギーであり、波動に他ならない。もし、我々の意識や心や精神というものが、量子的な現象であるにしても脳内の神経細胞の電気信号であるとしても、いずれも、「波動エネルギー」に他ならないからである。
 量子科学で波動エネルギーと呼んでいるものを、私は日常感覚として「気のエネルギー」と呼びたい。それは我々日本人にとって、「気」こそは、この世に生を受けたものにとってもつとも大切な要素と思うからである。気は、元気の気であり、気心の気である。気の熟語は数え切れないほどある。霊気、邪気をはじめ、気息、気候、気象、気団、気遣い、気転、気性、産気、陽気、妖気、本気、人気、色気、一気、活気、気心、気質、暢気、根気、気品、気宇など辞書を見れば数え切れないほどの熟語と出会う。我々の生活に、「気」はそれほど深く浸透している。「気」は、存在の様々な状態を表わすキーワードと言ってもよい。人の性格から、ものごとの気配、自然の現象、更には先生の生き方や俳句への姿勢、弟子への態度、他界への思いなどは、すべて気の働きを感じさせられる。先生の気は、私にとっていつしか愛といってもいいものに感じられてきた。愛こそは、自分と他者を繋ぐ気である。弟子の投句を恋人からの手紙と思う心は、別々の存在を俳句が繋ぎ、心を繋ぐことに他ならない。あらゆる生きものに、遺伝子という存在の仕組みを用意したのも、気のエネルギーであり、ふたつ以上のものの出会いや愛の波動を発生させるためのように思える。俳句は、言葉を通じていのちといのちが繋がり合う世界でもある。

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