俳人金子兜太の全人間論ノート⑤ 岡崎万寿

『海原』No.57(2024/4/1発行)誌面より

連載 第5回
俳人金子兜太の全人間論ノート 岡崎万寿

((三)青年兜太の「トラック島餓死戦場」のリアル つづき)

 (2)「トラック島戦場」で見る兜太の存在感

 青年兜太は「トラック島戦場」において、俳人として、他の戦場ではその例を見ない陸海軍人・軍属による「トラック句会」を開くなど、貴重な句業を残したが、海軍士官である一人の人間としても、私は三つの独自な存在感を刻印していると思う。兜太ならではの特質が見える。
 それを、側面から証明する好個な資料を最近発見できた。『あゝ野麦峠……ある製糸工女哀史』で知られる作家、山本茂実著『松本連隊の最後』(一九六四年刊)という本である。二〇二二年に「角川新書」で再刊され、そこに兜太と同じトラック島(夏島)で、しかも全く同じ時期に配属された信州の陸軍連隊の、同じく飢餓との戦いに明け暮れた「戦記」が、まことリアルに記録されていた。
 戦後の、山本茂実は帰還した同連隊の名も無い兵士たちの村々を、一年半かけて訪ね歩き、聞き取り取材し、「末端から見た、南方戦線の水死、病死、栄養失調死、そして餓死の実態」を、克明に描き出していたのである。
 まず飢餓の状況は、その陸軍兵士たちも、兜太の海軍施設部隊と同じく生々しい。「餓鬼のようになった兵隊たちは、食べるものなら何でもさがして食べた」そうだ。しかし読むほどに、軍属(民間)の兜太の工員部隊と、軍隊である陸軍連隊とでは、決定的な相違があることが判ってきた。これは同じ軍隊の海軍部隊においても、基本的にはさ程の違いはなかったのではないか。
 簡単に言うと、軍隊は、第一次大戦後、日本の委任統治領となったトラック島において、その配属地域では、その時期、当然のごとく占領軍・権力者として振る舞っている。まず松本連隊はトラック島春島へ配属されると、現住民のカナカ族が日常食としていたパンの実をはじめ、ヤシ、バナナ、マンゴ、パパイヤなどを軍の管理下におき、逆にカナカ族を芋畑作りなどに動員している。カナカ族の中にも飢餓が広がった。
 また、遠く出稼ぎにきていた沖縄のイートマン、イトカズの漁師たちを、船もろとも現地召集して漁労班に補充した。「これが松本連隊にとって大変幸いだった」そうである。まこと軍隊なら、戦時下やりそうなことである。
 こうした条件のもとで、この『松本連隊の最後』に書かれている陸軍将校たちの行動と、海軍の軍属・工員部隊の長たる金子兜太中尉(後に大尉)のとった対応とを対照すれば、その相違は際立っている。人間としての兜太の存在感、つまりその特質が、鮮やかに浮き上がる。三つをあげ、両者を対比してみたい。

 底辺の弱者の立ち位置で

 その①は、そうした飢餓戦場のもとで、青年兜太がリーダーとしてとった態度が、まことに兜太らしい。士官として食事をはじめ、すべての面で優遇される立場にあったが、ある日から「みんなが食えないなら私も食わない…せめて食事の時だけでも、一人では食べないで…今日はこの部隊、明日はあの部隊と部隊ごとに訪れ、工員たちと食事を共にした」(『二度生きる』)。
 そう割り切って行動している。そのため夏島の頃、「トラック島句会」を一緒にやった、陸軍少尉の西澤實(戦後NHK放送ライター)が「いかつい体格で真っ黒い濃い髭を生やして、毒饅頭を食べ損なった加藤清正みたいな顔をして」(『悩むことはない』)と言うほど肥っていた兜太が、秋島では「あんなに痩せていたのに」(『あの夏……』)と、自ら書くほどの体重になっている。

 だが松本連隊の場合は、まるで違う。そのまま引用すると「何を食べているのであろうか?まるまると太った若くたくましい将校たちが、へやの中で女を相手に明るい笑い声をたてているのが見えた」「われわれ兵隊が飢えて死にそうになっている時に、一部将校はまるまる太って、女を奪い合って……兵隊たちの間に将校に対する不信の念がきざし始めた」 その②は、戦時下、現住民や朝鮮人に対して、人間としてどう対応したかである。まず現住民のカナカ族について、この本は、聞き取りをした下級兵士の目線で同情的に芋どろぼうを捕えてみたら、兵隊ではなくカナカ族の若者だった一例をあげている。
 松本連隊が上陸してくるまでは彼らは衣食住に何の苦労もしたことはない。……それを日本軍の畑にまで決死でしのびこんでくるということは大変なことである。つまり、パンの実もヤシもとりつくしてしまったことを意味している。
 なるほど軍隊は、連隊の方針のもと、丸々太った将校の命令で、おとなしいカナカ族の日常食である木の実を平気で奪い、そうした飢餓状況がつくられたのである。
 それに対して工員部隊の兜太は、カナカ族との関係で食糧補充の相談は酋長を通じて、出来るだけ対等に強制にならないように努力している。

 マンゴーや木の実はあるんですが、カナカ族ものだから、勝手に横からかっぱらうわけにもいかない。……私などが酋長に交渉すると、少しだけだが分けてくれた。でもある時期から、カナカ族も限界だったのでしょう、分けてくれなくなりました(『あの夏……』)。

 飢餓の極限状況のもとでも、カナカ族の食糧自活を尊重し、工員たちにも守らせていた。しかし最後の頃には、無断で取って食べるものがいたのも事実である。最晩年の遺句集『百年』に掲載されている「トラック島回想五句」(二〇一五年)には、そうした骨身に染みる青春の記録が、こう詠まれている。

  飢えしときは蝙蝠こうもり食えり生きてあり
  パンの実を蒸し焼くさちのわれらに無し

 またカナカ族の女性に対して、陸海軍の将校たちのかなりが、平気で「戦地妻」としていたことにも、兜太は自らを確と律していた。

 極限状況に置かれた戦地では、女性と食べ物はもっとも切実な問題でした。兵隊や工員はそれが手に入らずぐっと我慢しているのです。それならおれも我慢してないといけない、その気持ちから私は自分の精神でコントロールしました。おかげでなんとか信用を得、中には、戦後引き揚げる際、金子さんが残るなら私も残りたいと言ってくれる人までいました(『二度生きる』)。

 次に、トラック島戦場で兜太の工員部隊の中にいた六十名ほどの朝鮮人労務者に対して、どう対応したかである。当時は、朝鮮半島全体を日本の植民地支配下に置き、「創氏改名」などの同化政策が進められ、ひどい民族差別が普通だった時代である。「朝鮮人」と、馬鹿にする風潮があった。だが、ここでも兜太は人間対等であった。
 その六十名の朝鮮人が集落中心に徴用され、金という団長がいることが判ると、隊長の兜太は、朝鮮人の自主性、独自性を尊重して、彼らに芋畑を割り振り、生き残るための自由な集団行動を認めている。その金と金子(兜太)が、意外に気が合い「親戚みたい」に親しくしていたそうだ。そして彼らだけは一人の餓死者も出さなかった。その秘訣は、唐辛子にあったと言う。
 兜太は、半藤一利との対談集『今・日本人は……』(前掲)で、「その六十名をきちっと帰せたことは、唯一の私の自慢です」と語っている。
 見る通り兜太のばあい、戦時での飢餓の孤島トラック島にあって、日本海軍の士官だという権力意識と態度は全くない。むしろ土建労務者の工員たち、おとなしい現住民カナカ族たち、そして植民地下の朝鮮人たち、それぞれ底辺に生きる弱者たちを、同じ人間として親しみを持ち、対等に接している。
 一般に軍人、特に将校が威張っていた時代と場所だけに、兜太の態度はまことに珍しい事例と言える。軍属(民間)の工員部隊だったから、こんなマイペースが可能だった側面もあったと思う。
 これを「おのずからなる平等主義者」と言おうか、①と②にみられる青年兜太の特質は、みんなが貧しかった村落共同体の秩父に生まれ、それと同化して、「郷里の人たちを貧乏から救いたい」と戦場に赴いた、秩父人兜太の持ち前に発したものであったことは言うまでもない。

 工員たちに学ぶ

 さてトラック島戦場にあっての兜太の特質の③であるが、私は最近人気のある「人間学」の見地からも、兜太が荒れくれ者が多かった部下の工員たちから、学び、教えられ、人間進化のまたとない機会としていたことに、興味を深めている。長くなるので二点に絞って、簡明に整理をしておきたい。
 一つ目は、極限状態での人間本能の持つ「美しさ」と「醜さ」の両面を、工員たちの日常の中で、実体験に即して驚きながら体感・体得していたことである。
 その「美しさ」の一例として、着任して程ない七月のある日、海軍工作部自製の手榴弾実験の失敗にかかわる事件がある。その話を、兜太は九十代の「戦場語り部」の中で、ハイライトとして語っていた。
 実験をやらされ犠牲となった一人の工員を、遠巻きに見ていた十人ほどの工員連中がとっさに血のしたたる、死んだと判っている仲間を担いで、二キロ先の海軍病院へみんなでワッショイ・ワショイと走っていくではないか。恐らく無意志の本能的行動である。
 責任者の兜太もいっしょに走りながら、つくづく「人間っていいもんだ」と、感じ入ったそうである。
 ところがその一方、同じ工員たちの間で、公然と男色にふける者が広がり、若い男を取り合って殺人事件さえ続発した。一九四四年四月、最後の病院船でタイピスト、看護婦やいわゆる慰安婦などの女性がほとんど本土へ引き揚げた結果である。ともかく「賭博、男色、殺人なんでもありの無頼者集団」(『あの夏……』)の工員部隊だった。
 新任で、風紀取り締まりの役を担当した、青年兜太の苦労が、目に見えるようだ。それだけに、赤裸々な人間本能の美しさと醜さを身をもって体感し、そうした本能むき出しの「存在者」たちから、何ごとも肯定的に学び、その後に生かしている。
 ―こうしたトラック島戦場での青年兜太を研究しながら、私は六十年安保の頃、感動的に読んだヴィクトール・E・フランクルの「永遠のロングセラー」と言われる『夜と霧』と、何か共通するものを感じ、その視点で新訳・新版を読み直してみた。
 フランクルはオーストリアの心理学者・精神科医で、ユダヤ人ということもあり、アウシュヴィッツなどナチスの強制収容所で二年七ヶ月にわたり、生死の体験を重ね、絶望の中で見つけた人間の希望について、解放後、『夜と霧』で書き綴っている。その中で、「わたしたちは、おそらくこれまでどの時代の人間も知らなかった『人間』を知った」として述べている、次の言葉に注目した。

 人間とは、ガス室を発明した存在だ。しかし同時に、ガス室に入っても毅然として祈りのことばを口にする存在でもあるのだ。
 人間が生きることには、つねに、どんな状況でも、意味がある。

 この人間のもつ深刻な二面性、どんな人生でも肯定しようとする強い意思――私は、そこにトラック島戦場での青年兜太のどんな苦難も、楽天的、肯定的に共に受けて立つ姿が、彷彿としてならない。

 戦場―「存在者」発見のフィールドワーク

 工員たちに学ぶ二つ目は、トラック島戦場自体が地上戦が全くない、連日の空襲はあるものの芋作りという固定した場所での共同作業と、極限状態の深刻な飢餓や人心荒廃のさなかにあり、下手に恰好をつけない、命そのものとも言える生の人間たちから、後日、兜太が「アニミスト」「存在者」と呼んでいる、「ありのままの人間」を発見したことである。
 その現場は、あたかも最近、現地調査・研究でよく行われているフィールドワークの感があり、工員個人にせよ、集団にせよ、青年兜太には貴重な人間学を学ぶ絶好のチャンスとなっている。
 最晩年に、美術家・横尾忠則との対談で、「私は一生の間であのアニミズム体験というものが一番尊いと思っています」と言うほどである。その横尾忠則『想像&老年』(二〇一八年一月刊・兜太との対談は二〇一六年一〇月)から、もう一つ兜太の発言を挙げると、

 彼らはアニミズムの魂です。……ようやく実りはじめたサツマイモを平気で掘って帰る。そういうのが日常茶飯事でした。彼らはそれを悪と見ない。……「サツマイモがそこにあるから取る」と、全く自然な感覚なんです。(中略)
 これが一つの人間としての天然の姿で、それが爆発的に出てきている。そう感じました。……そういう人たちと生活できるということに、いい機会に恵まれたなと思いました。

 そうした「アニミズムの魂」を、兜太は「存在者」とも言い、二〇一六年一月の栄えある朝日賞の受賞の挨拶で、その存在者をクローズアップした名スピーチを行った。

 私は「存在者」というものの魅力を俳句に持ち込み、俳句を支えてきたと自負しています。……存在者の魅力を確認したのは戦争です。私は二十五歳から二十七歳まで南方トラック島で海軍施設部の隊におりました。そこの工員さんたちは秩父の青年たちより、さらに存在者の魂のようでした。その愛する人たちがたくさん死んでしまった。それは痛みとなって残っています。私自身、存在者として徹底した生き方をしたい。存在者のために生涯を捧げたいと思ってます(「朝日二〇一六年六月一日、三十日付」)。

 このスピーチには、一堂一瞬思わず聴き入っていた。その場にいた私は、その時のこころの高揚感を、生涯忘れないと思う。――それが餓死の島、「トラック島戦場」での荒くれた工員たちの話であることが、何より嬉しく、深く共鳴した。
 こう述べてくると、青年兜太が「トラック島戦場」において、あまりにも立派すぎる感がしないでもない。だが兜太自身、先の半藤一利との対談(『今、日本人に…』)で、戦争・戦場での人間の在り方について、率直にこうも述べている。

 どうもそうだな。……私の中にも共通する思いがありますな。人間のずるがしこい面をある程度肯定していかないと駄目ですね。……生きる知恵を素直に働かせているやつの方が運がいいような気がします。

 その通り、人間兜太は青年期を通じて見ても、かなり現実的な選択、対応をしている場合が、少なくない。まず一兵卒として徴兵される「学徒動員」でなく、海軍主計士官の告知を見て、一も二もなく海軍経理学校への志願を決めている。

 海軍を志願したのは、私なりの計算が働いたからです。「どうせほっといても戦争にとられるだろう。でも一兵卒は嫌だ。それならせめて士官として赴任しよう」という思惑(『あの夏……』)。

 その前に、東大を半年繰り上げ卒業した昭和十八年(一九四三年)九月、「どこか肌に合わないものを感じ」ながら、「国敗れ、たとえ体制が変わっても中央銀行は残る」(前掲「私の履歴書」)と考えて、日本銀行に就職、わずか三日いて、その分の給料と退職金をもらい、退職している。生きて帰れば復職できる、ひも付きである。
 飢餓のトラック島でも、見回りの際、海岸の洞窟で見つけた蝙蝠は、そのうちみんなで何回かに分けて、焼いて食べた。だが小屋の近くの灌木になる「シャシャップ」とカナカ族が呼ぶ、甘酸っぱい木の実やレモンなどは、誰にも言わず自分だけで摘まみ食いもしていた。

 青年兜太は人間として、温かくも逞しかったのである。(この項、終わり)

【本連載の内容】
〈第1回・2023年11月号〉
 序 連載にあたって
(一)兜太の「老いと死」へのアプローチ
   ―オリジナルな「立禅」の新境地
〈第2回・12月号〉
(二)ジュゴンのごと現役大往生の実相
 (1)「天からいただいた十日間」
〈第3回・2024年1・2月合併号〉
 (2)「秩父音頭」絶唱のすべて―「最後の一年」
〈第4回・3月号〉
(三)青年兜太の「トラック島餓死戦場」のリアル
 (1)再考「非業の死者たち」とは何か
〈第5回・4月号〉
 (2)「トラック島戦場」で見る兜太の存在感
〈第6回・5月号〉
(四)「俺は死なない」兜太の内面世界
   ―「他界説」とアニミズムの到達点
 (1)「他界説」それぞれ―その共通項
 (2)アニミズムの俳人―秩父土俗より宇宙まで
《以降、(五)へと続く》

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