〈自然のもの〉について『今日の俳句』より抜粋

金子兜太『今日の俳句』「2 ドラム罐も俳句になる―広がる題材 (4)肉体・時間・土」より一部抜粋


 いままであげた三種の題材――肉体・時間・土――は、なぜ、季語に近いのか、ということについては、はじめにもちょっと書いたが、要は、これらが、季語と同じように〈自然のもの〉である、ということである。そして、これらよりさらに季語に遠いとみられる社会的な題材も、人の手が加わっているにせよ、人びとの作りだす現象であるにせよ、やはり〈自然のもの〉なのである。対象となっている材料も、そして、人間自身も、自然の産物である。
 この一見、ばかばかしい論定は、しかし、すこしもばかばかしくない。あなたにしても、おそらく、アッ、そうだったな、と気づくところがあるほど、あたりまえすぎていて、あんがい大事なことなのだ。大事な点とは何か。
 それは、一言で言えば、私たちは、事物が〈自然のもの〉であることを忘れて、その事物を扱っている、ということだ。逆に言えば、その事物の外側に付着している手垢てあかばかりを見て、 それを事物の本質と見誤っている、ということだ。茶碗ちゃわん茶渋ちゃしぶがつくほどよいといわれ、石は手脂てあぶらが尊ばれるそうであるが、それは、茶渋や手の脂を大事にしていることではなく、むしろ、それだけの年期がかかって、茶碗や石の自然のものとしての〈肉感〉が、磨かれて現われていることを大事にしているのである。そうでなければ滑稽こっけいなことになる。
 事物を表わす言葉の場合でもそうだが、時がたつにつれて、その言葉のおおもとの語感にいろいろな観念や意味が付着してくる。そうすると、詩人たちのように、もっとも言葉に敏感な人たちまでが、その言葉を、そのような既成の手垢に汚れたところで使ってしまいがちになる。 たとえば、「やま」と言ったとき、私たちは、富士山とか阿蘇山とか、具体的な山の名を思い出してしまって、山そのものを素直に思うことが少ない。もっとひどいときは、山と言えば、 すぐ遭難と結びつけたりする。
 つまり、山という言葉が、私たちの生活のなかでもまれているうちに付けてしまった衣を、 そのまま付けておいて、私たちは山という言葉を扱うようになっているのだ。だから、地と岩と樹、そして雪や風や空の、山そのものの姿を「やま」という言葉からじかに受け取れなくなってしまうのだ。山と言ったときの無垢むくの語感、そして、それからくる伝達を、詩人たちは求めているのである。
 このことは、山の「肉感」に触れることを意味する。つまり、自然そのものとしての山を見いだそうとすることなのである。
 私たちが俳句の題材として扱うものは、さきほど述べたように、何ひとつ〈自然のもの〉でないものはない。山や川は言うまでもなく、ビルもアスファルト道路もロケットも、それらが本質的に持っている「肉感」がある。それをつかみ出すことがたいせつなのだ。電話の受話器をよく見ていると、それの持つ冷えびえとして、ときには甲虫のように、ときにはがまのように見えるのも――そのとき器具という人工の感じは消えていって――それは〈自然のもの〉の肉感なのである。人の体など、なおさらであって、肉体の結びつきは、土に化するような思いにはいったときが恍惚こうこつの極致なのだ。肉体にまつわる香水も宝石もたばこの匂いも、そして、 むろん技巧までも、そのときは消えて、土壌深く埋もれ、自分も土臭くなる。
 俳句は、題材を、そのように自然のものとしての肉感を捉えているとき、成功する。だから、その肉感のもっとも捉えやすい題材――季語、そして、肉体・時間・土――から始めるべきだと思う。そして、このような題材の肉感のつかみ方を、あなたの感覚がおぼえてしまえば、こんどは、社会的な題材の肉感をつかむこともむずかしいことではなくなるのだ。たとえば、さきにあげた戦争の俳句に見られたような、言葉としての力や安定感に欠ける俳句を作らずにすむことになる。
 このことは、逆に言えば、季語といえども、歳時記のかもしている既成の〈季語情緒〉におぼれているかぎり、ほんとうに題材として生かして使うことはできない、ということでもある。季語の肉感をつかまないかぎり、しょせんは、手垢のついたものにすぎない。世に、季語趣味と言われるものは、こうしたいい加減な季語の扱いから生まれてきたもので、その点から言えば、 歳時記というものも有害無益な面が大きい。私は、俳句が作り出した語彙ごいのアンソロジーとして、歳時記は天下に誇りうるものと考えているが、実作者にとっては、あんがい害になる場合が多い。そのことをしっかり承知しておく必要がある。


金子兜太『今日の俳句』光文社/1965年 知恵の森文庫P124-127

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