『海原』No.77(2026/4/1発行)誌面より
マブソン青眼句集『世界の起源』
量子・霊性・アニミズム俳句の現在地 董振華
マブソン青眼は近年きわめて精力的に作品を発表してきた俳人である。二〇二三年以降、『遥かなるマルキーズ諸島』『妖精女王マブの洞窟』『縄文大河』と、いわゆる「アニミズム俳句三部作」を連続して世に問うた。その中心作『妖精女王マブの洞窟』が第79回現代俳句協会賞を受賞したことは、外国語話者による日本語俳句がもはや周縁的存在ではないことを明確に示した出来事でもあった。
その流れを受け、二〇二六年一月に刊行された最新句集『世界の起源』は、これまでのアニミズム俳句をさらに推し進め、生命・宇宙・物質の生成そのものへと問いの射程を大きく広げた。表紙に掲げられたショーヴェ洞窟壁画(女性器を中心にバイソンとライオンが配された原初的図像)は、単なる装幀ではなく、本句集全体の思想的宣言であろう。即ち人類以前、言語以前、文化以前の「世界の起源」へ俳句という最小詩型で接近しようとする試みである。
一 定型と中国古代思想
本句集『世界の起源』を読む時、まず意識しておきたいのは、俳句という詩型そのものがもつ思想的な背景である。十七音という短い形式が自然や生命、さらには宇宙といった大きなものを受け止めてきた事実は、俳句が世界観を伴った表現であることを示す。
マブソン青眼は「俳句」二〇二五年四月号において、短歌や俳句の定型に陰陽五行説の影響はなく、その源は『風土記』や古代歌謡にあると述べている。この見解は日本文化の自生性を重んじる立場として理解できる。しかし、本句集のように生命や宇宙の根源へと眼差しを向ける作品を読むとき、五と七という数の意味をより広い文化史の中で捉え直す視点も欠かせない。
古代中国において、「五」と「七」は世界の秩序と天の運行に関わる特別な数であった。五行や五臓に象徴される「五」、七曜や七星に連なる「七」は、自然と身体、天と地を結びつける数である。日本の和歌や俳諧の定型も、こうした数理観と響き合いながら受け継がれてきたと見るほうが俳句の実感に近いだろう。作者が本句集で試みる「量子俳句」は、「五七三」という韻律を用いるが、これは定型の否定ではない。定型の背後に潜んでいた「世界を数で捉える感覚」を別のかたちで呼び覚ます試みと読める。
二 量子俳句という試み
本句集の大きな特徴は「量子俳句」と名づけた独自の方法にある。ここで試みられているのは、難解な理論を俳句に持ち込むことではなく、生命や世界をこれまでとは異なる感覚で捉え直すことである。句集のまえがきで、「量子俳句」を新韻律「五七三」による「無垢句」と説明している。無垢句とは感情や解釈を前面に出さず、一物を通して原初的な震えを捉えようとする句である。作者は俳句が本来もっていた「ものを見る力」をあらためて研ぎ澄まそうとしている。
本句集では各句に「0」または「1」という記号が付されている。「0」は溶け合い広がる動きを、「1」は反発し分かれて個が立つ動きを示すための手がかりであり、理科的な理解を求めるものではない。句が制作順に並べられ、目次にバイナリーコードのような配置が与えられているのも、偶然と選択の重なりとして世界の生成を感じさせるためだろう。重要なのは、「量子俳句」が新奇な形式であるかどうかではない。俳句という最小の詩型によって、生命が生まれ、関わり、変化していく、その根源的な動きを捉えようとしている点にある。この試みは俳句を未来へ押し出すと同時に、俳句が本来備えていた感覚を呼び戻している。
三 生命はどこから立ち上がるのか
前章で示された方法は句の中でどのように立ち上がっているかを見ることがこの章の眼目である。蜂、蟻、蛇、魚、狼、バイソン、そしてヒト。生きものたちは章として丁寧に配置されている。以下、具体的な句に即して見ていきたい。
〈蜂の章〉
朝星に合わせて蜂の波動
尾長来て尾で雪一片払う
「波動」という語は一見難しく見えるが、ここでは「リズム」や「振動」と言い換えてよい。蜂は朝星の動きと呼応しながら飛ぶ。つまり生命はすでに宇宙の運動の一部として存在している。一方、「尾で雪を払う」という具体的な動作は瞬間的で、きわめて身体的である。宇宙的な広がりと一瞬の動作。この両極が並ぶことで、生命のスケールの大きさが自然に伝わってくる。
〈蟻の章〉
蟻二匹砂丘の上に下に
一瞬は異界の陰が蟻に
蟻という極小の存在を通して、作者は「世界の境界」を描く。砂丘の上と下、現世と異界。その境目を蟻は何事もなかったかのように行き来する。ここには人間が想像でしか捉えられない「異界」がすでに日常の中に重なっているという感覚がある。
〈オオカミ・バイソンの章〉
ロバの目が覚ゆ世界の起源
鼻息で地揺らしライオン眠る
ここで「世界の起源」という大きな言葉が突然現れる。しかし語調は決して大仰ではない。ロバが目覚める、その当たり前の瞬間に世界が始まる。巨大な獣の鼻息が地を揺らす場面も、神話というよりは現実の身体感覚として描かれる。世界は抽象的な理念ではなく、生きものの動きによって成り立っている。
〈ヒトの章〉
ヒト立つか座るか寝るか凍土に
最後に置かれたヒトは威厳ある存在ではない。立つか、座るか、寝るか、ただそれだけを問われる存在である。ヒトは自然の頂点ではなく、数ある生命の一形態にすぎない。その事実が声高に語られることなく、確かに伝わってくる。
四 二つの動きがつくる世界
本句集を通して浮かび上がるのは、生命が一つのかたちに定まらず、常に二つの方向へと揺れ動いているという感覚である。ある時生命は周囲と溶け合い、境界を失うように広がり、またある時は衝突し、分かれ、個として立ち上がる。その往復運動が蜂や蟻、魚、狼といった多様な生きものの姿を通して、句の中に自然に刻み込まれている。融合と分離は対立するものではなく、生命が存在するために不可欠な二つの動きである。本句集はこの二つが固定した概念として示されるのではなく、生きものの振る舞いとして立ち現れる。そのため読者は理屈を理解する前に、まず身体感覚としてその揺れを受け取ることになる。
また、この句集において「魂」は特別な存在として扱われていない。魂は人間だけに宿るものではなく、蜂にも、魚にも、狼にも等しく行き渡っている。それは名づけられる以前の、生命が生命であることの震えそのものだと言ってよいだろう。『世界の起源』は俳句という最小の詩型によって、生命が生まれ、関わり、消えていく、その根源的な動きを確かに掬い上げている。(2026年1月1日 参月庵出版)
マブソン青眼句集『世界の起源』一句鑑賞
◆句集の可能性 こしのゆみこ
老桜が咲く直前の微臭
マブソン青眼さんはマルキーズ諸島ヒバオア島でのコロナ感染から生還されてから、立て続けに句集を上梓されている。マブソンさんは本当に生まれ変わったのだ。「夢想の妖精マブの女王の子」としての誕生の実感の歓喜を今回の句集『世界の起源』にも見ることができる。
この句は二進法の数字列0010011011010001の章を象徴する「蟻」の章の九番目、量子俳句の中の「反発する素粒子」のフェルミ粒子(電子など)の数字1がこの句の冒頭につく。この章を象徴する「蟻」の図像(中央オーストラリア・アランダ族、石造チュリンガの聖画)の美しい抽象文様と0と1の数字列が呼応する仕掛けだ。 句集は二十章にわたる「蜂」「ムカデ」「トカゲ」「鮫」等、最終章に「ヒト」を置き、数万年前の洞窟壁画、タトゥー、仮面模様が描く命のかたちと句が響き合う。
句集は全句新韻律五、七、三の無垢句。韻律の違和感はなく、二音の欠落が不安感を助長させる。それらは随所に韻を踏む。この句は「老桜」と「微臭」。「老翁」「老王」「老鶯」「美醜」「微笑」の景色も見えてしまう。
◆生き物たちよ 宮崎斗士
意思ありて意思なくクラゲ寄り添う
もともと私は水母という生き物が大好きで水族館ではかなり長い時間眺めていられる。あの何とも掴みどころのないような有りよう、動き、生態にえもいわれぬ諧謔味を汲み取るのだ。だが水母を詠もうとするとどうも今一つうまく行かない。「海程」に入ったばかりの頃「薬局のように水母の動くなり」という句で存外金子先生に注目していただけたが、もっと水母の核心を突くような句が詠めないかな……とずっと考えていた。そして掲句の「意思ありて意思なく」のフレーズに出会い、これでいいんだ!このバランスで!と思わされた。意思ありて意思なく寄り添う――そんな関係性を保てる水母が羨ましいとさえ思える。
この句をはじめ生き物たちの存在感をこんなに斬新な視座でかつ活き活きと捉え続けた句集というのは珍しいのではないだろうか。まさにマブソン氏独特の詩語の力ずであろう。他にも「トカゲ加速減速停止擬死」「頭二拍子胴四拍子イタチ」「ハサミムシ尾上げて西日つかむ」「大あくびしてゾウガメの最期」など大いに共鳴。


