『海原』No.35(2022/1/1発行)誌面より
鵜飼惠子句集『花蜜柑』
日常への真撃な眼 山田哲夫
鵜飼惠子さんの句集『花蜜柑』の表紙は、純白な蜜柑の花の写真の下に滑らかで見事な書体で花蜜相と句集の題名が記されている。一見して直ぐに書家の手になる書体だと思ったら、表紙の題字は、作者自身の筆跡で、題は、
こぼさじと水をやりたる花蜜柑
からとったとのこと。まさにしとやかさとやさしさにあふれる作者を彷彿とさせる題字と題名だと感じた。
普通蜜柑は冬の季語とされるが、花とか、青とか早生とか上に冠せられることで様々な季節の季語として使われる。ちなみに「花蜜柑」は初夏の季語である。
句集は、四季構成で最後に新年がついている。全三百二十一句を収録。
内表紙の裏に「亡母を偲んで」とあることから、亡き母へのレクイエムの意味もあり、当然のことながら母の句も多い。跋文の著者舘野豊氏も既に指摘しておられるので、重複は避けるが、著者も母への依存心が強いと自覚して、母を自らの人生の手本として生きようとする亡き母への強い親愛と敬慕の情が伺われる。
母癒えて部屋に満たせるフリージア
持て余す冬日に母の電話あり
冬籠母への文の長くなり
一句目には、病後に気分一新のため花を飾る母の行為を、素直に敬愛と安心の念を持って眺める作者の姿が感じられ、二、三句目からは母を気遣う細やかな娘の日常の心遣いが見えてくる。こうした作者の思いは、勿論母のみならず、幾つかの父子詠にも、確かな家族愛を育みながら、充実した日々を送る作者の心の有り様が見えてくる。
屁理屈を言ふ受験子や梅雨長し
夏痩せの子の帰り来て五目鮨
逡巡の春まだ遠き子の机
春待つや言葉少なくなりし人
受験子を見守る母親の細やかな愛情がひしひしと伝わってくる。
日常の生活の一コマ一コマを丁寧に生きる作者には、当然ながら四季を通じ生活詠と言うべき句が最も多い。
春 割箸にささくれのあり冴返る
明日来る二人のために菜飯
炊くささくれ一つにも寒の気配を感じ取る細やかな感性。二句目は、我が子と友人かその恋人に対する母の心遣いか。
夏 手紙書くこの距離がよし杜若
夕凪の地を這うてゐる蚊遣香
二句ともに、夏のひとときを静かに満ち足りた思いで暮らす人の在りざまが想像される。
秋 秋耕のふたりに茶菓を振舞へり
稲刈りの鎌の角度を会得せり
この二句は、慣れぬ農作業時の詠か。
冬 糠床に深く手を入れ大根漬け
年用意あふれしものをまづ除き
二句ともに、年の暮れの主婦としての年中行事への感慨が詠み込まれている。
新年 釘抜きし跡に釘打ち去年今年
元旦の厚焼卵ゆたかなり
年中行事も主婦にとっては、疎かにできないこと。特に、正月は。
これらの生活詠は、平明な表出を旨とし、奇異を狙っての誇張や思わせぶりな比喩的表現等はない。喜怒哀楽の表現も控え目で、客観描写が多いのは、作者の人柄にもよるのであろう。
春暁や白き光の皿二枚
いさかひもとむらひもあり八月尽
溝さらひ終へて村中静まりぬ
踊りの輪いつしか一人抜けてをり
隣人の老いに気付きぬ秋の暮
錦秋や金銀加へ村の葬
これらの句には、日常の中の様々な物事や人との出会いを大切にしながら、静かに生きる確かな作者がいる。また、
休耕田どこも白梅植ゑてをり
感染の棒グラフ伸び夏深し
原爆忌触れたるもののみな熱く
小雪や陸奥に又地震の来る
ここにはまた、誰しも看過出来ぬ社会問題へ関心を寄せる作者がいる。
日常への細やかな生き様は、自然に対しては、無論のことである。素直な温かい作者のまなざしが、繊細に自然に向けられる。
蕗の薹土のほころび見えてをり
潔く一途に流れ花筏
どこまでも群青深き夏の海
一村を照らして余る月明り
橅の木の立つばかりなる冬構
土の微かなほころびに鋭敏に春の到来を感じ、夏の海や、秋の月明り、冬の木立にと、自在に五感を鋭く働かせた、多くの自然詠がこの他にもあり、身近な自然の営みに目を向け、眼前の対象を凝視して写生しようとする真摯な姿勢が感じられる。また、
子の机借りて学びぬ梅の窓
紅椿晩学にあるこころざし
生きるとはたつといことよパリー祭
力込めことに濃く磨る初硯
花吹雪今在ることを慎みて
これらの句からは、生きて学ぶことの尊さを自覚しつつ、今在る自らの立ち位置、言い換えれば、自分という存在の確かさを思う作者がいる。
謙虚に生きる作者は、「この度、一生に一度の句集を作りました」と言っているが、この姿勢が絶えぬ限りこれが最期の句集で満足出来るはずはない。
吾亦紅未だに母を頼りとす
と詠んだ人生の師御母堂も天国へ旅立たれた今、作者もあとがきで「お母さんを頼ってきた私ですが、独り立ちして更に精進いたします」と決意表明しているように、この句集『花蜜柑』は、更なる「言挙げ」ともいうべき句集ではないか。
日常を大切に生きる作者が、今後ともに豊かな人生経験を積まれ、俳句表現の奥を極められ、更なる句集上梓となりますよう、御健吟を祈念する次第である。