『海原』No.56(2024/3/1発行)誌面より
追悼・京武久美さん 齊藤しじみ
「海程」の元同人の京武久美(宮城県仙台市)さんが、二〇二三年七月六日に八七歳で亡くなった。故人を知る人の多くにその死は知らされていなかったようだ。万事控えめの京武さんらしい別れ方だと思った。「海程」終刊後の晩年は長らく闘病生活を送り、数年前から視力の低下で外出もままならなかったと聞く。
京武さんは伝説的な存在だった。寺山修司の創作活動の原点が少年時代に京武さんと熱中した俳句にあったからだ。京武さんは「人見知り」で、寺山とは真逆な性格だったが、二人は「一卵性双生児」と呼ばれたほど気が合ったという。
京武さんは兄の影響で小学生の時から俳句を作り始め、昭和二〇年代の青森市の中学と高校で同級生だった寺山と競い合いながら新聞各紙や俳句誌などに精力的に投句を続けた。特に高校では二人で校内に俳句サークルを結成、全国の高校生に呼び掛けて俳句コンクールを開催、俳句誌を創刊するなど多彩な活動を展開し、中村草田男や加藤楸邨にも名を知られた早熟な少年俳人だった。
寺山のエッセイ「誰か故郷を想はざる」(角川文庫)の一節には京武さんが登場する。
京武久美が一冊のリトルマガジンを持って、にやにやしていた。「どうしたのだ?」と訊いても答えない。そこで、私は無理矢理にそのリトルマガジンを引ったくって、ひらいてみた。(略)京武の名前が活字になって、「もう一つの社会」に登録されているということは、私にとって思いがけないことであった。
高校卒業後、京武さんは当時の運輸省(定年時は東北運輸局総務部長)に就職し、寺山は早稲田大学に進学し、二人の密な関係は事実上、途切れることになる。
一二年前にお住いの宮城県で開かれた句会で初めてお会いした際、京武さんから「当時の自分の作品をまとめていない点が寺山と私の大きな違いですよ」という話を聞いた。
京武さんは一五年前に最初で最後になった「二月四日」という句集を出したが、そこには少年時代の句は含まれていない。私はその後数年をかけて青森にも何度か足を運び、中高時代の京武さんの俳句を学校の文集、各種俳句誌、新聞などから約八〇〇句集めてお渡ししたところ、大変喜んでいただいた。
その青春俳句の中で最も好きな句を教えてほしいと聞いたことがある。
みじめなまで芸が太れり風つばめ
一八歳の時の作品である。高校卒業後しばらく就職せずに俳句に夢をかけて地元の小さな印刷所で仲間の俳句誌の発行作業に無給で働いていた。その頃の将来への不安も混ざった複雑な思いが込められているのだろう。
戦後まもない青森で俳句をめぐって火花を散らした京武さんと寺山の青春の軌跡は戦後俳句史を刻む一コマに違いない。あらためてご冥福を祈りたい。