『海原』No.34(2021/12/1発行)誌面より
追悼 豊山くに遺句抄
返り花定年失業団塊世代
白椿亡夫の一言命の花
初硯筆先の一句余命です
雪に映ゆ兜太の筆の千蔭句碑
吊り伐りの名人高所恐怖症に非ず
句碑除幕カメラマン並ぶ芒原
菊匂ふ悩める人の背をさする
開戦日騙されし国民原発事故
手を胸に乳房の儚げ梅雨入りす
落葉集め縄文の声風誘う
米寿迎え死はまだだよ小正月
亡夫に見せたし黄の花の君子蘭
父の日やそれぞれの人に歴史あり
紫は陸奥の色かも花菖蒲
龍神の驚く程に水澄めり
満月夜遺言清書封じぬ卒寿なり
風が哭き雲が動きて霧走る
烏賊の街鯣の哭きし応援歌
兜太師の永遠の魂死の彼方
光りの衣闇夜彩る昇り藤
(後藤岑生・抄出)
夫の故豊山千蔭氏を支えたくにさん 後藤岑生
くにさんが二〇二一年八月二十四日、享年九十四歳で他界された。生まれも育ちも八戸市で、教師となり、生粋の八戸人で、穏やかな八戸弁(南部弁)の人であった。青森県俳句大会にいつも千蔭氏を車椅子に乗せて参加されていた。娘さんのお話によると、いつも仲睦ましく手をつないで、海外旅行に出かけ、中国や台湾に行き俳句を楽しんでいたという。俳句仲間から聞くと、千蔭氏が眼を患い盲いた時も車椅子を押し、東南アジアを巡り、俳句作りを献身的に支え、千蔭氏の分身のごとくであったと聞く。
千蔭氏が亡くなってから、千蔭氏の句碑建立に奔走し、兜太氏直筆による句碑が建立された。除幕式は兜太氏を招き盛大に執り行われた。千蔭氏の俳句に生涯を捧げるようであった。
くにさんが俳句を始めた時期や動機について、想像で語るしかないと思っていたが、くにさんの俳句仲間に訊くことができた。私の想像通り、俳句を始めたのは、千蔭氏の眼が不自由になり、口述の俳句を代筆から始まったこと、師は千蔭氏で自然に始めたようであった。
私がくにさんとお会いしたのは、近年では、海程五十周年記念式典で、千蔭氏のことやら、くにさんの足が不自由になり、車椅子でないと出歩くことができないなどを話した。最後にお会いしたのは、二〇一六年青森県俳句大会に兜太氏が特別選者として来青したときである。娘さんに車椅子を押してもらい挨拶に来ていた。
電話でお話をしたのは、「海程」が廃刊になり「海原」に移行するときである。「岑生さんが海原に移るなら私も移ります」これが最後の会話となった。
娘さんから近況を聞いたところ、俳句に集中し命をかけているようであった。八月二十日頃体調が優れなくなったものの、二十一日には若干気分がよく、公民館に行き俳句談義をしていたという。その三日後、二十四日に静かに息を引き取ったとのこと。
「海程」からの俳人がまた一人黄泉の国へ旅立たれた。豊山くにさんのご冥福をお祈り申し上げます。