追悼 渡辺のり子 遺句抄

『海原』No.65(2025/1/1発行)誌面より

追悼 渡辺のり子 遺句抄

火宅あり幸水という梨をむく海原新人賞受賞作品より
大花野わたしの棺の窓かしら
ファスナー開く体内は寒い海
白鳥来あおいインクで編む詩集
夜桜の発火点まで来てしまう
菜の花の地下茎蒸気機関車へ
スイートピーひとふで書きの風を着る
産道をくぐる皮膚感花明かり
蜃気楼のしずく君のあおいシャツ
林檎食うさざなみ鎖骨のあたりから
夜の桃奈落の水の甘さかな

自分史の一篇いれて百物語 同人以降(2023年10月号)
崖っぷちのぼりきったる蛇の衣
梨をむく地球つめたい曠野なり
純綿の白いジーンズ跳ねて秋
傷のあるヴィオロン舞い降り白鳥群
露の世を踏むつちふまず底光り
こんな夜は絶滅の狼とダンス
風の足風のげんこつ青芒
運命はふわふわかわる毛たんぽぽ

(堀之内長一・抄出)

母と俳句 渡辺禎貴

 子供の頃、ある春の日に初めて俳句を作りました。なぜその時俳句を作ろうと思ったのか、はっきりとは覚えていません。覚えているのは、私が俳句を作った時の母の嬉しそうな様子です。
 母、渡辺のり子は、二〇二四年五月十日にこの世を去りました。
 母は伝統俳句から俳句を始め、その後現代俳句に活動の場を移しました。現代俳句が合っていたようで、生き生きしていた母の姿を思い出します。よく覚えているのが、細谷源二さんの句を母が教えてくれた時のことです。

  地の涯に倖せありと来しが雪 源二

 千葉から北海道にやって来た母は我が意を得たり、とばかりに笑っていました。
 一方で母が詠んでいたのは、想像力を自由に解放した俳句でした。母はかつて、自分の俳句は「フィクション」なのだ、と言っていました。
 母の俳句の中で、好きな句があります。

  羅にあおい魚をとき放つ のり子

 改めて思えば、母の俳句に対する向き合い方を表した句だったのかも知れません。
 二〇二三年七月に、母が海原新人賞を受賞したとのお知らせをいただきました。お知らせをいただいた時、母は既に病気の診断を受けていました。厳しい状況でしたが、母は私に言いました。「十月に秩父で行われる大会に出席したいので、一緒に来てくれないか」。私はもちろん行くよ、と答えました。しかしその後母の体調は思わしくなくなり、大会に出席することは叶いませんでした。
 もしあの時秩父に行けていればと、想像します。きっと母は初めてお会いした海原の皆様と笑顔で語らい、秋の日の秩父で母らしい句を詠んだことでしょう。同行した私もきっと、旅空の下で母の話を子供の頃のように聞いていたと思います。
 俳句は母のそばにいつもありました。
 住む場所が離れていつつも、俳句を通じて母のそばにいて下さった海原の皆様に心から感謝申し上げます。

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