『海原』No.58(2024/5/1発行)誌面より
追悼 加川憲一 遺句抄
リラ冷えの老人は目覚めて笑う
喉に薬臭のこりはるかに鳥帰る
コーヒーはブラック死ぬときは雪が降って
葡萄枯れわたしもゆっくり枯れて行く
生きるとは死ぬこと沢庵ぽりぽり噛み
葡萄棚の陽の粒あれは汽笛の粒
象の腹に皺がいっぱい稲光
花野雨煙ってしまへば夢ん中
屋根の色さまざま羆が走る走る
アイヌ墓地にリラ一本はオマージュ
サビついた血管ですが花曇り
けあらしの鶴が影絵になって行く
鶴に逢いたい星降る夜のゆめピリカ
兜太太文字がん張って雪搔けば
雪みつみつと降るから言葉が重いのです
消しゴムで消した野末に雪が降る
伸ばした足の先の明るさ花カンナ
旱星しーんと立つのは父の木刀
ごうごうとあれは樹の髄青嵐
鶴を数えるまだ暖かい言葉たち
(十河宣洋・抄出)
ダンディなはにかみ屋 十河宣洋
身だしなみがよくダンディである。帽子を被り自転車で通りを行く姿はまさしく紳士である。話をするときは少しはにかむ様な感じが相手に好い印象を与える。
俳歴は長い。「海程」を創刊号から持っていたというだけでもそのことがうかがえる。作品は五号からである。北海道の俳誌「緋衣」「氷原帯」で活躍し、山田緑光の「粒」で評論なども書いていた。特にオノマトペについては造詣が深かった。所蔵の「海程」は加川さんから「旭川文学資料館」に全冊寄贈されました。
旭川の海程支部「群の会」は井手都子さんと二人で引っ張ってきたと言っていい。句会も長い低迷期があり、少人数での句会が続いた。ある時、私が急用ができ休んだとき、先月は井手さんと二人の句会だったなどと笑っていたこともある。昨年の六月までバスで元気に句会に出席していました。
北北海道現代俳句協会の副会長を長く引き受けて会の重鎮として活躍していました。
家庭菜園などの様子も時々楽しそうに話していて、昨日庭木の手入れをしていたら、脚立から落ちてなどと笑いを誘ったりする。それが二、三年前の話である。
昨年の十月にお宅にお邪魔した時、家の中はほとんど片付けられていた。居間には海隆賞でいただいた色紙「狼生く無時間を生きて咆哮 兜太」が掛けてあった。
亡くなる前日にお孫さんや曾孫さんなどが集まって楽しく話をしていて、亡くなった日もお孫さん達が来て話をしていたということです。奥さんに「お前も疲れているから早く休め」と奥さんに声を掛け、しばらくして奥さんが気が付いたら息を引き取っていたということでした。
行年九九歳。天寿を全うした大往生である。
◆追悼加川憲一さん
自転車に乗って 佐々木宏
戦後長かりしよ鮨つくる酢の匂い 憲一
水仙浮き胸をいたわる夜の理髪師 〃
憲一さんは硬質な感覚、叙情をもって私の中に入ってきた。俳句を始めて間もない頃の私にとって、それはまばゆい存在であった。やがて私の勤務地が旭川になり、「群の会」での交流等を通して親しくお付き合いをさせていただくようになる。
明け早しアヤメアヤメと澄んで行く 憲一
句会での評は厳しかった。また、自らの句にも厳しかった。頭脳明晰。とてもお元気で、九十歳を過ぎてからも自転車に乗って会場まで来られることが何度もあった。その姿、笑顔が今でも鮮明によみがえる。
丹頂は柩に入るぐらいかな 憲一
奥様のお話では、だんだん食が進まなくなっていったとのこと。また、自宅でご家族に見守られながら眠るように旅立たれたとのこと。食事が取れなかったせいか、憲一さんは、こころもち小さくなっておられた。この句の丹頂のように。心より合掌。
若々しい口調に圧倒されて 前田恵
加川憲一さんの訃報には、本当に驚きました。ご高齢ではありましたが、姿勢も良く、お元気な加川さんしか知らなかったのです。
句会では、いつもすべての句について、いろいろとお話ししていただきました。まだまだ俳句の力の無い私にも、丁寧に接して下さいました。
句会の後に、何度も皆さんと喫茶店に寄りましたね。そういう時は、いつも加川さんが季語についてのご自分の考えを熱く話されて、私はその若々しい口調に圧倒されておりました。もう一度、お逢いしたいです。