『海原』No.37(2022/4/1発行)誌面より
追悼 丹羽美智子 遺句抄
亀鳴きて生き方死に方相談す
自分史は未完のままよ雲の峰
よく噛めと母の教へや馬肥ゆる
自由とはこんなものかと着脹れて
年暮るる抱へし膝の小さきこと
雛あられ上戸の夫の両の手に
母の日や胸の奧なる母生まれ
生きてゐる証猫背も夏風邪も
手花火やまわりの闇の集まり来
吾が亡父や軍隊生活褌党
寒梅や生きるに力死ぬに力
窓開き生きてますよと布団干す
兜太遺句百年讀みて大福茶
俳句とは心の流れ花水木
手をかけし夏みかんジャムさて味は
翳深き一句なしたや額の花
見飽きたる自分の顔や狸汁
日向ぼこお出でなさいな夫の霊
百歳の強き念力去年今年
ババ抜きのババに座のあり芒原
(堀之内長一・抄出)
丹羽美智子様のこと 鵜飼惠子
「海原」(海程)同人の最高齢百歳である丹羽美智子様が、今年一月六日に永眠されました。心よりご冥福をお祈りいたします。
丹羽様と里の母(加藤初子・昨年六月七日没・九十四歳)は、愛知県一高等女学校の六歳違いの先輩と後輩です。丹羽様のお名前と大先輩であることは以前から存じていましたが、二〇一六年二月まで面識がありませんでした。
母がその一月に、家で転倒、頭を七針縫合し入院。退院後は老人ホームに移りましたが、またも転倒し入院。母は私に「石上邦子さんに電話して、丹羽さんが入る桜山の施設を教えてもらい、そこを見てきて」と頼みました。
母の命を受け、桜山の「リレ石川橋」(名古屋市瑞穂区)で丹羽様に初めてお会いしました。丹羽様は玄関前の椅子に座り杖も無しでサッサと一人で歩かれ、そこは食堂へも自分で行く自立型で、介護なしの健康な人のみ入れるとのことでした。
母の見舞に行きたいと仰しゃる丹羽様に、母はタクシーで往復し私に付き添うよう命じ、その通りにしました。私は外出の際、リュックにショルダーバッグ、手提げ袋に帽子と物物しい出立ち。丹羽様は背筋もピンと、せいぜい小さ目のショルダーだけ。タクシーの中で伺うと「主人がリュックだけは背負うな」とのこと。ご夫妻二人で同じ老人ホームに入っていた時期もあったそうです。
丹羽様は「海程」に必ず投句されていて、母(以前、海程所属)に「丹羽さんはいつも投句されるよ。お母さんは?」と聞くと「俳句は一捻りしなくてはいけないから」と及び腰でした。丹羽様は上京される時「おたく(私)とお母さんの様子が羨ましかったわ。東京に行けば私も」と嬉しそうでした。
いつも「海原」が届くと丹羽様の御句を探し拝見し安堵しました。丹羽様と弱輩の私が同じ「帆の衆」で恐縮の極み。チラッと一言、口を尖らせたことも。でも母に比べたら丹羽様は見事に俳句人生を完結。天国で金子兜太先生が諸手を挙げ歓迎して下さるでしょう。 合掌