『海原』No.55(2024/1/1発行)誌面より
石川まゆみ句集『光あるうち』
広島を生きる 河原珠美
石川まゆみさんの第二句集『光あるうち』を拝受した。清楚な小花に縁取られた表紙のデザインは愛らしく、題名は金色の文字だ。静謐な印象なのに何故か胸を衝かれた。
最近のコロナ禍で、我々は思いがけない出来事に直面し過ぎた。その結果「命あるうちに」「歩けるうちに」等の思いを強く持つようになってしまった。「光あるうち」から、そんな思いを感受したのかもしれない。
卯の花の光あるうち集まろう
「あとがき」によると、青木ヶ原樹海吟行の時に、ガイドさんから「集合場所はあの白い花の所です。遅れないよう必ずあそこへ」と言われた時にできた句だという。古希を過ぎ、お姑様を看取られ、股関節の置換手術を受けるなど、作者の身辺にも変化の多い五年間であったと思われる。
竜淵に潜む安らぎ緩和ケア
はんざきの指紋認証背模様で
耳の横しゆつポッポーとゆく百足虫
海神の頭踏むごと立ち泳ぎ
これらは、形象力や比喩による表現の際立った作品群だ。一読ニヤッとしてしまったり、あっと目の前の霧が晴れるようであったりする。第一句集でも見せた、作者特有の感性である。
今回の作品は「ヒロシマ」をテーマとしたものが多く見られたように思ったので、いくつか挙げてみたい。
遺族無き被爆の遺骨梅真白
広島忌兄弟姉妹父母祖父母
「青桐の黒い部分は被爆です」
城下町軍都そののち爆心地
作者は静かに怒っている。シュプレヒコールやプロパガンダのようにではなく、しんと悼む人である。
「落とされし原爆」の主語平和祭
原爆忌ひとが正しく死ねるやう
被爆青桐にんげんの手で殖やす
広島には「被爆青桐」に代表されるような「被爆○○」と呼ばれる遺構が多く残されている。作者は「広島を歩けば」の中で、「ひろしま美術館」をつくった男「井藤勲雄」氏とのエピソードや、広島県出身の彫刻家「圓鍔勝三」氏の作品が、どこに設置されているか調べ歩いたことなどを書いている。
その中で、赤十字病院のロビーに設置されていた「女神像」が被爆し、その腕にガラス片が深く突き刺さっていたこと。その当時、看護学生として赤十字病院にいた作者の母上も被爆し、終生額にガラス片が刺さった傷があったこと。そして、この二つの出来事を、「女神像の来歴を知った瞬間、あの時と今とが、わたくしごととして結びついた」と書いている。
こうした作者の「わたくしごと」を知った上で、掲句を読んでみると、「平和祭」や「被爆○○」を必ずしも良しとしている訳ではないことが分かる。被爆を観光資源にしてはならない。本当の平和への道標にしなければ意味がない。そんな矜持さえも感じてしまう。
そして、その「わたくしごと」は、次のような句群を生むことになるのだ。
くろぐろと神馬の淑気輸送艦
北窓開く戦車が並んでゐる
一面のひまはり畑どこかに銃
マイナカード春眠破る徴兵
どれも気味の悪い光景だ。そしてそれらは、何時の間にか現在の世界のどこかの光景へと重なってゆく。「戦争反対」とか「暴力はいけない」などという、図式的な観念からの発想ではない。痛みを悼む、という「わたくしごと」からの、ヒロシマ後を広島で生きる人の想いなのだ。
それは何も戦争関連の時事を詠むことだけではない。こんな句群にも。
ぽつてりと蟷螂雄を喰つてきた
吸ひに来る恍惚の眼の蚊を叩く
流感の死者一例は警鐘医
顔パック善きかたつむり潰されて
飯店の奥に喰はるるための蛇
こんな痛ましさや理不尽を、オトナな作者は声高に非難したりはしない。いつもの温顔で、冗談の一つも言うかもしれない。だが、「わたくしごと」として感受してしまう作者は、密かにその理不尽を悼むのだ。
杖がはり夫の手つなぐ桜どき
自己血に混じる泡つぶ 無花果
薄紅葉手術せぬ足「NO」と貼る
退院や素秋へ杖の音緩め
これらの句群について、今度は読者が「わたくしごと」として読む番である。殊に私は十年前に同じ手術を受けたので、駆け寄って作者の手を握りしめたくなる。どちらかと言うと「明るい病床俳句」であることも嬉しい。
最後に、作者ならではの三句を。
やなやつに餌付けされさう新社員
裸子の笑むや早くもおつさん顔
出交して初の災難熊の子の