桂凜火句集『瑠璃蜥蜴』
きらきらとギラギラと すずき穂波
大浦天主堂毛虫一匹入れる瓶
あの神聖なる大浦天主堂だが、眼目は毛虫と小さな瓶だ。瓶の中の毛虫が視野に入った時、まず面白さがあっただろう。それから人間の傲慢さへ心が動き、そして哀しみへ、と感情は連なっていったであろうか。旅の通りすがりの、脳裏に起こった一瞬の錯綜であるが、不条理性の、高度な滑稽感漂う作品だ。
覚悟とは小春日和の大欠伸
過去は真綿ぐるぐる巻いて出かけるぞ
あけび裂く人を束ねる指をもて
作者は一九五八年生まれ。二〇一五年第五十回海程新人賞を受賞されている。句集あとがきに「日常生活はいろいろあって日々怒涛」と、短い言葉が添えられている。何某かの組織の重要ポストについておられる方だろう。掲句の「覚悟」は外界との関係性に於ける自己内部への求心性の始まりか。「大欠伸」はその時空の受容と不安と祈望の横溢そのものだ。「過去は真綿」の肯定性の裏にある微妙な心の震え……。「人を束ねる指」と「あけび裂く」指の同位性による自らへの懐疑……。
これら三句が、この句集の解読キーではなかろうか。組織に生き、その〈現場〉のきらきらギラギラする、怒涛の日々の肉感を、情動の向くまま外界へ、世界へシャッフルし、放散せしめている。それが『瑠璃蜥蜴』の最大の魅力だと思う。
蒼穹はカッターナイフ銀杏散る
日常のただなかにある倒錯。現代文明がもたらす生の痛み。もはや人は美しき奈落に生きているのかもしれない……。
耳洗う清潔な仕事白露かな
鯛焼きのつらいとか書いてないけれど
海仙人掌待つこと腹の空くことよ
酢海鼠や百万回も死んでいる
絶望って薄い壁です実むらさき
「耳洗う」の句から、例えばカウンセリング・マインドの傾聴を想う。「鯛焼き」の向こう側(他者)へ思いを遣らざるを得ない作者。砂底に潜り込んで出て来ない「海仙人掌」の句は現代社会が産んだ引籠りの風刺画と読んだ。己を殺し殺し「百万回も死んで」もなお〈現場〉を愛し、〈現場〉に「実むらさき」のようなロマンを抱き続ける、そんな作者をおもう。
春の宵ひと刺してきた口漱ぐ
沖縄忌見て見ぬふりの指を嗅ぐ
八月のゆるき寝息の映画館
背徳のラ・フランス海匂うなり
正論の刈られゆく国青嵐
月見草ふとくらがりにつかまれる
菫草怒りの束は光に放つ
夜の鏡深く透くかな氷魚遡上
果敢な一面の自己。対して揺らぐ現実の有り様。散見する忿りは多分に公憤である。「遡上」する「氷魚」は純なワタクシであり、夜々自己を顧みるのだ。句の内部に伏在する実社会を負う感情、それが複雑に入り組み、しかも耀きを失わず撓る。一句に載せる情報を極限まで切り落し、内部衝迫である〈こころの髄〉で勝負してくる作者。句の中でうねり、句の中でもがき、句の中で己の存在を問い、応えようとする作者がいる。事、モノそれ自体が哀しみをもって、作者の眼前に迫ってくるのだろう。だから、この作者の言葉扱いは、わざとらしくない。
ハエ取り蜘蛛跳ぶ年寄りを笑うな
ハエ取り蜘蛛は、網を張らず歩き回りながら獲物を取る徘徊性の益虫。言われてみると目玉大きく、腰の曲がった長老のようにも見える。それが跳ぶ!……。いのちの尊厳を、その底辺から丁寧に掬い上げている句と言えるが、これは直感ではなく、直観だ。精神が対象を直に知的に把握し、実態と観念を即座に合体させているのだ。社会性俳句という範疇に到底収まらない独特の詩力に圧倒される。
ぎゅっと抱いて子鹿の斑もう消える
思うまま生きてみなはれひよこ豆
駄目な奴そういったのか冬鷗
性悪のどこから悪か抱卵季
一方、生な表現に瑞々しい情が溢れ、天与の母性愛を感じる句。一見サブカルチャー風であるが、アップテンポな諧調が、より今日的な哀感を創出させている。
春の水耀うわたしの鬼は此処
蛍飛ぶ哀しくきれいな切り取り線
桃ふたつかたみに息を吸うて吐く
春の馬一等さみしい男です
抱かれてもいいのは夜明け蓮の花
桃吹くや似合わぬものを脱ぎ捨てる
水草生う白きリネンの匂いして
愛おしく切なく、情緒的な句だ。「リネンの匂い」に象徴される作者が、外界に対峙し、抗い、享受してゆくほかなき生、そしてその先に広がる豊潤な人の世の味わい……。
執念くもよいよい生きて花菜漬け
ざくざくと花の朧を生きてきた
強靱な精神性に改めて感動が深まる巻頭句と巻末句だ。どちらも鷹揚な人間賛歌の句と読ませて頂いた。
ピュアでエッジの効いたこの一冊、今ふたたび、詩の真髄とは何かを問うてもいるか。