『海原』No.56(2024/3/1発行)誌面より
望月士郎句集『海市元町三‐一』 評
音と言葉と身体 小西瞬夏
望月士郎氏はアーチストである。そして永遠の少年である。日々出会う何気ない素材が彼のアンテナに一たび引っかかると、それと遊んだり、面白がったり、慈しんだり、悲しんだりしながら、芸術作品にしてしまう。その素材が言葉であるとき、それは俳句になってゆく。
素材そのものを彼の身体が味わい尽くすとき、それはオノマトペや韻律を伴う。
●オノマトペ・韻律
先日、柳生正名氏の俳句一日講座『オノマトペ(擬音・擬態語)と俳句』をオンラインで受講した。音と意味の間につながりがある「音象徴」という言葉、そしてオノマトペは身体的実感をそのまま表現できる、ということが印象に残った。望月氏のオノマトペにも、そのような身体との密接な関わりが強く、読者の身体にダイレクトに共鳴してくる力がある。
三月のひかり水切りりりりりり
「りりりりり」については巻末にある宮崎斗士氏の鑑賞文にもあるように、「り」という音が水のきらめきでもあり、鈴の響きのようでもある。空気と水の振動が、頭の理解よりも先に身体に直接届いてくる。
また、望月氏のアンテナには、言葉は音と共に「字面」という固有の映像としてもキャッチされる。そして空気の波動としての「韻律」も大切な素材の一つである。
キューピーのからだからっぽ風光る
「からだ」「からっぽ」という韻律を味わいながら、私のからだも軽くなる。そして風と光で充満してくるようだ。
遠い花火の赤いみみ青いみみ
「みみ」はひらがなで書かれることで、それは「耳」であると同時に「み」というひらがなの形態の面白さにより、それはくねくねとした耳の中をも連想させる。そして赤と青は花火の色が映っているのであろうが、それ以上になにか不思議な物体にも思えてくるのだ。
蝸牛のののの旅の夜の枕
「の」というまったりとした音と丸い字面、まさにそれが蝸牛の描写でもある。ゆっくりとした歩みを続ける蝸牛に同化しながら、それが夜の枕へと誘われる意外性。
●取り合わせの距離・物との響き合い
望月氏のキャッチした言葉に、次の言葉はどのようにやってくるのだろうか。あとがきには次のようにある。
「―言葉を抱えて歩いていくと、運河の町に着いて別の言葉と出会い『気』が生まれ、そこから小舟に乗ると見知らぬ島に着き、また新しい言葉に出会って『間』ができ―」
そのように出会った言葉と言葉の「間」に、言葉で書かれた以上のものが生まれている。
左手は右手で洗う多喜二の忌
濡れているてるてる坊主太宰の忌
射的場の人形ひとつ落ち夜汽車
腹話術師のくちびる戦後七十年
ヒロシマやポストに重なり合う手紙
多喜二、太宰が置かれることで、左手と右手の営為が立ち上がり、てるてる坊主を作った人の心の奥の無念さが滲む。射的場で撃ち落とされた人形は(作者は、読者は)夜汽車にのってどこへ行きたいのだろうか、腹話術師の唇は本当は何を声に出したいのか、手紙は黙って重なっているだけであるが、何が書かれてあるのだろうか。それらの奥に、どこか今世界で起こっている戦争の悲惨さまでをも思わせる。
●言葉が運動を続ける
あとがきにも「俳句という小さな器に容れると、言葉はひとりでに捩じれ、ずれ、滲み、そして毀れます」とあるように、望月氏の言葉は書かれたあとも運動を続ける。毀れてても再生を繰り返す。
隣室をうすくひらいて雛の唇
死後のこと背泳で見た昼の月
うすくひらくのは隣の部屋の扉でもあり唇でもある。背泳ぎで見たのは死後とのことでもあり、はっきりとは見えない昼の月でもあり…。その言葉の運動とともに、私の中からも言葉が歩き出し、進んでいくことをやめない。
さて最後に、やはりこの本の表紙絵に触れないわけにはいかない。望月氏といえば、新しくなった『海原』誌の表紙絵を担当され、驚くことに毎月違うデザインの表紙を制作されている。今月の表紙を楽しみにしている同人、会員は少なくない。この句集のカバーは「炎天の蝶ランボーを万引きす」を絵にされたとのこと。一つ一つの物質が部分であり全体でもある。そしてすべてが関係しながら運動している。氏の中で日々繰り広げられている、音と言葉と身体の活動、それがどのように形を持ったものになっていくのか、その不思議をこの句集を通して覗いてみることができた喜びは大きい。