『海原』No.64(2024/12/1発行)誌面より
月野ぽぽな句集『人のかたち』
コスモポリタンのかたち 武田伸一
二〇〇八年八月、高野山の境内に若い小柄な女性が一人佇んでいた。あっ、月野ぽぽなさん(以下、敬称略)だとすぐ気づいた。それまで、ぽぽなに会ったことはなかったが、その年の「海程新人賞」受賞のため、ニューヨークから来日することは書信ですでに知っていたのだった。
ニューヨークに暮らしてほぼ十年、すでにどこか日本人とは違う雰囲気を身にまとっていたのだと思う。
新人賞を受賞したその頃の作品を収める、第一章「待針」より。
鳥よりも高きに棲むを朧という
多分、ニューヨークでも中心街の高層マンションで日々の暮らしを営んでいるのだろう。「鳥よりも高き」所で日々の生活を営むことの、辛さ・悲しさが滲む作品である。
異国語で見る夢ひややかな果実
日々、異国語のるつぼの中で暮らしていると、夢さえも異国語で見てしまうというのだ。
はるのくれひらがなのようにみちくさ
春の日の暮れ頃、道端や空地の雑草と私が混じり合って一体化してしまうと、鋭く生き物のありようを描いて見せる。特に「はるのくれ」のように一句全体ひらがな表記をすることによる効果の甚大さは、ぽぽなならではの鋭敏な感覚の、ごく自然な賜物であるに違いない。一日が終わろうとする春の夕方、何物からも解放され、自然の中で暮らしていることを再確認してみせる、ひらがな書きに特化した、ひらがなでなければ出せないやわらかさ、しなやかな味わいは、ぽぽなならではのやさしく柔軟な作品である。
この後、二〇一〇年に現代俳句新人賞、二〇一七年には角川俳句賞を受賞するなど、向かうところ敵無しというほかない活躍を示すことになるが、以下、私好みの作品を章別に抽き出して、簡単な鑑賞を加えることにする。
Ⅱ ぶらんこ
一よりも淋しきいのち髪洗う
数字の最初の「一」は淋しいという。そう言われてみると、そうだと納得させられてしまう不思議。さらに、「いのち」とはそれよりもさらに淋しいものであるとの断定は、ぽぽなならではの思いの深さであろう。
Ⅲ 一枚の雨音
日にいくたび陽は戦争の上とおる
地上のあちらこちらで繰り返される戦争や紛争。その地を過ぎてほっとする間もなく、太陽には次の紛争地が巡って来るのだ。戦争は無くなれとの願いも空しく……。
人間のあと冴え冴えと文字のこる
その存在が地上から消えても、人間が亡くなったあとも、確かに人間が生きていた、その証しのぽぽなの作品である。
Ⅳ 前のめり
翅と翅ふれ合う捕虫網の中
蝶々だろうか、とんぼだろうか。捕獲された後もなお網の中で翅をばたつかせて、生きているぞ生きているぞと、その存在を訴える生きものの哀れ、強さ。
深く吸う九月十一日の空
「九月十一日」は、私がいうまでもなく、ニューヨークで同時多発テロが発生した日である。この日、この日時に同時多発テロが発生したことを、ニューヨークで暮らす人たちには忘れてはならない日であるのだ。
黄色くて小さいわたし雪がふる
欧米人からみれば、いわば弱点である自分自身を「黄色くて小さいわたし」というには、いささか抵抗のあるところのはず。しかし、ぽぽなはここで断固として開き直ってみせる。その意志の強さは、まさに身体を貫く一本の太い棒である。
年移るあらゆる肌の色の上
いろんな人種、肌の色が違う人たちが入り交じって生活するアメリカ。そのどの人種にも平等に新しい年はやってくる。
Ⅴ エーゲ海
まだ人のかたちで桜見ています
句集のタイトルとなった「人のかたち」が入っている一句。多民族のいろんな考え、いろんな思想がぶつかりあって、日々変化する国にあって、自分というものを保っていくことの難しさ。しかし、ぽぽなはその中で自己を失うことなく、しっかり生きている。己を支える日本の国花「さくら」を見据えて。
水かけて家壊すなり橡の花
埃のたつのを少しでも押さえるために、家を解体するのに「水かけて家壊す」のである。そこを見逃さないぽぽな。
あ今の流星神様の筆圧
冒頭の唐突な「あ」が、これまでの俳句では見られない「あ」である。流星を「神様の筆圧」だと断ずるユニークで読者を納得させる手法とともに、忘れ難い作品となっている。
Ⅵ 見えないもの
天に星地に梅ともし兜太逝く
いうまでもなく金子兜太師に対する追悼。天と地のあわいに生ききった、優れた師に対する敬慕。
蓼の花今生に人産まざりき
ついに、わが子をこの世に残すことのなかった悔い、痛切。
Ⅶ 鼓膜
思い出の順序ちぐはぐきんぽうげ
年月が経つほどに、あいまいになっていく「思い出」。誰しもが抱く経験。
星月夜土偶に簡単な乳房
古墳時代の埴輪は、武人を主としたものが多いが、なかには女性を題材としたものもある。申し訳程度に付けられた「簡単な乳房」が、おかしく、悲しい。
強い意志で徹底した口語表記を貫いていることが、誰にも真似の出来ない、ぽぽなの独擅場で、新鮮さとともに親しみをもたらしているのである。