平田 薫 『縷紅草』〈『つぐみ』No.225(2025年10月号)/句集散策(35)小松敦〉

『つぐみ』No.225(2025年10月号)に掲載

句集散策(35)小松敦
平田 薫『縷紅草』

 いつも手の届くところに置いておいて、時々ページを開きたくなる句集だ。読むとすっきりして、よしと思う。散歩して心身がリフレッシュするみたいに。適当にぱらぱらめくってみるくらいがいい。そっと背中を押してくれる。
  菜の花や大きな雲の通り道
  上げた手に冬の日がとまる
  昼月の芍薬の家通りけり
  夏蝶はふわっと石を手放して
  永遠をぽとっと置いてゆく蜻蛉

 十七音に凝縮されているけれど、水を一滴垂らせば無限に広がるような世界。だからといって、手掛かりの無い空間に放り出されるような不安感はない。その世界には何か活き活きした物語が進行中で、読者はすぐにそのドラマに参加できる。『縷紅草』にはそんな世界の種みたいな句がぎっしり詰まっている。コンパクトな贅沢だ。
 といっても、種を膨らませて世界を広げるのは読者。その世界は、例えば高畑勲が「脳裏のイメージと映像のちがいについて*」で述べている「イメージ」と似ている。〈文学を原作とする映画やテレビやアニメなどを見て、人はよく、イメージとちがう、と言う〉。〈その絵本が子供の想像力をかき立てることで魅力を発しているものの場合、私は、「折角読書や読み聞かせで子供の心を捉えているのに、アニメになんかしない方がいいんじゃないですか、もったいないですよ」と言う〉。何度も読み返してしまう小説などもそうだろう。またあの気分に浸りたいと思ってページを開く。文芸とは、魅惑的な「脳裏のイメージ」を読者自身で創り出せる言葉を紡ぐことなのだろう。
 それではこの句集が、読者(誰よりも筆者)の脳裏に印象的なイメージを創り出す秘密はどこにあるのだろう。
  豌豆に双葉逃げ足早そうな
  先頭が止まれば桜みちてくる
  蜩の遠くからくる手紙かな
  白木槿ときどき雲が目をあける
  縷紅草ちいさい一日でありぬ

 『縷紅草』では、誰にとってもごく日常のすぐそこに、世界への入口がある。日常の中の易しい言葉で紡がれるもう一つの世界。秘密なんかじゃない。平田薫の日常は普段から「脳裏のイメージ」と重なっていて、例えば「雲が目をあける」のは擬人化というよりも、それが現実なのだ。「自然とともに生きる(あとがき)」平田薫は、人や生き物や自然が繋がり合うのと同じように言葉の繋がる現実に生きている。正に〈「創る自分」の「現実」(兜太)〉だ。
*『アニメーション、折に触れて』岩波現代文庫P190
平田 薫『縷紅草』(現代俳句協会2025年刊)

参考:平田薫句集『縷紅草』〈句集評◆先立つ実存を詠む 柳生正名〉〈一句鑑賞◆思いと言葉 小松敦◆偶然の出会い 遠山郁好〉

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