『海原』No.72(2025/10/1発行)誌面より
平田薫句集『縷紅草』
先立つ実存を詠む 柳生正名
蛇は野に日本経済新聞読む
平田薫の句集『縷紅草』をひもといた最初のページでこの一句に出合いました。それは筆者にとって、80年前、第二次世界大戦が終結した年にジャン・ポール・サルトルが行った記念碑的講演「実存主義はヒューマニズムか」の中に登場したことば「実存は本質に先立つ」がしきりに思われ、頭の中で反響し始めた、ちょうどその折りのことでした。当時、サルトルが目の当たりにした苛烈な戦争の傷跡が再び現実のものになるのではないか――そんなことを感じさせる昨今の世界情勢を目の当たりにしたせいだったのかもしれません。
続けて集のページを繰り進めることで出合う句の数々
山茶花のふっと散ったりぎゅっと咲いたり
水仙のまわり雨降るまわりかな
さやさやと蛇の小さい頭かな
枝打ちの枝おちてくる涼しさよ
に登場する〈山茶花〉や〈蛇〉たち生きもの、そして〈涼しさ〉さえも、その言葉がはらむ「本質」の前に、まず頑として「実存」していると感じずにはいられません。
サルトルの言説で通常、本質とは「〜である」、実存とは「〜がある」だと解説されます。キリスト教の考え方では神が人間を作りました。その際、神の中には「人間はこういうものである」という「本質」についてのイメージがまずあり、それに基づいて土をこねて姿を形づくり、「ある」ものとしての実存を与えたと受け止められています。本質が実存に先立つという考え方の根本はここにあります。サルトルはこの西洋文明が大前提としてきた思想を卓袱台返ししました。
俳句に話を戻します。ことばは概念を示す記号で、ことの「本質」を表現することは得意です。語れば語るほど、世界の「である」側面はより詳細に鮮明になります。けれど、実は「そこに頑として存在する」ことの表現は苦手なのです。だから、ことばで描かれたものは、頭で作っただけか、確かに実存するものなのか、ことばの上からは区別がつきにくい。
そのせいもあって俳句、というより文学はこれまで、ことばで様々な存在の本質を多様な表現で言い表してきましたけれど、描く対象の実存そのものをどれだけつかみ取ることができてきたか、いささか心もとなく感じます。ことばで実存を描くのは原理的に不可能なのかもしれない。そう思えてしまうのです。そんな中で、
鶏頭の十四五本もありぬべし
帚木に影といふものありにけり
おおかみに螢が一つ付いていた
などという素っ気ない、修辞や比喩などの作為とは縁もゆかりもなく、ただそれがそこにある事態を示すだけのことばの存在に人々は気付きました。ことばでは捉え難いはずの実存にどこかで触れている。そう実感したのです。
俳句という最短・最小の詩形――ある意味、ことばで本質を語ることを否定する短さ――こそが実存に肉薄するためのよすがになるのではないか?そんなことを考えていたおりに、出合ったのが冒頭に掲げた一句だったのです。
日本経済とその土台をなす現代資本主義の「本質」を賛美することばに満ちた紙の束の、しかし風が吹けば飛ぶような軽々しさ。その細かい文字に目を奪われる人々の希薄な存在感と対照的に描き出される蛇の、野をすべる「実存」の玲瓏たる耀きに魅入られた、といってよいでしょう。ここで蛇はどうしようもないほどに実存しています。
サルトルが唱導した実存主義は、実存を人間にしか認めませんでした。だからこそ実存主義=ヒューマニズムという恒等式が成り立つ一方、この点はやがて構造主義やポストモダニズムの立場から「実存主義=人間中心主義」という批判を集めます。神が自らの似姿を与えた人間は他の生きものに優越する、というキリスト教的価値観を否定したはずの実存主義でしたが、結局、人間中心の視点を捨てられないが故に、人間のエゴが生み出した核汚染や温室効果ガス、乱開発、そして戦争などという日経新聞で日々語られる事象を抑止する力にならず、生態系破壊を加速させる「人新世」の危機的状況に全く対処できないと批判されたのです。
これに対して、俳句が平田薫という俳人の眼を通して、蛇の実存――自身のあらゆる本質を脱皮し尽くし、なおかつそこにある確かさ――を表現し得ました。それは戦後80年と同時に「実存」80年でもあるこの年、筆者が出合うことのできたことがらのうちでひとつの福音だった気がします。『縷紅草』に収められた句の数々を読み返してみましょう。
外でなく内側でなし銀杏散る
鷺の背のほそくてながい春のいちにち
ひたひたと黄蝶がとんだあとの空
木に木の音がたまって若葉かな
兄はざくざく秋を走って79歳で兄は
これら句に登場する様々なもの、その多くは人間以外の生きものや物象です。「海原」の句の多くが、人間にまつわる物事を描くことにこだわり、ある意味で人間中心主義が匂うのに対し、非人間的な存在のみで尽きる世界も多く登場します。それらは歳時記や辞書、ネットに氾濫する情報によって規定された「本質」についての言説から自由です。本質をいったん捨て去ったまっさらな、しかしだからこそ何ものにも犯し難い確かさをまといつつ、己の実存を語っています。
それが時に自然な、会話をそのまま映した口語体、また時に重々しくはないけれど格調を感じさせる文語体で――かつ「海原」俳句に特有の妙に目立つ抽象語や漢語、横文字を無理やり押し込める感じの派手な措辞は注意深く排しつつ――語られていきます。しばしば「かな」「けり」など文語の伝統的な切字を口語調とちゃんぽんで用いてもいます。通常、それは安易な用語法とされるべきところ、そう感じさせないのは句に登場する実存の確かさが、文体の統一などという人間中心主義的な感受を突き破ったところで実を結んでいる証しのようにも思われます。
その意味では、3年前の春のウクライナを詠んだ
チューリップ画をかくように戦をして
からの一連の句などには、むしろ人間の戦争の「本質」の側からの視線を感じます。今、社会的・政治的な題材を俳句で取り上げる場合、どうしてもそうなりやすい。サルトルの実存主義自体、80年前、大戦の反省を足場に生まれたものなのです。しかし、むしろ今は人間や自然、そして地球の「実存」というまなざしから戦争を詠むことが現代俳句には求められているのではないでしょうか。この句集の作者にはそれを可能にする準備がすでに整っている気がします。
木に木があつまって寒い耳ふさぐ
この句の〈木〉を擬人化し、戦争や虐殺という問題をめぐり聞くに堪えないことばが横溢する今に対する詠として読みたい誘惑にもかられます。しかし、やはりこの句からは寒林にただ立ち尽くす木の命の実存をこそ読み取るべきでしょう。その上で、擬人化という人間のエゴに淫することも了とせざるを得ない、今の世界の病理の深刻さを憂うべきでしょうか。そんな思いを抱かせてくれるのも、この句集に寄せられた句たちの持つ力ゆえ、と確信しています。
(敬称略)
平田薫句集『縷紅草』一句鑑賞
◆思いと言葉 小松敦
六月の壁に翼が描いてある
通りすがりの建物か、壁に描かれた「翼」に引き付けられている。「鳥が描いてある」とか「飛行機が」ではなく「翼が」と表現するところが平田薫らしい。たとえ飛行機が描かれていたとしても見ているのは「翼」なんだと思う。読者は「翼」を思い描く。でも、この「翼」で飛べるような気がしない。六月の気候のせいか。何か不自由を感じる。もぎ取られたみたいに、何の形容も無くただ「翼」とだけ書かれ、磔にされているからだろう。そもそもこの句が並ぶ節の冒頭に「2022年・ウクライナ」とタイトルが付されていた。しかし、そんなタイトルが無くても、この「翼」は充分に不自由だ。
平田薫の句は、あらかた日常の中の易しい言葉で紡がれていて、すっと体に染み込んできてふわりと気持ちを揺らす。思いと言葉が直結しているのだと思う。掲句にはウクライナを連想させるような言葉は一つもないが、平田薫なりに受け止めた思いが言葉に表れている。「どんな思想も肉体化し日常をすすめる態度になってはじめて俳句になる(兜太)」とはこういうことだと思う。
◆偶然の出会い 遠山郁好
心ひゅっとのびてきて野芥子
偶然は不確定であるが故に不可思議で、その出会いは愛おしいとさえ思える。しかし予見不可能という意味に於ては、うっかりすると蔓草が絡み付くように搦め取られてしまうこともある。
ところでこの句の「心ひゅっとのびてきて」は、心という本来自在で奔放なものが、自然と共に在ることの喜びで一層開放され、ひゅうひゅう歌うように弾んでいるのだろうか。そしてそんな中、偶然野芥子に出会った。野芥子はハルノノゲシとも呼ばれ、路傍にあり、普段は気にも留められないことが多いが、作者の澄んだ感性と驚くことを忘れないこころにひゅっと飛び付いた。自然はこころ開く者にはその素の顔を垣間見せてくれる。
しかしこの句、見たまま感じたままをそのまま手放してはいない。一度自身の中に取り込み、対象の本質を取り出し、飽くまでそっと自然に寄り添うように提示する。『縷紅草』この句集を読む度、何気無い、しかし大切な忘れかけていた感覚のひとつひとつが目覚めてゆくような懐かしさと清しさに満たされてゆく。