小西瞬夏 句集『けむりの木』〈ことばの触手、けむりの木 川田由美子〉

『海原』No.70(2025/7/1発行)誌面より

小西瞬夏 句集『けむりの木』
ことばの触手、けむりの木 川田由美子

 「瞬夏」。その響きの奥からは、何か映像が瞬き見えてくるようだ。「瞬間の夏」「瞬く夏」「瞬くような夏」「瞬きという夏」。「瞬」と「夏」のあわいには、さまざまな触手が隠れているような。と、そんなことを考えつつ句集『けむりの木』を読み進めるうちに、俳号のみならず作者の俳句に展開される世界、ことばとことばのあわいにも同じように多様な触手が見えてきた(吉本隆明が著した「言葉からの触手」。今回私は、ことばから伸びる触手というより、ことばに内包された「継ぎ手」としての触手と捉えてみた)。
  みづうみの青しおほかみ呼べばなほ
 「おほかみ」を呼ぶことでいっそう青を深くしていくみづうみ。「おほかみ」は、狼、大神。古より恐れられ神の化身と考えられた、その「おほかみ」を呼ぶ作者。湖を前にした実景が見えてくるとともに、「みづうみ」は、作者の意識と思える。意識の溜まりとしての「みづうみ」。合わせ鏡のような「湖」と「みづうみ」。作者はあえて、自分の意識のなかに「おほかみ」を呼びこもうとしている。まだ意識の「青」が足りない。意識をより醒まし研いでいくための「青」であろうか。句集冒頭のこの句からは、作者の、表現に向き合うかたちが見えてくるようだ。「なほ」呼び覚まされる作者の意識の触手である。
  白百合のだれから眠くなる夜更け
 白百合の咲く夜更けには、あなたこなたに不可避な深淵が。夜の深みに、ひとりずつが喪われていくように眠りへと吸い込まれていく。「だれから眠くなる」のかは謎のままに。白百合と夜更けのあわいに伸ばされた作者の感覚の触手である。
  簡単な返事山椒の実を摘んで
 「簡単な返事」とは生返事や取り合えずの返事ではなく、明瞭で簡潔な返事だろう。発せられた問いや呼びかけに明瞭さがあればこその、(口頭の)「簡単な返事」と読んだ。「山椒の実」の鮮やかな色と芳香が、「簡単な」の実感を率直に支えている。一方で、この日常にあっての作者の非日常への意識は、「簡単な返事」のなかには含まれていないことがほのかに見えてくる。作者の意識の触手は「簡単な返事」の外側にある場所に伸びている。
  冬日。ちひさき母のまた小さく
 「。」は、とある一日、とある一閃という時の停止を表しているのだろうか。そして「ちひさき母のまた小さく」の措辞は、とどまることのない時の流れを語っている。ひらがな表記の「ちひさき母」は、実存としての母。「また小さく」は、時に流されあたかも削り取られていくような形象としての母の姿。時という広大無辺な荒れ野のなかにある実存としての「冬日。」こつんと弾かれる「。」である。
  晩年や白い椿に追ひつかれ
 「追ひつかれ」とは、椿の何に追いつかれたのだろう。晩年をむかえるほどに年月を生きてきたことと同じように、幼木だった椿も大きくなり自分を追い越す勢いで花を咲かせ、という実景。さらに、それだけではない作者の意識を「白」に感じる。それまでは、意識の外にあり続けてきた「白」というものが、晩年となり、よそ事ではなく自分の身の内に感じられるようになったのではないだろうか。あるいはそのような時をむかえることが晩年ということであると。いよいよ「白い椿に追ひつかれ」た思い。「白」とは、作者の意識に、降り積もる不断の時の存在を語りかける色なのかもしれない。
 作者の身体が描かれている俳句を見てみよう。「ひとさしゆび」と「耳朶」。
  空蟬やひとさしゆびでこはす闇
  揚羽の屍こはしてひとさしゆびのあり
  花火果つひとさし指の重さかな

 作者にとって「ひとさしゆび」は、止むなき発動へのひきがねか。外界と切り結ぶ器官としての「ひとさしゆび」。それは、壊すものとしての、そして、とり残されるものとしての実体である。
  耳たぶの重し大暑を持ち歩く
  実石榴の割れて耳朶軽くなる
  もち歩く薄き耳たぶ秋湿

 「耳朶」は、あたかも外界がそこから作者の身体へと侵入するかの、通路のような器官として描かれている。外界と触れる境界というよりは、内耳へと、作者の内部へと浸潤を許す回路、それをそっとつつみこみ匿う「耳朶」である。
 そして、総体としての自分の體を不思議そうにながめる作者がいる。
  香水をつかひきつたる體かな
  香水を使い切ったあとに遺された體。
不可思議さをかかえたひとつの器としての漠たる自分。
  だれとでもつなげる両手けむりの木
 一度纏ったひかりを、再び吐き出すかのように佇む「けむりの木」。ふわふわと、やわらかな輪郭が「だれとでもつなげる両手」を思わせたのだろうか。両手をつなぐということは、無防備に自分を解き放つことである。「だれとでも」のことばが、今後の作者の俳句世界の広がりを予感させる。作者のことばの触手は、あたらしくその領域を広げていくのだろう。
 句集あとがきに、「兜太先生から一番受け継いでいきたいと思うことは肉体と具象」「それらをあくまで手段とはしない暗喩」と書く作者。さらにさまざまな俳句や句友との出会いを経て、「暗喩から逆に遠ざかるような新しい色も加わり」と。句集『けむりの木』から見えてきたことばの触手は、この「新しい色」を宿すものなのかもしれない。不可視なものを存在として可視化する(ことばとことばのあわいに現れる)継ぎ手のようなもの。作者の意識、視座の拡充によって新たにもたらされたそれは、ことばや景の取合わせという地点にとどまることのない、作者固有の表現を引き寄せていくだろう。作者の生と今とを縒り合わせながら。

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