大池美木句集『きっと瑠璃色』
海色の羽音 茂里美絵
白い表紙の半分を占めるあざやかな青い帯は、現在の大池美木の立ち位置を示すかのように、瑞々しい感覚の冴えを暗示している。
この第一句集は、西暦二〇〇〇年から約二〇年分の二三八句を、一章から六章とし時系列で構成されている。
すんなりと入って行ける言葉の内奥を時に横切る鋭い陰影。美意識と普遍性を巧みに交差させる。客観写生とは離れた、体感ともいうべき自由な発想から言葉の入り口をひらく。対象に自身を同化させそのものに成りきる天性の無邪気さは、別の形のナルシシズムとも言えよう。
〈俳句作家は、まったくの素手の着流しで、いき当たりばったりの手近の入口から何の予定もなく、とにかく入る〉(『飯島晴子読本』より)
一章から六章まで、まるで輝く波の満ち引きのように、自然に移行していく構成になっており、気が付くと次の章に何の違和感もなく、まさに着流しの姿のまま読み進むことが出来る。
水仙抱えきれず私が始まる
本集の巻頭句である。いのちの内側に存在するひかりを一瞬の内に捉えた感性の冴えが、もう此処にある。私が始まる、と断定し、水仙を冠とし然も抱えきれない、とは羨ましいほどの大らかさ。
重力はあなたに向かうソーダ水
つなぐ手の中の宇宙よ夏祭
甘くなりがちな恋の句を重力、宇宙という無機質と壮大な叙述で押えて見せる。
魂は永遠?若葉匂う中
きっと瑠璃色香水に色あらば
「?」を取り込んで新鮮なおどろきを喚起させる魂の句。句集名ともなった次の句。香水は女性の身近に在るものだが、目に見えない香りを色彩で詠嘆するのは大池美木の強い独特の主観として読者は思わず立ち止まる。
熱帯魚しびれるまでに読書して
パンドラの箱を開けても若葉でしょう
冬苺きれいな噓を差し上げます
都忘れ君はどこ私はここよ
土曜日は春の隣に座ります
口語俳句の手本のような句群。これらの句の持つ一種の鮮やかさは、意図しているのではなく作者の特質とも思うが、切り口の冴えと視点の推移が自然であり、加えて精神性が非常に健康的である。例えば熱帯魚の句。水槽と部屋の空間が、軽い閉塞を感じさせるが不思議にも光が存在する。パンドラも嘘も語り口が如何にもモダンな印象で帰結する。四、五句目は、呟きがそのまま心象風景となり、しかも現実にしっかりと根を降ろしているようだ。
ペン皿に耳搔きのある朧かな
コンビニの前に一枚の白夜
叱られて嬉しと思う冬木立
マリアにも女の鎖骨五月来る
猫の名を聖書よりつく星月夜
この部分は二〇一七年の作品で、海程新人賞を受賞した年でもある。金子兜太師がお元気な時の最後の海程の賞でもあり感慨深いものがある。そしてこの頃から志向的にも微妙な心象風景を散見するようになる。そもそも非日常を語るとき日常を無視することは出来ない。対象を眺め、内在する理知やそれに抗う感情を踏まえて言葉に対するエネルギーへと気を燃やす。
ペン皿の句と、コンビニの句ともに適切な具象的な部分から、朧というアンニュイな季語で成立させる。またコンビニの、やや通俗的な導入部に、一枚の白夜、と。その対比は鋭い。
マリアや猫の句は、敬虔なクリスチャンには叱られそうだが、それも承知の上で書いているフシがある。
かなかなやひとりの旅のきらきらす
大池美木そのもの。自由でちょっと哀しげ。きらきら、が逆に澄んだ愁思を提示すると同時に、かなかなと呼応して充実した自分の世界を展開していく。
如月の奈落にも降る紙吹雪
春の森屈葬という休み方
只今の時代意識的反映と思える言葉の様相が実に巧み。奈落も屈葬も、俳句の世界では珍しくはないが、この二句を形成する上でぴたりと共鳴している。
あ、その言葉ポストに入れて蝶々
春の恨みははらはらと降ってくる
蝶を見た時、思わず口からこぼれた言葉がそのまま句になる。共に一枚のかがやき。むろん言葉とはもう一枚のハガキの意。春愁を分解して春の恨みとは実に艶っぽい自己表現への発露であろう。
ラフランス軽く軽く死を語り
露草のうしろ六さいのわたし
私も欲しい球体感覚冬の雨
今日だけは貝を探そう神の留守
手も足もばらばらになり蝶の昼
花冷えや指をそらして指輪抜く
これらの句は、想念と身体感覚を相対化しまた自己愛も加えて再び歩きだす。
ラフランスから死を想起し、神の留守の日は海への憧憬を呼び醒ます。海の光の奥に幼い自分の姿を探す。ふと頬に触れた蝶の影や冬の雨滴も、自分の魂の開放へと導く。衣も指輪も脱ぎ捨てて薄ら寒い春の夜を閉じることにしよう。
大池美木を語るとすれば従来のもの派とは異なる新しい時代の、ことば派と思われる。しなやかで弾力に富んだ世界をこれからも見守りたいと思う。(敬称略)