『海原』No.61(2024/9/1発行)誌面より
大山賢太句集『花野原』評
日常寸感と小旅 西野洋司
大山さんより句集『花野原』が贈られてきた。そして間もなく俳誌「海原」編集長の堀之内長一氏より二冊の「海原」近刊が届いた。この俳誌は初めて手にしたものである。「海原」が安西篤代表の金子兜太「海程」後継誌であることは以前より承知していた。
ところでこの句集を手にした時、先ず脳裏に浮かんだのは藤沢市俳句協会の大会講師に金子兜太を委嘱し、藤沢市民館にて行った時のことである。昭和四六年一〇月一七目だったが、その大会で小生は兜太特選第一位となり、賞として目の前で色紙を揮毫して頂いた。
樹といれば少女ざわざわ繁茂せり 兜太
であり、「樹」の隠喩を楽しみながら現在でも書斎に飾ってある。面白かったのは協会幹事・青木泰夫の配慮による懇親会が鵠沼海岸の波音の届く小さな料亭「白鳥」で行われた際、宴半ば誰だったか「この近くに以前飯島晴子が住んでいたのよ」と語ったら、兜大は「あの人の句は考えに考えた句だな、弛んでくるパンティをキッとつり上げて………」と。いかにも兜太らしい冗語を添えて一同大笑い。肥った女性は畳に転がってしまった者もあった。
ついでに記せば藤沢には医学博士・小泉もとじの医院があり、俳句にとても熱心であったので文人達に愛されていた。
この日彼は兜太にすっかり惚れ込み「海程」ヘ入会したのであった。
なにやら余計なことを述べたようだが大山さんとの交流ももうかなりの年月になる。しかし彼は途中から障害者となってしまったが俳句活動は益々盛んになり藤沢市内で多くの句会の世話役に励み、この句集には愛すべき作品も多い。
花野原その先どこへ獣道
若き日丹沢山塊や周辺の低山をよく歩き、これは獣道だよと度々教えられた。そこは猪や熊あるいは鹿の塒があるのであろう。霧に閉ざされた山腹だった。
願い多く七夕竹の撓りおり
湘南平塚は七夕祭の盛んなととろで、小生高校が平塚だったから、級友とよくぶらつき書かれた寸言を楽しんだ。撓うのは願いの重さ故だろう。
秋彼岸「お迎えに来た」と外の声
多分女性の声だろう。お母さんか。宵の一時を晩酌か食事にでも誘いに見えたのか。一瞬作者のぎょっとした表情が見える。
返り花どこを徘徊していたの
何の返り花だったのだろう。日頃親しんだ庭前の木か。やや遅く帰宅したら多分白花だろう溢れ咲いていた。もう少し早い時刻だったら、自問自答の句。
新しい園児迎えるチューリップ
実に素直な表現が新入園児達の素朴な雰囲気を伝えてくれていよう。咲き揃っているチューリップを配したのもぴったり。花びらに触れている児もいたか。
敗戦日すいとん食べし想い馳す
被は戦後生まれ。小生は小学四年が敗戦日。親友と大きな蒸かし藷を食べ比べ、夕食はすいとんだった。この句〈思い〉ではなく彼の場合は〈想い〉だった。
キラキラと輝く海に入る神輿
湘南地方では茅ケ崎海岸の浜降祭が圧巻である。相模一の宮を始め各地から集まった神輿が早朝から海に飛び込む。俳人達も昔は多勢見学に見えていた。
お土産は猫の遊びし狗尾草
猫の大好きな大山さん。取り合せの面白さがあろう。通常犬と猫は性が合わないようだが、こんなこともあろう。お子様へのユーモラスなプレゼントか。
厨では夕餉の支度大根炊く
土間に竈のあった昔を回想させてくれた。この後大根は何に使われるのか、あの苦難な時代、うどん粉を溶いて混ぜ〈焼びん〉と称して夕食にしたものだ。
予定字数が乏しくなってしまったが、また余話。兜太の作品の多くには秩父の風土が偲ばれる。ところで大山さんも小生も旧藤沢宿の生まれであり、彼の近所には藤沢出身唯一の歌手・徳山璉氏が住んでいた。そういえば眼差しがどこか似ているようである。察するにこれは旅人へ注ぐ定着人の心情の籠ったものではないだろうか。
西条八十作詞、松平信博作曲・編曲
「侍ニッポン」
人を斬るのが侍ならば
恋の未練がなぜ斬れぬ
のびた月代寂しく撫でて
新納鶴千代にが笑い
これは氏のビクター・デビュー曲。
このあと氏は大磯の坂田山心中の「天国に結ぶ恋」を四家文子とのデュエットで紅涙をしぼり、トントントンカラリと「隣組」で替え歌まで発生させ、若くしてこの世を去ってしまった。
ところで大山さんの句風には師系の影響が全く感じられない。ジャーナリストとして活躍したことの反映か。今後詩人・大山賢太俳句への脱皮を切に望む。