『海原』No.16(2020/3/1発行)誌面より
並木邑人句集『敵は女房』
「本当の前衛」の底光り 柳生正名
戦後、「前衛」ということばがきらきら輝いていた時代が確かにあった。筆者は多分、それを知る最後の世代だ。とすれば、10歳ほど年長の並木邑人はさしずめそのど真ん中を生きた。そんな彼が上梓したこの第2句集には1994年から2016年までの20年強にわたる333句が収められている。その全編からは、「前衛の本当」を知る者のみが感じるはずの恍惚と不安を読み取らずにはいられない。
革命の五月! 雛罌粟手折らばや
「その時間を売るな」
甦る 虹の
ギロチン
犀抱けばそんなに恥ずかしがり屋では
ない
陶然、という語がある。本集に接し、そのような念を抱いたことも筆者の個人的感慨にすぎないのかもしれない。並木邑人の世界を「前衛」の語をもって語ることは、むしろ不当なレッテル張りになりかねないことが気がかりでもある。
しかし、それはそれとして1968年、仏蘭西で学生運動に端を発したうねりを思い出させる巻頭の一句にまず引き込まれる。また高柳重信「身をそらす虹の/ 絶巓/処刑台」ばりの多行形式に労働力の商品化が生む搾取への批判を託し、さらには兜太の「犀」連作にライトヴァースで挑みかかる―。そんな作者の気魄の現れ方には、「前衛」を感じてしまう。
思えば、香港の若者たちを突き動かすものの熱量の大きさや、大ヒットTVドラマで語られた「好きの搾取」という言葉、没後ますますの盛り上がりを見せた兜太トリビュートの動き―。これらの「前衛」句が「今、この時」につながる視点をあらかじめ具えていたことに気付かされる。それは「前衛」を知らない世代や人々にも、その魅力を伝えるに十分な文学的力を備えている。
俳句における「前衛」を過去の遺物として片付けることへの疑念は、2011年から16年にかけての震災句を集めた本集第5部を読むことで決定的になる。
街も春田もことごとく薙ぎTSUNAMI来る
津波。そして時間は動かざり
わたつみはくさめしただけ くさめする権利
原発のための原発舌苔濃き
街も田も荒野も区別せず、平等に呑み込んだ津波。それは人類の歩んできた「進歩」という時の足取りを押しとどめ、くじくのに十分なできごとだった。喪われた多くの命や日常のかけがえのなさを思うにつけ、被災地の廃墟で目の当たりにされた自然の力は圧倒的なものとして人間に迫ってくる。
しかし一方で、大自然の側からすれば、それすら千変万化の海原が催した一瞬の嚏にすぎない、ともいえる。その事実が、俳句では禁じ手のはずの「。」で表現される絶対的な断絶=「切れ」の感覚を作者のうちに生んだのではないか。自然と人間の間にある安易に踏み越えてはならない一線の存在と、すべての自然は人間の制御下に置き得るという増上慢が生んだ「原発信仰」への怒りを、読点という究極の切字を用いて読者に突きつけてくる。この大胆にして蠱惑的な試みこそが「前衛の真骨頂」などとついつい思う。
「前衛」には「難解」がつきものである。本集についても筆者のみならず、檜垣梧樓による跋文を読むにつけ、その博学と句の解釈の鮮やかさに圧倒される反面、自身の読解力の拙さと浅学ばかりに気が行く向きもあるのでは、と気にかかる。ただ、例えば
蟷螂に星刈るしぐさありにけり
一角獣座より伝声管の冬ざくら
真穹一枚かもめ食堂に売ってます
わが尿蜥蜴来て舐む入り日かな
鹿児島や耳のよい木に小鳥来る
の抒情は、読者が言葉そのものに身を委ね、自然に心を遊ばせることができる。それはこれらの句が「生きもの感覚」に裏打ちされているからにほかならない。
さらに人間や世間、社会に対して少し斜に構えた批評的まなざしを感じさせる
青梅雨の船体あんたんと性的
鶴をよく食べる若者ディープキス
燃やさないゴミの日に出す終末論
鰓呼吸したし正論に食傷し
ねばならぬもののこみあうのっぺじる
手袋が空を征く日のことを書こう
も、並木邑人の人となりを知る読者にはどこか懐かしい。それは小手先の機知を弄した作ではなく、人間性の奥からにじみ出る深みを帯びている。それがさらに俳味を帯びた自己客観化にまで至る
洗濯機に入れておしまい邑人句集
宿敵はずっと女房秋ざくら
では、あの長身のうちにたたえた体温をさえ感じ取れる。そして何よりも、明確な社会詠に踏み込んだ時の鉈の切れ味。
眼のきれいな鴉を拒むテロルの木
秘密法座視するままに冬の蝶
いつか来る開戦号外鳥雲に
憲法は死にますか今朝蕗を煮る
ここに至って「前衛」にも二種類あることに気付く。例えるならば、サッカーでは他の選手が担ぐ神輿の上に乗って脚光を浴びる役割だが、ラグビーでは逆。自身が体を張ってお膳立てし、後衛にポイントゲットさせる。それで言うなら、並木邑人は文字通りラグビーのスクラム第1列。きらきらちやほやと言うよりは、どこか土の匂いのする、いや俳句の産土そのものに足を踏まえて最前線に立つ者である。
棒杭派われら桜に寄りつかず
飛花落下のうわついたきらきらでなく、月光を受けた産土の底光りするきらきら―。本集を通じ、ようやく「前衛の本当」を知ることができた。 (敬称・敬語略)