『海原』No.27(2021/4/1発行)誌面より
田中雅秀句集『再来年の約束』
幸せな成熟の記録―風土・ふたりごころ・師 中村晋
桐の花本音はいつまでも言えず
本句集冒頭の一句。明るい空と桐の花。そこに陰影を含んだ、しかし決して暗くはない呟き。身体のどこかで作者の声が倍音になって響くのを感じる。
わぁ虹!と伝えたいのにひとりきり
タイミングが合わない回転ドアと夏
平易な言葉と軽妙なリズムで日常の一コマを切り取りつつも、ふっと漏れ聞こえてくるため息。そしてこの句集のタイトルとなった一句。
再来年の約束だなんて雨蛙
再来年という微妙な未来への違和感と毒を、「だなんて」という口語に上手に包む技巧。しかもそれを「雨蛙」で見事に中和し、滑稽味まで出す味わい。
かと思えば、ふっと自分自身の内面を覗き込むかのような次の一句。
ほうほたる弱い私を覚えてて
蛍の光が美しく、その闇は深い。「ほうほたる」に妖しい呪術的な響きがある。私は思わず作者に心の中で声をかけていた。「雅秀さん、こんなふくよかな句の世界をいつの間に熟成させていたんですか」と。
雅秀さんの俳句の特徴といえば、都会的なセンスと大胆な言葉づかい、鮮やかな切れ味。
仲良しや微妙な距離のフラミンゴ
これは私が初めて東京例会に参加し、また雅秀さんと初めてお会いしたときの句と記憶している。「仲良し」という言葉を持ってくる意外性。一方、人間関係の微妙さをフラミンゴにみる繊細さ。いたく感心した思いが今も鮮明だ。また、
木守柿忘却という安堵かな
初雪や鳥には鳥のしらせかた
白鳥の声する真夜のココアかな
など、日常生活の一瞬や一場面、そのときどきの心情をシンプルにかつ大胆に切り取る鮮やかさに、多くの仲間から共感を得ていた。ところが、雅秀さんはとっくにその域を抜け、成熟と豊饒と陰影に富んだ境地を目指し、外の世界と自らの内面を通わせる句を確かに作りあげていたのだった。一読三嘆。その充実度。
この句集の魅力のひとつに、雅秀さんが住む会津地方の風土が深く内面化されていることが挙げられると思う。雅秀さんは平成十八年、東京から福島県会津地方に移住した。当初、東北の厳しい風土に戸惑いを隠せないこともきっと多かったはずだ。
この町に住む食べる泣く冴え返る
こんな率直な句が、同じ福島県に住む私にもずしんとくる。しかし雅秀さんはその風土に根を下ろし次のような佳句をものにする。
ファルセットここからはもう雪の域
冬虹の低し集落は小さし
裏声が美しい合唱曲。そこに雪の降る音を感じている作者。生活の枷となる東北の重い雪を、美しく華やかに、祈りを込めて描く。また冬虹と集落との対比。自然には抗いがたい人間存在。風土の血肉化結晶化をみる思いがする。
また、あの震災に向き合う作品群も読み応えがある。原子力発電所から離れた会津地方も決してその影響から逃れられなかった。その記録は震災後十年を経てなお貴重である。
愛鳥週間線量計を渡されて
秋の蝶ゆめの果てなる汚染水
冬木立フクシマの月串刺しに
個人としてまた俳人として社会の問題にどう関わるか。真摯な態度が伝ってくる。また、高校教師として生徒たちと学び、彼らへ注ぐ眼差しも温かい。
山藤ゆれて会いたかった会いたかった
雪虫の話を仮設の少女とす
震災でつらい思いをした子どもたち。それにそっと寄り添う作者。人間味あふれる「ふたりごころ」の世界。
そして、この「ふたりごころ」の世界が、師金子兜太への追悼句として結実するのも見逃せない。
猪の去りたちまち迷子なりわれは
他界っていったい何処だ雪虫よ
「猪」「他界」という師の好んで使った言葉と「雪虫」という会津の風土との交感。生きもの感覚。雅秀さんは師からしばしばこう言われたという。
「もっと会津の風土を詠みなさい。」
金子先生も、これらの句と作者の成熟ぶりにきっと喜んでいるはずだ。
風土、ふたりごころ、そして師の存在。こうしてみると、「ほうほたる弱い私を覚えてて」には東北の深い闇がある。また、「桐の花本音はいつまでも言えず」にも初夏の会津の色彩があふれている。桐の花の色と共鳴する句集帯の紫色。装幀にも作者の心憎い配慮がある。
この句集には、個人と俳句との幸せな成熟の過程が見事に記録され、俳句を隅々まで味わう喜びに満ちている。
田中 雅秀(雅子)の夫 田中 徹と申します。彼女は4月28日乳がんのため亡くなりました。10年前に乳がんを患い、4年前に肺と骨に転移が確認され、余命3年と宣告されておりました。”再来年”は自分の余命を考えての句だと思います。他にも彼女が闘病の中で”死”と向き合ったと思えるような句があります。彼女が”死”と向き合っていたことを考慮して、再度句集を読んでいただけたら幸いです。
雅秀さんのご逝去を知り大変驚き、ショックで心がドキドキ早鐘を打ってます
会津のホテルで句会をしてお世話になたときの記憶が鮮明に蘇ります
句会の後、会津の街が好きになり家族で再訪しあちこち巡りました
会津に行けば雅秀さんに逢えると思い、コロナの収束を心待ちにしていました
私は今東京を離れ京都の自宅にいますので、句会ともごぶさたで彼女にお会いする機会が無く、
病気のことも存じませんでした。本当に残念です
ご家族の皆様に心よりお悔やみを申し上げ、彼女のご冥福をお祈りいたします
昨日、田中雅秀さん、ご他界の事を知りました。あまりにも突然で今は深い悲しみの中におります。長瀞での俳句道場でよくお会いし、雅秀さんの会津のホテルにも吟行の際にお世話になりました。素晴らしい夢のような楽しく豊かな時間でした。雅秀さんは、少女のようなあどけなさを残しながらも芯のしっかりした美しい方でした。ご病気のことは知らなくて、またいつか会津へ、雅秀さんに会いに行きたいと願っていました。悲しみで胸がいっぱいで言葉になりません。ご主人様を始めご家族ご一同様に心よりお悔やみを申し上げます。
山藤ゆれて会いたかった会いたかった(田中雅秀)・・きっと今頃は、兜太先生と再会され私たちを見守ってくださっていると信じています。雅秀さん、お世話になりました。ありがとうございました。 合掌。
雅秀さんとは大会や秩父道場でお目にかかってました。「海程」の大会が京王プラザで開催され、一夜あけてから会津の雅秀さんのホテルで開催される句会、皆と吟行に向かいました。このことについては、兜太先生の雅秀さんへのエールだと思っています。東日本大震災を乗り越えてきた雅秀さん、そして東北の人たちへのエールです。
雅秀さんは腰が軽く、こまこまと動き回り、句会場での運営の手伝いをしていたものでした。出会うと会釈をするくらいのつながりでしたが、もっと句とかお話できていたらと残念に思います。
白河の関での雅秀さんの説明、山をそぞろ歩きしながら霊気を感じ、印象深く今でも心に残っています。そして、ホテルでのもてなし、おいしい食事、会津の街やお城の散策、もっと会津を歩き回りたいなと思ったものでした。
地域の句会である方が”会津暗緑・・霧雨・・”を詠い、福島の苦しみが凝縮していて、霧雨がまるで泣いているような印象を受け、心打たれました。どなたかが雅秀さんの追悼句でないか、ということで、それで雅秀さんの死を知ったのです。あのように元気で動き回っていた、色白の雅秀さんを思うとやりきれなさが胸にずしりと重く残っています。京王ホテルの懇親会会場で歌人の永田和弘氏に、「永田裕子さんのファンです」と挨拶をしたら、「彼女の歌を読んでください」と。裕子さんも乳がんの再発で亡くなったのです。苦しみにのたうちまわりながら、最後まで歌を作っていました。
ご家族様もコロナ禍の状況、大変なことは重々わかっておりますが、乗り越えて、耐えていただきたいなと思っています。