『海原』No.35(2022/1/1発行)誌面より
追悼 木村リュウジ遺句抄
頬杖は時のほつれ目シクラメン
初つばめ絵筆は水の先を追う
寝言かもしれず初蝶かもしれず
遅き日の海を手紙と思うかな
はつなつの白線出たら死ぬ遊び
おとうとに椅子のしずけさ五月行く
母の書くとめはねはらい麦の秋
白き帆が夏の痛みに耐えている
ほおずき市ことばが宿りそうな風
詳しくはないけど虹の手話だろう
耳鳴りに明日のかもめを描き直す
朝顔や指先いつも風を乞う
ゆっくりと名前を失くしコスモスへ
秋桜やまどろみという小さな駅
ラ・フランスやさしい鬱によりかかる
息白し音叉のようにひと待てば
あやとりは一本の糸山眠る
ふと父の問わず語りや龍の玉
風花に舟という舟やせてゆく
自画像に足され白鳥は不機嫌
(宮崎斗士・抄出)
君はこれからも 宮崎斗士
10月20日(水)の夜遅く、彼はこっそりと自宅を出て自転車に乗ったらしい。目的地は近くの公園。一本のロープを携えて……。
彼が生前発表してきた文章。
――私はこれからも俳句によって「日常のなかの非日常」とも呼ぶべき瞬間を追いかけていきたい。
――私はこれからも俳句の海のなかでその時々の「大切なこと」を言葉にしていきたい。
――私はこれからも「俳句とは何か」ということを考えながら句を書いていきたい。
彼が熱く語った様々な「私はこれからも」、彼の俳句への情熱のベクトルがたった一夜にして全て消え去ってしまったのだ。
享年二十七。戒名「蒼龍俳諧信士」――。彼との初めての出会いはかつて埼玉県大宮で開催されていた「海程」東京例会だった。その頃、金子先生のお体のコンディションが思わしくなく、ご欠席が続いていた。「今日も金子先生にお会いできなかったです。残念です」と彼がよく例会のあとの懇親会で嘆いていたのを思い出す。結局、彼は一度も金子先生と対面することができなかった。
彼は2017年に自律神経失調障害、神経症との診断を受け、その後もずっと心療内科に通っていたらしい。心の中に爆弾を抱え、その導火線に火が点いたら消し、火が点いたら消し……を繰り返しつつこれまで生きてきたのだろう。彼の最後の選択である「自死」を肯定することはもちろんできないが、長い間彼が抱えていたその辛さ、苦しみはほんの僅かでも解ってあげたいと今思う。
死と生の交わるところ揚雲雀 リュウジ
彼の「海原」での三年間の活動、彼の作品群は、まさに揚雲雀の煌めきとして、私の心の中にいつまでも遺るのだろう。若干のほろ苦さを伴いつつ。
そういうわけで蒼龍俳諧信士よ、向こうで海程院太航句極居士さんという方にお会いすることがあったら――「お会いできたらお聞きしたいことがたくさんあります!」ってあの頃いつも言ってたよね――俳句の話で心ゆくまで盛り上がってください。
そして、君はこれからも――。
木村リュウジさんとはSNSと書簡による繋がりだけで直接お会いすることはありませんでしたが、斗士さんの抄出によってあらためて彼が生きた証と出会えた気がしています。その死は本当に惜しまれます。「これからも」が悲し過ぎます。ご冥福をお祈りいたします。
1月23日、東京新聞、外山一機の俳句のまなざし「三行表記の彼」を読み、木村リュウジと言う俳人を初めて知りました。抄出された数々の名句、才能がみなぎっています。人生の途上で自ら生を断ち切ったことは非常に残念なことですが、才能が開花され名句を残し、我々がそれを鑑賞できるということは幸せなことではないでしょうか。彼は、苦しんで生きてきたのです。それ以上のことを我々が望むのは可哀想です。