『海原』No.68(2025/5/1発行)

◆No.68 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

雪女求人倍率高いらしい 綾田節子
青い鳥会話ころがす藪柑子 伊藤清雄
悴むよガザ停戦に期限 伊藤巌
壊された街が吐いてる冬の虹 榎本祐子
好きだった本屋閉店龍の玉 大池桜子
雑居ビルの注連縄蒼く月のぼる 大西健司
冬銀河仮想本屋の棚探す 奥山和子
冬麗の回転木馬騎士を待つ 桂凜火
受胎しにふもとへ降りる雪女 川崎千鶴子
凍蝶のほどけて渺渺とひかり 川田由美子
しょ冬の火種今父にある記憶力 木下ようこ
たよりなき明日への地固め初日記 黒済泰子
開戦日最前列の椅子が空く 三枝みずほ
革命の先のAI冬銀河 滝沢泰斗
折り鶴が空に喪の家初あかり 竹本仰
軽妙に辻音楽師銀杏散る 田中亜美
凍蝶をはがせば拉致と呟きぬ ナカムラ薫
被曝とは棄てられること柿に雪 中村晋
万感の小鈴を振ろう喜寿の春 仁田脇一石
初富士や余生と云わず今を生く 野口佐稔
ぬぬ嘘じやないよね初日から真蛇 野﨑憲子
三様に生きて姉妹の雑煮膳 平田恒子
告白の余白を埋む細雪 松本千花
龍の玉いのちのなべてしずもれり 水野真由美
風花は途切れ途切れの暗唱です 宮崎斗士
花枇杷のちぎり絵のよう記憶 三好つや子
詩篇みな紙片に変えて冬青空 望月士郎
物語におさらば白々咲く八手 柳生正名
街金の錆びた看板花アロエ 山本まさゆき
推し活を冷ややかに見る冬薔薇 渡辺厳太郎

高木一惠●抄出

山棲の狼火のごとく落葉焚く 榎本愛子
ジュード・ロウに母と見惚れる女正月 大池桜子
象の優しさAIに聞いてみる 大久保正義
一切を略して冬のかもめです 大沢輝一
親鸞にしみじみと問う寒夜 大髙宏允
冬銀河コキ73貨車に装甲車 大西健司
初夢の中でおんなじ眼をしたり 小野裕三
冬麗の回転木馬騎士を待つ 桂凜火
最後まで俳句抱きたい散紅葉 川崎千鶴子
淋しさの擬態のように葛湯吹く 河原珠美
散薬を粗雑に流し込む師走 北上正枝
寅彦忌死んでも死後は未解決 齊藤しじみ
小心の足跡を消す今朝の雪 佐藤詠子
生家跡冬草一本の更地 清水茉紀
鍾乳洞のごとき古書店雪催 菅原春み
子規堂の畳引き攣れ冬ざるる 高木水志
インバウンド 三千万余の糞尿譚 田中怜子
もう色でなくなりそうな冬の薔薇 月野ぽぽな
御降りや青人草のわたしたち 遠山郁好
万難を生きて師と逢う初御空 岡崎万寿さん 野口佐稔
太陽の消化不良か夏の冷え 野口思づゑ
彼の地では戦車の音か除雪車来る 新野祐子
猫じゃらし旅の終ったホビット族 日高玲
心臓が死の話する雪はらり 藤野武
どちらが寒い給水塔とわたくしと 松本千花
遠山に牛馬のたましい辛夷咲く 松本勇二
風花は途切れ途切れの暗唱です 宮崎斗士
詩篇みな紙片に変えて冬青空 望月士郎
毎食すウクライナ蜂蜜ああ命 森田高司
去年今年充分に水が囁く 茂里美絵

◆海原秀句鑑賞 安西篤

壊された街が吐いてる冬の虹 榎本祐子
 震災で壊された街に、虹がかかっている。あたかも地震に悪酔いして、街にまだその吐き気が残っていると喩えているのだ。冬空の虹さえも吐き気は治まりそうにない。むしろ思い返すたびに、胸に込み上げてくるものがあるのではなかろうか。作者は兵庫県に在住している人だが、能登地震の報道に、三十年前の阪神淡路大震災を思い返し、他人事ならず追想しているのではないか。

雑居ビルの注連縄蒼く月のぼる 大西健司
 貧相な雑居ビルの入り口にも、注連縄が張られて厄除けの小さな神棚が祀られている。国内ならどこにでも見られる景ながら、いったん事が起こったときには、そんな配慮の欠けた所有者の責任は厳しく問われよう、雑居ビルは、一つの景の中に収まり良く鎮座している。月が注連縄を蒼く照らしながら中空へ登ってゆくとき、注連縄を張った雑居ビルが、神妙に月に祈りを捧げているような気がしてくる。

冬銀河仮想本屋の棚探す 奥山和子
 仮想本屋とは、デジタル技術を使ってリアルの本をどう売るかというメタバース時代の書店を先取りしたもの。数万冊収蔵の本棚劇場という圧倒的な仮想空間を展開し、本の表紙からブックレビューを読んで購入する仕組みで、まさにリアルとネットの断層をなくす。筆者はまだ利用したことがないので実感に欠けるが、冬銀河の彼方に広がる仮想の本棚劇場を想像することはできよう。

開戦日最前列の椅子が空く 三枝みずほ
 開戦日の朝の最前列の椅子とは、おそらく戦争に向かって前のめりに立ち向かおうとする人に用意されたものだろう。その椅子が空いていたとは、決して戦争を肯定し推進しようとするのではなく、むしろ戦争を避け、控えめながら平和に暮らしていきたいとする庶民の不安や願いの現れではないか。そんなささやかな幸せへの、つつましやかな自己主張とはいえないだろうか。

軽妙に辻音楽師銀杏散る 田中亜美
 辻音楽師は、放浪の詩人や音楽家が、人生と恋に幻滅して冬のさすらいの果てに死んでゆく情感を演奏することが多い。ことに銀杏散る公園や街路で、軽やかな哀愁を帯びた弾き語りを聞かせてくれる。その演奏に合わせて銀杏の散る風情は、ご祝儀を包んだ小さな紙礫のように降り注ぎ、舞い踊る。上五の「軽妙に」が、ヨーロッパ風音楽師の洒落た演奏振りを捉えているようだ。

被曝とは棄てられること柿に雪 中村晋
 福島では、被曝後はや十四年の歳月を経ながら、復興の足取りは重く、新たな課題も山積して来ている。その間に能登地震の発生もあり、現地の人々からすれば、もはや被曝災害の福島などは見捨てられたような印象があるのではないか。それは庭の雪に埋もれた柿の実のように、忘れられた存在にされてしまったのではないかともいう。そこには現地の人ならではの焦燥や絶望感が詠まれている。

三様に生きて姉妹の雑煮膳 平田恒子
 三姉妹がお正月に、久しぶりに実家に集まって、一緒に雑煮膳を祝っている。三者三様に人生を歩んできたのだが、こうして共に雑煮膳を祝うとなれば、やはり肉親同士、三人にとってかけがえのないひとときとして懐かしんでいるに違いない。話すことの多いわりには、口数少なく、顔を見合わせながらゆっくりとその時を味わっている。「三様に生きて」が、お互いへの思いやりにつながっていて、別人生を歩んだ三姉妹の生きざまへの忖度をもたらしているようだ。幼い頃共に味わった雑煮膳をも思い出しながら。

告白の余白を埋む細雪 松本千花
 この句の告白は、細雪の情感から推して、愛の告白と受け取っていいのではないか。愛の告白には、言い尽くせない思いが残るもの。その言い尽くせなかった思いが、庭の隅の細雪のように吹き溜まっている。告白の余白部分は、細雪の純潔な白さと細やかな雪片によって、思いの丈をいや増すように見える。作者はその思いの深さを確かめるように、余白に目を凝らしているのだろう。

風花は途切れ途切れの暗唱です 宮崎斗士
 風花の舞う空間を「途切れ途切れの暗唱」とは、よくぞ捉えたと思う。「途切れ途切れ」の描写は普通だが、「暗唱」とまではなかなか言えない。風花の舞う空間は、自在に跳ねまわっているようにも見えながら、なにやら苦し気な断絶の瞬間をも垣間見せている。それを、暗唱の時空のように喩えたのではなかろうか。

詩篇みな紙片に変えて冬青空 望月士郎
 冬の青空から、あたかも授かるように舞い降りてくる詩篇の数々は、みな紙片に書き換えておこう。詩篇の映像は、心の中の異次元チャンネルが捉えたものだから、言葉として残しておかないと瞬時に見失う。まして冬のどんよりした青空の下では、ことさらに。詩人的資質の高い作者にして、なおこの言ありとは。

◆海原秀句鑑賞 高木一惠

初夢の中でおんなじ眼をしたり 小野裕三
風花は途切れ途切れの暗唱です 宮崎斗士

 二句共に気軽な口調で、興趣は鑑賞者次第という作者の想いも窺えそう…。「おんなじ眼」は如何様にも受け取れるが、私は夏目漱石の『夢十夜』第一夜の「その真黒な眸の奥に自分の姿が鮮やかに浮かんでいる」女の眼を想った。女の死後に約束通り墓の傍で百年待ち、再会を果たすという夢の話が美しい。「暗唱」を、暗記した詩や文章を声に出して表現することと解すると、「おんなじ眼」と「風花」は意外に響き合うのではないか。

親鸞にしみじみと問う寒夜 大髙宏允
 親鸞『歎異抄』の「善人なおもて往生を遂ぐ、況んや悪人をや」を曲解はしないが、昨今の世界の指導者方の帝国主義を振りかざすような発言を聴くと、なんとも辛くなる。それでも「しみじみと問」われて、親鸞の応えは変わらぬはずと、そのことは信じられる。高校の入学祝いにと、茨城からわざわざ上京して、父が神田の書肆で倉田百三の戯曲『出家とその弟子』を買ってくれた。父はその折の心情を明かさずに五十歳半ばで逝ったが、以来親鸞は父の形見のように、拙き私の座右に在る。

最後まで俳句抱きたい散紅葉 川崎千鶴子
 座五の「散紅葉」に、良寛の辞世の句として知られる〈うらを見せおもてを見せてちるもみぢ〉が想われる。香川の大会に痛む脚を庇いつつ参加された作者。秩父では早朝の河原を散策していらした。昨秋は静岡で御尊顔を拝して、大いに励まされた。裏も表も別なく、ひたむきに俳句を愛して生きる散紅葉ぶりに献杯!

寅彦忌死んでも死後は未解決 齊藤しじみ
 死ねば死の世界に入れる、でもどんなに頑張っても死後は「死の後」そこまでなのだ…ということであろうか。「寺田物理学」の名のもと「天災は忘れた頃にやってくる」の言を残し、漱石門で俳諧論も数多ある寺田寅彦の忌日(昭和十年の大晦日。筆名吉村冬彦に因み「冬彦忌」とも)を配したところが「死」という大命題に相応しいと思う。著書『アインシュタイン』は私の愛読書だ。

もう色でなくなりそうな冬の薔薇 月野ぽぽな
 掲句を眺めていたら立原道造の「のちのおもひに」が浮かび、シューベルトの歌曲「冬の旅」へと導かれた。冬の薔薇が「色でなくなる」とは、戸外で自然に装う色彩を喪う姿とも、薔薇のイメージによって擬人化された存在がその有り様を喪失しかけている姿ともとれるが、共に作者の句の音楽性に包まれて顕ち上がってくる。―すべての芸術がそれに向ってあこがれるといわれる「音楽の状態」(三好達治著『詩を読む人のために』)その音楽の状態を、ぽぽな俳句は感じさせてくれる。

御降りや青人草のわたしたち 遠山郁好
 正月三が日に降る雨や雪を、天から神霊が降り下る、或いは神霊に捧げた供物をもらい受けると見立てて敬う心から生まれた新春の季語が「御降り」である。初詣に行列を作ったり、一斉に敬虔な様子を見せる人々と共に御降りを受け、作者はふと、記紀に登場する青人草(あおひとくさ・国民、民草等と定義される)を想ったのだ。「人が増えるのを草が生い茂るのに喩えた語」とも解されるが、もう少し身体感覚を鋭くして、地球民としての「青人草」たる身を実感したのだと思う。

猫じゃらし旅の終ったホビット族 日高玲
 トールキンのファンタジー小説『指輪物語』の三部作が上映され、最終作『王の帰還』は『ベン・ハー』『タイタニック』に並ぶアカデミー賞最多受賞数を誇った。ホビット族をはじめ様々な種族が手を携えて平和を得るために戦う旅の物語で、その核となる指輪の所持者達は皆、一生涯消えない心の傷を負うというところが、厳しい現実世界を視野に入れて、唯の夢物語を超えている。陽に揺れる猫じゃらしが、旅を終えて安らぐホビット達を彷彿とさせて、平和への作者の願いも仄見える。

心臓が死の話する雪はらり 藤野武
 念の為の検査で、心筋梗塞一歩手前の冠動脈にカテーテル治療を施された際に、造影剤を入れた心臓を覗き見る機会を得た。風船を膨らますようにしてステントを挿入した時の梗塞体験は、ほんの数十秒だったが歯の先まで凍りつく感じで、ある意味、臨死感覚だったかと思う。生きていれば体温で溶ける淡雪も、心臓が止まったら唯積もるだけなのだ。「雪はらり」の景、音韻も見事だ。

詩篇みな紙片に変えて冬青空 望月士郎
 作者一流の掛詞の「しへん」がぴったり嵌まって、真っ青に乾いた空が哄笑しているようだ。旧約聖書に収められた神への賛美の詩を「詩篇」と称し、ユダヤ教やキリスト教における詩篇の朗誦は歌唱を伴うものが多い。長男がカトリックの幼稚園に通った縁で、信徒でない私も賛美歌に親しんだが、今はつい、破壊されたガザの映像がちらついたりして、穏やかな気持ちでは対せない。ステンドグラスに騙されまいと思ったりもする。

◆金子兜太 私の一句

山みみずぱたぱたはねる縁ありて 兜太

 昨春、「海原」少人数で九州吟行をした時、N氏から「この句、どう思うね」と訊かれた。「この『縁』は縁側たい」。あっと驚いた。昔、国東半島を家族旅行した折、山みみずが十㎝以上も集団で飛び跳ねるのに遭遇し、娘が悲鳴をあげたのを思い出したのだ。はぁ〜先生…思わず兜太のまなこにぶつかったのを感じた。句集『旅次抄録』(昭和52年)より。竹本仰

荻野吟子の生命いのちとありぬ冬の利根 兜太

 この句は熊谷の荻野吟子記念館に句碑があります。平成28年の海程全国大会後の有志吟行は兜太先生の句碑めぐりでした。兜太先生が案内してくださいました。青い空の下ポピーが咲く広々とした利根川の土手を、先生が先頭で楽しそうに話をされながら歩かれて、私たちは長い列で後に続きました。大切な思い出となりました。句集『百年』(2019年)より。谷川瞳

◆共鳴20句〈3月合併号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

桂凜火 選

○十日前抛った石がみんな秋 大沢輝一
○生きること研ぐよう冬青草に臥す 川田由美子
運転と妻を返納して野焼 河西志帆
枇杷の花貧しく乾くおとなの手 木下ようこ
含羞と云ふには遠し冬の嶺 佐孝石画
冬霧きりの駅入っても出てもフクシマ 清水茉紀
短日や恋文燃やし手を洗う 菅原春み
黄昏のぶどう畑にソウルメイト 芹沢愛子
千切られたノートの破片冬鴎 立川真理
仕事やけに捗る獅子に噛まれた日 谷口道子
熊という闇が真昼を歩みおり 月野ぽぽな
風切羽なくて鶏頭なまなまし 鳥山由貴子
捨案山子重なり眼玉ふえてくる 丹生千賀
ガーゼの語原ガザと知る十三夜 長谷川順子
老人のハーモニカ水鳥よびもどす 藤盛和子
ちがふ世の光がすべり龍の玉 水野真由美
白桔梗がゆらり私という文体 宮崎斗士
離れると聞こえることば蕎麦の花 望月士郎
水の秋傷つくことってもうふつう 茂里美絵
水平線戦火のように燃えだして 夜基津吐虫

並木邑人 選

公孫樹切る手続きに行かねばならぬ 石川和子
夜の長し自分語りをティッシュで丸め 伊藤幸
○十日前抛った石がみんな秋 大沢輝一
枯葉踏む無伴奏チェロ組曲のよう かさいともこ
○生きること研ぐよう冬青草に臥す 川田由美子
木の実降る足指ひらくマリア像 黒済泰子
実直な刈田跡です独逸パン 小林ろば
室の花皆黙読の法学部 小松敦
○秋めくとノート孔雀のふりをする 佐々木宏
4Bの鉛筆ころぶ秋の暮 佐藤二千六
冬霧きりの駅入っても出てもフクシマ 清水茉紀
稲つるび明日香の村を編み渡る 高木水志
母の耳もう探すまじ桐一葉 竹内一犀
蟹の目に映る辺野古の工事かな 仲村トヨ子
不戦の世さがす点眼色なき風 三浦静佳
父母に叱られにゆく秋野かな 三好つや子
鉦叩ふっと正気になるからだ 茂里美絵
銀杏散る一村並べて野面積み 矢野二十四
秋灯下消しゴムみたいに働いて 山田哲夫
我が背にギザギザの鰭冬の月 山本まさゆき

服部修一 選

宇宙まで飛ばぬロケット囮鮎 植竹利江
復興の視察のやうに雁渡る 江井芳朗
厄介な血筋ぎんなん匂うなり 榎本祐子
文化の日世に立ち上がる赤ん坊 江良修
つま逝きて胞子を吐きし月夜茸 遠藤秀子
ありのまま生きてスベリヒユ食す 大西健司
椋鳥むく騒ぐ街に静かな街宣車 尾形ゆきお
台風の裏側にいる未亡人 小野裕三
お隣も向かいもやもめ露月夜 加藤昭子
自画像は突起の固まり曼珠沙華 川崎益太郎
きょうはここまで晩秋が云うのです 小池弘子
姐さんと呼びたき猫や秋うらら 齊藤しじみ
分度器と同じ形の山粧う 清水恵子
折り鶴をひらくひとりの夜長かな 田中信克
○コスモスや私は多感なおじいさん 峠谷清広
天の川誰かを忘れるための鈴 中内亮玄
革命はひそかに全山紅葉す 平井利恵
いつのまにか居なくなる人茸狩 平山圭子
落ち葉ほっえにしも意もなく重なり合う 村上友子
金魚玉見られているのは人間です 森田高司

室田洋子 選

流木はクビナガリュウとなる秋日 石川青狼
水澄めり赤き魚棲む嫗の家 石塚しをり
鳩吹く風切手の国へ旅ごころ 遠藤秀子
麺麭の祖に胡桃献上ぐりとぐら 河原珠美
日雀かな風に道草させている 北上正枝
紅葉かつ散る猫舌のまま老いぬ 木下ようこ
笑い止むように遠くへ秋の虹 小松敦
○秋めくとノート孔雀のふりをする 佐々木宏
冬の薔薇たとえば姉のアルトかな 竹田昭江
○コスモスや私は多感なおじいさん 峠谷清広
素泊りのつもりだったの浮寝鳥 董振華
「フクシマ」と白湯吹くように囁き冬 中村晋
星流るゴッホの耳の冷たさに 中村道子
草の花地に働けば腰にくる 野口佐稔
天志ひとり琵琶湖の月を釣り上げる 野﨑憲子
パスワード忘れた方はコスモスまで 福岡日向子
侘助やゆったり受話器取りし頃 松本勇二
大輪の菊に針金君に僕 森武晴美
カレンダー裏の荒野よ冬に入る 山本まさゆき
少年や母船のコンビニより散らばる 夜基津吐虫

◆三句鑑賞

枇杷の花貧しく乾くおとなの手 木下ようこ
 乾いた手は、冬場には珍しい物ではない。だが「貧しく乾く」といわれると経済的にも苦しい暮らしが想像させられるが、眼目は、「おとな」の把握かと思う。大人であることの証は、暮らしを守る実直な手に現れる。そんなふうに作者はふと感じたのではないか。瑞々しい実をつける枇杷の花の慎ましい姿に共振するようだ。

風切羽なくて鶏頭なまなまし 鳥山由貴子
 風切羽は鳥の両翼にある羽で飛行の際に風を切ることに由来するらしい。また映画として小澤雅人監督の児童虐待を題材にした「風切羽」がある。ここで風切羽は、鶏頭の一部を指すようにも見えるが、私は、作者が象徴としての風切羽をなくし、あの鶏頭花の独特な姿をなまなましと見ていると読み、肌感覚として共感した。

白桔梗がゆらり私という文体 宮崎斗士
 「私という文体」って何なのか。不思議だが、よく考えると魅力的な文章には当然のように個性というようなものが文体に現れていて、それは「私」自身であるとも言える。そして「白桔梗がゆらり」はその理屈をふんわりと上手く導いていて、「私」という自我と美しく屹立している。その姿はとても魅力的だ。
(鑑賞・桂凜火)

夜の長し自分語りをティッシュで丸め 伊藤幸
 自分語りは自慢を自信ありげに話すこと、地域にこんな人が必ず一人は居ますね。こちらが話をしようとしてもすぐに主導権を奪い返し、また長々と話を止めない。これは夜ですから句会の後のことでしょうか。いい加減にケリをつけるべく、一切をティッシュに丸めて気持の切替えを計った作者、賢明の一言です。

実直な刈田跡です独逸パン 小林ろば
 丁寧に刈られた稲田と独逸パンの取合わせに、まず頭が同期してしまう。しかし映像を並べてみると幾分の違和感も拭うことが出来ない。独逸パンはライ麦がベースとのことで、麦刈と独逸パンを組合せてみるも、理屈が合い過ぎてつまらない。プレッツェルのように腕組みして考えてみたが、矢張原句のままが宜しいようで。

鉦叩ふっと正気になるからだ 茂里美絵
 ピッピッと弱々しくも甲高い声で鳴く鉦叩は、物憂げな秋の夜に彩りを添えてくれます。正気は「しょうき、せいき」のどちらに読むかでその景色を異にしますが、簡明にしょうきと読むことにしましょう。すると正気というものの飾らない、主張しない、しかし確と四股を踏んだ姿が浮かび上がってきます。
(鑑賞・並木邑人)

きょうはここまで晩秋が云うのです 小池弘子
 晩秋という概念がものを云うスタイルにとても惹かれた。しかも季語の「晩秋」と「きょうはここまで」の語感のほかは具体的には何も書かれていない。きわめて抽象的な句である。しかし、読み手は季節、時の経過、就業成果など多岐にわたって思いを巡らすことができる。一仕事終えた後の晩秋の夕刻の空気感が充溢している。

いつのまにか居なくなる人茸狩 平山圭子
 「いつのまにか居なくなる人」だけでは、煤逃げのようなシーンを揶揄的に言ったのか、自分を一人にしてしまうという淋しい思いが込められたものか判別できない。「茸狩」の一語でようやく読み手は、茸狩のわくわくするような場面を思い浮かべ、「いつのまにか居なくなる」人物の行動と詠み手の心理に納得がいくのである。

落ち葉ほっえにしも意もなく重なり合う 村上友子
 街路か公園内か、無数の落ち葉が積もり重なっていく様子を詠んでいる。一枚一枚の落ち葉同士は縁も意図もないのに重なり合うというのである。しかし落ち葉たちはただただ風に吹かれてそこに積もり、重なリ合うだけなのだろうか。上五の「ほっ」の人間臭さも手伝って、この句は人間同士のつながりや絆の在り方を言っているのではないかと思う。
(鑑賞・服部修一)

笑い止むように遠くへ秋の虹 小松敦
 虹を見つけると嬉しい。「わあ虹」と思わず声が出て誰かに伝えたくなる。けれど儚くてさあっと消えて行く。作者はその様子を笑い止むように遠くへと言う。何と優しくて温かな表現だろう。家族や友達と微笑みながら見て惜しんでいたのかもしれない。小松さんの句はご本人がそうであるように明るく晴れやかで心地がいい。

コスモスや私は多感なおじいさん 峠谷清広
 コスモスと多感と少女だったらとても付き過ぎ。けれどこれはおじいさん。峠谷さんらしい句だなあとちょっと可笑しくて愉しくて嬉しい。老人は無表情で何か不機嫌にも見えるけど、日々些細なことに傷ついたり喜んだり心は若い頃とそんなに変らないのだ。一面のコスモス畑に佇むおじいさん。なかなか絵になる素敵な景色だ。

天志ひとり琵琶湖の月を釣り上げる 野﨑憲子
 一昨年に亡くなった増田天志さんへの追悼句だと思う。釣りがお好きだったのだろうか。静謐で幻想的な大きな景が美しい。何度かお会いしたがもの静かな近江の漢と言う感じがした。やはり一昨年に亡くなったらふ亜沙弥さんのお喋りにニコニコと頷いていたのを覚えている。らふさんがひょっこり覗きに来るかもしれない。
(鑑賞・室田洋子)

◆海原集〈好作三十句〉堀之内長一・抄出

冬ひなた帽子を脱げば童顔に 和緒玲子
吾の知らぬ暮らし美し日記買う 有栖川蘭子
買初は淡き紅色丸めがね 阿武敬子
卵酒自分で作る他なくて 石口光子
寒凪や流木の群れ疾駆せる 石鎚優
肉喰らう私を許す大晦日 井手ひとみ
冬林檎たまにソファーの斜めかな 伊藤治美
抽出しの温石つややか霙るる夜 上田輝子
沢庵や面も入歯にささへられ 鵜川伸二
石っころ跨いだくらいの年越です 遠藤路子
人間じんかんはぼちぼちが良し海鼠食む 大渕久幸
賽日やぶいりや仕切り直しの朝の些事 小田嶋美和子
角巻やまぶしき婦人となりにける 小野地香
春兆す野をひとすぢの煙かな 廉谷展良
妻の位牌ねんごろに拭く年用意 神谷邦男
冬椿妬みのごときわが鼓動 北川コト
地動説めくや能登路に初日出づ 木村寛伸
初湯浴ぶ母や抱かねば流さるる 工藤篁子
葉のついた蜜柑を一つ持っている 香月諾子
雪富士のみえるベランダ産着干す 小林育子
結論の出ないお喋り雪しんしん 小林文子
着ぶくれし女体屹立ピンヒール 佐竹佐介
沈黙のカウンセリング梅一輪 塩野正春
火を起すごとく皸擦り合はす 島村典子
美しき異物はわたし初氷 宙のふう
純銀の牡丹雪降る爆心地 中尾よしこ
フロストフラワー不安をふっとばせ 中村きみどり
雪降り積む知らない埋葬がある 松﨑あきら
みずからの髪を掴んで髪洗ふ 路志田美子
春の土出て骨壺の深呼吸 渡邉照香

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です