『海原』No.65(2025/1/1発行)

◆No.65 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

生きていく僕の追い焚き秋土用 市原正直
蝉しぐれ微睡の底の水浅葱 榎本愛子
金木犀誓いの言葉きらきらと 大池美木
荒地野菊秩父音頭は地より湧く 大西健司
人類の最終形である花野 小野裕三
鶏頭の朱は雄叫びを老女ひとり 桂凜火
撫で肩に昆布をのせて走るかな 葛城広光
コロナ以後かもコスモスすぐ倒れ 河西志帆
饒舌や時雨の父の散らかりつぱなし 木下ようこ
百年の生業なりて稲実る 倉田玲子
魂のまだ戻らない案山子かな 小松敦
芒原揺れているのはわたしです 佐孝石画
サルトルのごとき山羊の目秋深し 菅原春み
甲州へ師の新月の墨かおる 鱸久子
原爆忌長手袋びろんと剥ぐ すずき穂波
ああいう人ほんのり嫌い赤トンボ たけなか華那
茜射す駅に鉄道員ぽっぽや猫がいる 立川瑠璃
攫うにはじゅうぶん赤い小鳥だわ ナカムラ薫
うしろから秋蝶人の召され方 中村晋
秋晴れや介護売り場で買うパンツ 野口佐稔
野遊びやスマホを捨てて戻る五感 野口思づゑ
ガザの子の黒眼コオロギ鳴き通せ 野田信章
刈田の雨白鷺は一羽が似合う 服部修一
息災です木瓜の実二つ飾って母 船越みよ
唐がらし日にち薬というものを 松本千花
秋の隅っこあれはたしかに浚渫船 松本勇二
余生という廊下に立ち止まる良夜 宮崎斗士
菊枕ここより遠野物語 三好つや子
水谷みずやから朗らかな声貴船菊 村本なずな
鎖骨という華奢な吊り橋鳥渡る 望月士郎

藤野武●抄出

夜が肌となり刺さりくる虫の声 伊藤道郎
沢蟹の泳ぐやさしき麦踏足 江井芳朗
いちじくの重さ荷崩れのように今日 榎本祐子
大屋根に蛇ひそみいる秋出水 遠藤秀子
余生とはこの先一列烏瓜 大髙洋子
名月を愛でつつ孫はカタールへ 小野千秋
借景で通り過ぎる親戚や 葛城広光
こほろぎの髭検索の履歴かな 木下ようこ
十六夜の空中ブランコ乗り継いで こしのゆみこ
あざむけり舌十五夜の明るさで 佐々木宏
蜂蜜がのどに張りつく敗戦日 清水茉紀
秋の暮振る舞ひ踊り尽しけり 鈴木孝信
あきつとぶ秩父盆地をかきまぜて ダークシー美紀
身の内の火球をさらう野分かな 高木水志
真夜中に折り紙する母遠霧笛 たけなか華那
足首に涼風まとい娘ら帰る 立川由紀
船形や私の帆柱じわり燃ゆ 谷口道子
白菊の白に屈めば街消える 月野ぽぽな
うしろから秋蝶人の召され方 中村晋
がぶり柿齧るその眼で師を探す 西美惠子
満州に放り出されて敗戦日 野口佐稔
ガザの子の黒眼コオロギ鳴き通せ 野田信章
シュレッダー溢れかなかな鳴き止まず 増田暁子
十五夜の抜け殻の君に添い寝す 松田英子
さみしい顔四つあつめて金木犀 松本勇二
誤解ってなかなか割れません胡桃 宮崎斗士
街の灯が星空となる甲斐路かな 深山未遊
いちじくに蟻群れている火宅かな 三好つや子
森を描くそろそろうみを描く良夜 村上友子
筋肉のように富士山野分あと 山本まさゆき

◆海原秀句鑑賞 安西篤

生きていく僕の追い焚き秋土用 市原正直
 「秋土用」は、立冬までの十八日間で、「霜降」の時期
と重なり、秋の終わりの淋しさ寒さが増す頃の季語。「生きていく僕の追い焚き」とは、おのれの晩年感に最後のほむらを燃やそうとしつつ、その周辺の落漠感を隠そうとはしていない。前向きなアクチュアリティとは言えなくとも、そこに充填されるものを求めつつある姿には、その境涯感のリアリティが見えて来る。

金木犀誓いの言葉きらきらと 大池美木
 「誓いの言葉」とは、結婚式の神前で、永遠の愛を誓い合う言葉だろう。前句に「花嫁は長きベールを白コスモス」を置いたことから、そう察せられる。「金木犀」の小花の束が、二人を寿ぐかのよう。「きらきら」のオノマトペが新たな思いをかき立てる。よくあるシーンだが、金木犀の「きらきら」感が香り高く、無駄のない慶祝の形容となった。

荒地野菊秩父音頭は地より湧く 大西健司
 こういう句を読むと、なにやら励まされるような気がして来る。まさに、皆野にある金子伊昔紅の銅像、あの向う鉢巻法被姿の前に立たされると、こんな気がしてくるのではないか。伊昔紅は、秩父音頭の掛声を得意とした。その掛声に呼応するかのように、皆の衆が一斉に歌いだす。「ハァーアーアーエ」で始まる歌声は、地より湧くような臨場感だった。

撫で肩に昆布を乗せて走るかな 葛城宏光
 「昆布刈」「昆布採る」は夏の季語。おそらく北海道、東北地方の沖合に出て、刈り取る作業を指すのだろう。昆布を乗せて走り回るのは、帰投した船の積荷の昆布を、主婦や娘たちが受け取り、洗い、干す後作業の姿だろう。「撫で肩」のいたいけな働きは、意外に辛抱強く、「走るかな」のまめまめしい動きの具体感を伝えてる。

饒舌や時雨の父の散らかりっぱなし 木下ようこ
 どうやら自分事のようにも見えて、中七下五に少なからずショックを受けた。家人には文句をつけても、自分の身の回りの整理が悪く、ちょっとしたメモや資料がしばしば無くなる。目当てのものを探すのに、大騒ぎして半日仕事となるのはザラ。おそらく娘の立場から見れば、時ならぬ時雨時に外に出た父が、部屋中を散らかりっぱなしにしている様そのものと映ったのだろう。後追いながらさもあろうと思わされる。

百年の生業なりて稲実る 倉田玲子
 「百年の生業」とは、おそらく親子三代にわたり受け継がれて来た農業のことで、ようやくその成果が、実り豊かな稲穂となつて実を結んだ喜びを指していよう。近頃の農家の生業は、なかなか受け継がれることも少なくなってきている中、「百年の生業なりて」と胸を張って言える程の矜持を、今も受け継いでいる頼もしさの一句。

魂のまだ戻らない案山子かな 小松敦
 かつては農村の五穀豊穣を祈願する神として、また鳥けの番をしてくれるものとして大切にされていた案山子だが、農村の疲弊とともに、今は用済みの道具として納屋に積み上げられたままになっていることが多い。農事の人間味あふれる農具として珍重された案山子が死蔵されたまま。その姿を、「魂のまだ戻らない」と喩えている。このアニミスティックな把握の仕方が胸を衝つ。

原爆忌長手袋びろんと剥ぐ すずき穂波
 被爆者の体感を、端的に描いた句。広島の平和祈念館では、その実像をリアルに再現したオブジェが置かれている。広島に住んでいる作者は、その映像と言い伝えを十分承知しているに違いない。「長手袋びろんと剥ぐ」には、長手袋のびろん感が全身に及んでいく有態を見据えて、この言い伝えを後世に受け継ごうとしているに違いない。「びろん」のオノマトペに、そのリアリティがありありと感受されている。

ああいう人ほんのり嫌い赤トンボ たけなか華那
 「ほんのり嫌い」とは、どういう感触なのだろう。そもそも「ほんのり」は、色、香り、味などがうっすらと感じられるさまを言い、どちらかといえば五感に接した前向き指向の形容のはずが、この句の場合「嫌い」と否定的に使われている。それも爽やかな秋の空間に浮かぶ「赤トンボ」に感じたという。どこかよそよそし気な赤トンボ感が浮かぶ。

菊枕ここより遠野物語 三好つや子
 菊枕は、菊の花を干して詰めた枕。邪気を払うという縁起物で、昔はよく使われた。遠野物語は、柳田国男の収集した東北の民話集。そこに籠められた民話の数々は、今読み返しても菊枕のような風韻と香りに満ちている。そんな民話の世界が、東北のこの辺りから始まるという。具体的な措定ではなく、一帯をぼかしたところに、地域に漂う雰囲気を感じさせる。菊枕の風韻が、物語を構成する民話のその地ならではの味わいをもたらしている。

◆海原秀句鑑賞 藤野武

夜が肌となり刺さりくる虫の声 伊藤道郎
 この句の肉体的な感受に魅かれる。秋の夜の暗さと深さに、作者の身体はしだいに曖昧になり、体と夜は、ほとんど同化する。そして夜は、(作者と他者を区切るはずの)「肌」となる。虫の声が刺すように、敏感な肉体に降りそそぐ。秋の夜の寂たる時間と、生きものの澄み切った存在を繊細な感覚で表現した。

こほろぎの髭検索の履歴かな 木下ようこ
 「こほろぎ」にとって「髭」(触覚)は、外界の情報を得るための最も重要な器官だと言われる。蟋蟀が活動できるのは、まさに髭による外部情報の検索の積み重ねの結果(履歴)に違いない。しかしこの情報も俯瞰してみれば、世界のほんの断片にすぎない。暗い夜の中でしきりに髭を振って外界を探っている蟋蟀の姿に、生きものの哀しさと強さを作者は感じているのかもしれない。そして、スマホを手にあれこれ検索している自分の姿が、この蟋蟀と重なってくる。

あざむけり舌十五夜の明るさで 佐々木宏
 「舌」が(まるで十五夜のような明るさで)軽々と明るく欺くと言う。「舌」は「言葉」の喩であろう。言葉は知そのもので、私たちはほとんど全てを言葉によって認識し表現する。そして時に(あるいはしばしば)「舌」(言葉)は、饒舌に(あるいは訥々と)誰かを、そして自分自身をさえ巧みに欺く。あまりに美しい十五夜がそう仕向けるのかもしれない。妖しく美しい十五夜。

身の内の火球をさらう野分かな 高木水志
 「火球」とは、明るく大きな流星のこと。その火球を作者は身の内に秘めている。熱く燃える火球(という作者のアイデンティティ)をさらってゆく激しい「野分」。自然の暴力的なまでの大きさ。それに向き合う、儚くもしかし確かな人間存在。「火球」が作者の生きざままで想像させて印象的。

船形や私の帆柱じわり燃ゆ 谷口道子
 京都の盆行事に五山の送り火(「大文字」)がある。その送り火の一つが「船形」。この「船」は帆柱のついた(外海用の)船。今、燃えゆく「船形」を見ながら作者は、ふっと、自分の心の中心にある帆柱も「じわり」と燃えていると感じたのだ。心の帆柱に帆を張って、海風をいっぱい受け、時間と空間の大海を自由に走った過ぎし日々。自分の帆柱はもはや(若き日々のような)航海を支えられないかもしれない…。美しいいのちの炎。

白菊の白に屈めば街消える 月野ぽぽな
 目の前に「白菊」がある。その花の「白」に作者は強く魅かれる。思わず屈みこむ。視線は眼前の小さな世界に集中する。すると一転外部(街)は消え去り、作者と目の前の「白」だけが、世界の全部になる。透徹した、詩の結晶のような俳句世界。

満州に放り出されて敗戦日 野口佐稔
 実際に経験したかリアルタイムに見分したのでなければ決して表現できない「敗戦日」の句。「放り出されて」が迫真。戦争の愚かさ悲惨さ、不条理さ、国家というものの身勝手さがまざまざと…。

さみしい顔四つあつめて金木犀 松本勇二
 「さみしい顔」を「四つあつめて」みれば、それはまるで「金木犀」のようだ、と読むのだろう。香は高いが花は小さく地味で、しかし孤高というほどでもなく、ほどほどの明るさと楽しさを持った「金木犀」は、四つの「さみしい顔」とよく照応する。しかしこの句「さみしい顔」を「四つあつめて」、「金木犀」はできている、とも読める。人間も植物も同じ次元で混在するこの読みも、けっこう面白い。少し不思議なユニークな句。

誤解ってなかなか割れません胡桃 宮崎斗士
 この句の口語表現に魅かれる。文語ではこの「軽い味」はおそらく出せない。俳句において内容と文体は不可分で、また現代を描くには、現在只今の言葉がどうしても必要だと、私は思う。破綻なく、甘くなく。口語表現の成功例だと思う。

街の灯が星空となる甲斐路かな 深山未遊
 明るい「街の灯」から視線を上にずらしていくと、それと連なる煌めく星々が空一面に広がる。作者はその景色に心揺さぶられる。「甲斐路」の雄大で目くるめく美しい情景を、ゆったり大きなスケールで画ききった。

森を描くそろそろうみを描く良夜 村上友子
 月の明りが地上を照らし、物の形を浮き上がらせていく様子を、月が「描く」と感受したのだろうと思う。明るい名月の夜。今、月は「森」を描いて(=照らして)いる。そして月は、そろそろ「うみ」を描き(=照らし)はじめているのだろう。作者の心のキャンバスに画かれる心象風景。美しい映像、美しい言葉、なにより美しい時間。

◆金子兜太 私の一句

暴風雨原観望館の暗に伊富魚 兜太

 一九八九年八月二十七日、「第三回釧路湿原国立公園を詠う全国大会」の記念講師として釧路へ来る。掲句は翌日、台風接近の北斗湿原展望台での句。湿原に吹き荒れる強風と雨を「暴風雨原」とダイナミックに切り取り、「観望館の暗」のカ音とンの韻の響き渡る音から、うす暗い館内のイトウへと視線を当てる映像の迫力。これを機に師事することになる。句集『両神』(1995年)より。石川青狼

狼の往き来まゆみの木のあたり 兜太

 「狼の往き来」山に住んでいる私に狼とはどうしようもない恐さです。「檀の木のあたり」檀の木はびくともしないで狼の往き来を見ている。楽しんでいるかも。そんな檀の木のようになり、何事にも動ぜず、頑張れと先生が励ましの言葉を掛けて下さっているようです。先生のお優しい心に励まされました。その色紙は我が家の家宝です。句集『東国抄』(2001年)より。大野美代子

◆共鳴20句〈11月合併号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

江良修 選
膝上る蟻へ孤独を説く孤独 有馬育代
○ピーマンに詰めよう晩年丸くなり 泉尚子
梅雨出水僕の体は穴だらけ 大西政司
暗算の飛び交う明るさ海の家 奥山和子
偕老となるはむずかしカタツムリ 川崎益太郎
縁者みな小さく見ゆる帰省かな 齊藤しじみ
掬われて金魚の水の古びたり 三枝みずほ
竿燈の空一枚がやわらかい 佐藤二千六
声を殺し生きものとして万緑を通る 十河宣洋
梅雨底に時計のゆがむ声がする 竹内一犀
青葉騒ひとりの夜の皿洗う 鳥山由貴子
夕顔やほほえみかえす車椅子 永田和子
白詰草基地フェンスに囲まれて 仲村トヨ子
亡き友の短夜照らす置時計 新野祐子
少年のよう凛々しくて捨て田の木 丹生千賀
草刈をしたいと能登へ帰りけり 日高玲
蟬の穴ふる里遠くなるばかり 藤盛和子
岩に座し億万の日の余熱 マブソン青眼
からだから影を亡くしに片かげり 望月士郎
又何か忘れたような昼寝覚 山田哲夫

片岡秀樹 選
○峠の名みな美しや風薫る 石川義倫
○動き出しそうな活字を舐める蠅 市原正直
寝落つとき部屋中あやめ咲かすなり 榎本祐子
本日はブラウニーなど焼いて夏至 大池桜子
泣きにゆくうすくらがりや花蜜柑 桂凜火
空箱に流砂の熱よ黒あげは 川田由美子
老鶯ややはらかき過去少し食べ 木下ようこ
姉さんはいま夕焼けになる途中 小林ろば
雲の峰少女の手話のやわらかし 菅原春み
浜昼顔ふるえる風に買う切符 鈴木修一
孤愁かな雨後の紫陽花青きわむ 竹田昭江
薔薇切って移ろいやすきもの素足 遠山郁好
星月夜敗戦の夜は無蓋車 中井千鶴
○天窓に守宮遊ばせ牛飼座 並木邑人
楊梅の実はずっしりと海であり 平田薫
沖縄忌切り岸に切り抜かれた人々 藤野武
朝顔やうしろ歩きのルーティーン 三好つや子
半袖でやって来た風 夏座敷 武藤幹
言葉はぐれて夕べ蛍という破線 望月士郎
七回忌河骨朝を灯すなり 横地かをる

佐藤詠子 選
数学は詩だと言う奴青葉騒 石川義倫
団子虫私を閉じる炭酸水 石田せ江子
○ピーマンに詰めよう晩年丸くなり 泉尚子
○動き出しそうな活字を舐める蠅 市原正直
果てるまでわたし鬼っ子青い蔦 伊藤幸
人間を飽きる貌して桃を剥く 江井芳朗
炎帝よこの領域は譲れない 大西政司
夏の蝶下校チャイムの音符撫で 片岡秀樹
水馬それぞれみんなナルシスト 片町節子
日傘回して二回目を生き崩す 河西志帆
梅雨空を抜けても村を抜けきれない 佐藤二千六
裏表紙ぱたんと蝶が消えて行く 佐々木宏
思想家ゐて夢想家ゐてわらふ紫陽花 すずき穂波
炎天の下で平凡になってゆく 峠谷清広
泣き終えてユニコーンが来たら梅雨 中内亮玄
蟻にひかれ蟻に押されているみたい 本田ひとみ
稲妻に土偶叫ぶか笑むか マブソン青眼
多言語の暮らす住宅蝉時雨 三浦二三子
とうきびの粒の整列未来都市 嶺岸さとし
六月の手に鋭角の千羽鶴 横地かをる

鳥山由貴子 選
○峠の名みな美しや風薫る 石川義倫
白蜥蜴月下美人のしもべです 石橋いろり
ウチの窓からは見えない天の川 大池桜子
大須シネマはカオスな匂い梅雨の蝶 大西健司
黒幕の名前は出さず黄金虫 片岡秀樹
遠花火会いたい時は目を瞑る 加藤昭子
住み替はる生家燕の家であれ 後藤雅文
ふるさとの夕空いろのバフンウニ 小林ろば
霧青し水の底なる獣骨も 田中亜美
水となり火となり夏至のピアニスト 月野ぽぽな
○天窓に守宮遊ばせ牛飼座 並木邑人
七月の海星ばかりを釣っている 平田薫
夏つばめ三角形に憧れる 本田ひとみ
少年は呼吸する石夏の島 三浦二三子
羽蟻ふと亡父に会える書庫がある 宮崎斗士
信州の味噌売りが来る秋の口 深山未遊
居ないはずの金魚を描いている男 三好つや子
椅子取りゲームひとりふたりは片蔭に 村上友子
銀河濃し石の標本ざわめきぬ 茂里美絵
少年老い易く幾たび髪洗う 森由美子

◆三句鑑賞

ピーマンに詰めよう晩年丸くなり 泉尚子
 ピーマンの肉詰め、大好きな料理だ。肉だけでなくいろいろなものを詰め込むことが出来る料理だ。好きな食材はもちろん、嫌いな食材や未知の食材もなんでも詰め込めば、ピーマンがすべて受け入れてうまくまとめてくれる。人間が丸くなるってそういうことだねと、ふと思う秋のキッチン。

白詰草基地フェンスに囲まれて 仲村トヨ子
 江戸時代、オランダからの献上物、ギヤマンが入った箱の中に緩衝材として詰められていた白詰草。鎖国していたが出島から入り込み日本中に広がった。今、基地の中にある白詰草はフェンスに囲まれて上陸できずにいる。現代の出島ともいえる基地は、日本であって日本でないまま、厳しい国境線が敷かれている。

草刈をしたいと能登へ帰りけり 日高玲
 能登半島地震の甚大な被害は、その後も繰り返す大雨で回復が大幅に遅れている。復興事業は続く。そんな中、作者は草刈をしたいという理由で能登へ帰るという。草刈は田畑や庭をきれいにし、新しい草花や稲などを植える準備であろう。一時的な帰郷ではなく長期的な帰郷の決心を詠んだ句ではなかろうか。
(鑑賞・江良修)

寝落つとき部屋中あやめ咲かすなり 榎本祐子
 「いずれ菖蒲か杜若」と言われるように、あやめは菖蒲や杜若など他の花との区別が不分明な植物の代表である。花の色は神秘的な青紫。私たちが寝落つとき、二つの世界の境界は揺らぎ、不分明となる。そこで起こる瞬間的な世界の溶解が、美しく秀逸な比喩で表現された。

半袖でやって来た風 夏座敷 武藤幹
 作者はこの一句で、風の形容に一つの地平を拓いたと言っていい。コート着た風、ショール巻く風、白衣纏う風など、応用は多様だ。ここでは「半袖」の形容に、爽やかさとふらっと来ましたという感じとが過不足なく示されている。「夏座敷」との取り合わせが、実に心地よい句である。

言葉はぐれて夕べ蛍という破線 望月士郎
 言葉は流離するものである。原郷を失った言語、届けたい相手に伝えられなかった言葉、あるべき文脈から剥落した言葉、そういった言の葉たちが夕べ発光し、発情しては絡み合い、彼方の闇に存在を投企する。漆黒に浮かび上がる破線は、読み解かれるのを待つ信号なのだ。
(鑑賞・片岡秀樹)

梅雨空を抜けても村を抜けきれない 佐藤二千六
 村に束縛されている感覚が密かに伝わり共感。親族も昔からの知り合いも多いかけがえのない産土。作者の村での存在感も大きいはず。それゆえに重責から抜けきれない葛藤をいつも心に抱えている。梅雨空という言葉を通して、地方社会の中で生きる人々の本音を代弁しているとも取れる。強い地元愛があるからこその句である。

思想家ゐて夢想家ゐてわらふ紫陽花 すずき穂波
 奔放を感じる句である。一株の紫陽花を小さな人間社会と喩え、思想家もいれば、夢想家もいると詠んだのではないだろうか。人生を深掘りする人、現実から逃げてる人、頭の中は見えないが、考えることは誰しも自由である。「わらふ」という一語が、紫陽花のふわっとした重さを支えている。

とうきびの粒の整列未来都市 嶺岸さとし
 「未来都市」に最初違和感を覚えた。とうきび畑と未来都市の対比は何なのかと。「原風景」と「人工」なのだろうか。自分が育てたとうきび。整い過ぎた粒を見て、まるで都会のオフィスビルやマンション群のようだと思えたのかもしれない。東北に住む作者ゆえの俯瞰であろう。整列の語には社会への危惧も滲み意味深な句。
(鑑賞・佐藤詠子)

大須シネマはカオスな匂い梅雨の蝶 大西健司
 大須シネマがいい。町の小さな映画館なのだろう。カオスな匂いも梅雨の蝶も合い過ぎかも知れない。私の隣町に川越スカラ座という映画館があるのだが、チケット売場や赤い座席や緑の腰板など、何もかもすべてがノスタルジックで、映画『キネマの神様』の撮影にも使われたほど。大須シネマもきっとそんな佇まいなのだと思う。

居ないはずの金魚を描いている男 三好つや子
 居ないはずの金魚を描くとは?木製の枡などの中に本物の金魚が泳いでいるような作品を描く作家がいる。まず透明樹脂を薄く流し込み、その表面に鰭を描く。また樹脂を流し胴体つぎに鱗と層を重ねていくと、金魚が立体となって浮かび上がり生き生きと動き出すのだ。金魚は上から眺めるもの。横から見てもそこに金魚は居ない。

銀河濃し石の標本ざわめきぬ 茂里美絵
 阿蘇旅行のおみやげだったか父が石の標本を買って来てくれた。紙箱の小さな仕切の中に地球上のさまざまな石がきれいにならんでいた。あれはどこへいってしまったのだろう。宇宙を漂う小さな星屑が衝突したり合体したりを繰返し出来たという地球。銀河のうつくしい夜はきっと星たちと呼び合うように石の標本がざわめくのだ。
(鑑賞・鳥山由貴子)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

月光のあまねくあをく雑居ビル 和緒玲子
懐しむものなどなくて銀杏散る 有栖川蘭子
無関係のように過ごして敬老日 石口光子
影といふ老いざるものや秋茜 石鎚優
秋の雷ちいさきけものとなりて棲む 井手ひとみ
七十路の手帳の真白小鳥くる 伊藤治美
あざやかな友の背信真葛原 上田輝子
天高しにわとり天まで飛んでゆけ 植松まめ
吾子の分徒に生きてゐる途中かな 鵜川伸二
すすき野や思いの淵にひとりいて うづき巴那
ゆびきりのきおくはるかに木の実ふる 遠藤路子
赤い羽根つけてビタミンB不足 大渕久幸
老いにこはし敬老の日の御赤飯 押勇次
いにしえは障子の蔭にささめいて 小野地香
秋の暮窟の奥の無名墓碑 神谷邦男
子規選に入りし夢や昼寝覚 北川コト
形あるものを捌いて秋出水 木村寛伸
古備前の古き一徹水の秋 工藤篁子
胡桃割る想いの海におぼれぬよう 小林育子
亡骸なき通夜の式場秋の蝶 小林文子
絶滅の獺遊ぶ銀河かな 佐竹佐介
彼岸花野に風音のなかりけり 重松俊一
秋夕焼くぐればわたしを見失ふ 宙のふう
満月とワインとなんちゃってジャズ 谷川かつゑ
生きてきて独り老いゆく彼岸花 津野丘陽
鱒二忌や在所言葉の時を超ゆ 藤井久代
余生という喜劇に出てます芒原 松﨑あきら
今はそう考えてるふり秋の雨 峰尾大介
梨を食む生涯を賭し無罪たり 森美代
月見酒エンディングノート書き終えし 横田和子

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