◆No.64 目次
◆海原秀句 同人各集より
安西篤●抄出
冬瓜よわが肉体の静かなり 有村王志
「東京物語」親子の情はラムネ玉 伊藤道郎
夜の薄暑草の匂いの夫といて 榎本愛子
原爆忌純真なコーラスでした 大髙宏允
スマートフォン集まる丘に遠花火 尾形ゆきお
友へ涼行間広き便り出す 小野千秋
間氷期鯨に青海苔付いている 葛城広光
白木槿ほたほた撓む生家です 加藤昭子
水差して供花みな息す敗戦忌 河田清峰
約束の澪曳くあたり蘆の花 川田由美子
炎帝や隣家に無音の救急車 黒済泰子
肩紐のすぐおちてくる女郎花 こしのゆみこ
秋旱プラスチックの花汚れ 小松敦
秋蝉やとめどなく姉毀れゆく 佐々木香代子
敗戦忌診察台に仰向けに 菅原春み
葛の花風の山河に悼みけり 鈴木修一
浮世絵の顎の伸びやう心太 すずき穂波
天の川抜き手を切って兜太居士 十河宣洋
終戦忌誰でも弾いていいピアノ たけなか華那
溺愛やとんぼうにぶつかることも 遠山郁好
避難民赤きもろこし粥を吹く 中井千鶴
紅萩を挿せば重たくなる軀 ナカムラ薫
夜の秋葬簡略にして饒舌 日高玲
白さるすべり故人宛の荷が届く 船越みよ
包丁を研げばはなやぐ花鶏たち 松本勇二
盆用意スーパーにあるAED 三浦静佳
友の訃やいくつ削りし竹とんぼ 水野真由美
しあわせに斜面のありて青バナナ 室田洋子
大事にもされずに元気鳳仙花 森由美子
菊日和鉄を切る音遠くより 山本まさゆき
藤野武●抄出
傷口のようなくちびる処暑をいう 榎本祐子
ママさんバレーのママ達が配る柿 大池桜子
原爆忌純真なコーラスでした 大髙宏允
朱夏のアパート二階の猫と階下の死者 大西健司
蛇の衣脱ぎっぱなしの疲れかな 奥山和子
フランスのありとあらゆる夏の旗 小野裕三
蛍火や困民党の反故の文 桂凜火
冷やされているつくねんと喪主の椅子 加藤昭子
秋陽透く自傷のように旅鞄 河原珠美
肩紐のすぐおちてくる女郎花 こしのゆみこ
秋蝶の翅のよごれを耳打ちす 小西瞬夏
稔り田を終のひかりとして逝きぬ 鈴木修一
白い紙に白い雲描く秋思です 竹田昭江
木犀の香を真っ直ぐに通学路 立川真理
不知火の小さく灯した身をバスに 立川瑠璃
ソーダ水太陽神に逢うてのち 田中亜美
青水無月口中の釘打つおとこ 鳥山由貴子
流れ星ばかりあつまる映画館 ナカムラ薫
傍耳をかき集めたる鉄道草 並木邑人
蟬しぐれ樹の息切れのように止む 丹生千賀
あの頃は体に飼ってた昼花火 堀真知子
無月かな人も野菜も匂い消し 本田ひとみ
ぬなわ沼名刺届けているスーツ 三浦静佳
友の訃やいくつ削りし竹とんぼ 水野真由美
家族写真は虚ろな水面赤とんぼ 宮崎斗士
かなたに海峡ただに石柱片かげり 村上友子
しあわせに斜面のありて青バナナ 室田洋子
それぞれの稚魚を放して天の川 望月士郎
本当に死ぬためこの世の柿を食ふ 横山隆
人有れば花野に風の遊びゐし 吉澤祥匡
◆海原秀句鑑賞 安西篤
明快なオブジェで、おのが存在感を打ち
出した句は、なかなか評釈が難しい。詩人は、音や声が聞こえてくるという感覚に、とても敏感だという。ここは、冬瓜におのが肉体の存在感を感じて、「静かなり」に、逆に響きのようなものを覚えているのではないか。それは、冬瓜自体の存在感に通じる。いや冬瓜を通じて、静かなおのが肉体の存在を感じているのではないか。冬瓜の無骨さに、身体感覚そのものを重ねているのだ。
原爆忌純真なコーラスでした 大髙宏允
原爆忌の歌で最も鮮明な印象に残るのは、『原爆許すまじ』(浅田石二作詞、木下航二作曲)の歌だろう。筆者は広島の高校出身だから、聞くというより歌う方が先だった程。掲句は女子コーラスによるものだろうが、「ああ許すまじ原爆を、三度び許すまじ原爆を…」で盛り上がる部分を、力を込めて歌ったものだ。今もその感動は、身に伝わってくる。コーラスの高揚感の高まりとともに。
約束の澪曳くあたり蘆の花 川田由美子
「約束」とは何かわからないが、相聞というより友情に近いものかもしれない。蘆の花は、八月から十月頃にかけて群がり咲く花で、始めは紫、やがて紫褐色になる。「蘆」は「悪し」と語感が同じところから、「葭」と呼ばれるようになったともいわれる。しかし句になると、「蘆」の重厚さにおよばない。俳句の上ではこれでよいのだろう。
秋蝉やとめどなく姉毀れゆく 佐々木香代子
おそらく、高齢の姉の認知症の進行を詠んだものだろう。まさに身近に迫る現実感といわざるを得ない。認知症の進行はなかなか止められるものでなく、身近な家族は引きずり込まれるというから恐ろしい。この句は同居している姉の症状を、「とめどなく毀れゆく」とみているのだ。こういう句を書くことで、作者は一つの逃げ道を作っているのかもしれないが、それはそれで迫られた選択であろう。常に秀句に取り上げられるかは別として、一つの生き方としても頷ける。
葛の花風の山河に悼みけり 鈴木修一
葛の花は、八・九月頃咲く蝶形の紫紅色の花。秋風が吹くと、小葉が白い裏面を覗かせるので、裏見草の別名もあるという。作者は、今回五句すべてを追悼の句としているので、その思いを葛の花咲く山野全体に込めて詠んだものだろう。作者の柔軟な感性は、葛の花にふさわしく、また別名の「裏見草」は、追悼の心情を裏書きするものでもある。まさに作者ならではの一句となった。
終戦忌誰でも弾いていいピアノ たけなか華那
終戦忌の日に、街角ピアノが出ていた。おそらく作者は、そこで一曲弾いてみる気になったに違いない。その日にちなんで、戦争で亡くなられた人々への鎮魂の思いを込めているのだろう。残念ながら、そんな現場に立ち会ったことはないが、テレビで外国の街角ピアノを見たことがある。無名の人々のその場限りの名演奏に、俳句につながるような即興性を感じて、惚れ惚れとしてしまった。良い着眼に、思わず「ヤラレタ」と思った。
白さるすべり故人宛の荷が届く 船越みよ
夏の庭を彩る百日紅。普通は、紅または紅紫色が多いが、白の花もある。百日紅の漢名の他に、紫薇、怡痒樹の名もあるという。幹はつるりとした木肌なので、猿も木からすべり落ちるとまことしやかにもいわれている。そんな「白さるすべり」の咲いた日に、亡くなった人宛の荷が届いたという。どこか空しい花の余韻に、暑い日の悲しみが沁み通って来る。荷は、身内の作者が受け取ったに違いなく、その状況の設定によって、言外に思いが滲んで来る。
盆用意スーパーにあるAED 三浦静佳
AEDとは、自動体外細動器という心臓の状態を把握する緊急医療機器。スーパー等に設置されていて、顧客の万一の事態に備えている。お盆の時期にその用意があるのは、なにやら皮肉にも見えるが、勿論常備されたもので、必ずしも「盆用意」とは限らない。ただ作者の目には、一つの皮肉な諧謔感を感じたのではないか。
友の訃やいくつ削りし竹とんぼ 水野真由美
筒井筒の頃からの友が亡くなったのだろう。作者にとって、思わず絶句するほどの衝撃で、幼い頃、一緒に作った竹とんぼは、数えきれないほど。そんな素朴なだけに熱く甦る回想が一番応えるに違いない。情熱家の作者の愁嘆場が目に見えるようだ。
菊日和鉄を切る音遠くより 山本まさゆき
菊日和の日に、鉄を切る音が遠くから聞こえて来るという。これは今の時期、どこか戦争の気配を感じる危機感ではないか。「菊日和」自体は平和な景そのものなのだが、戦時中、天皇制を利用した軍部の蠢きの再来のような危機感が来ないとも限らない。そんな問題意識のようにも思われる。
◆海原秀句鑑賞 藤野武
ママさんバレーのママ達が配る柿 大池桜子
ありふれたひとこまなのだが、「ママさんバレーのママ達」の健康的で生き生きした姿や様子がありありと見えるよう。おそらく「柿」が効果的な働きをしている。つやつやと照り輝く柿が、ママさん達の溌剌とした姿とうまく照応する。散文的な書き方も軽快。
原爆忌純真なコーラスでした 大髙宏允
原爆忌の式典で(少年少女の)コーラスがあって、その歌声の純真さに心打たれたというのがこの句の発想契機なのだろう。核の危険がリアルに増している昨今の情況を見るにつけ、作者は「純真なコーラス」に原爆忌の平和への祈りの原点を見たのかもしれない。人類はこの純真さに戻れないものか。シンプルに書いて力強い。
蛇の衣脱ぎっぱなしの疲れかな 奥山和子
「脱ぎっぱなし」は、もちろん「蛇の衣」を形容しているのだろうが、同時に「疲れ」の主体たる作者の心の状態の形容でもあると思う。脱ぎっぱなしの心だと。まるでふわふわと虚ろで捉えどころない蛇の抜け殻のように、私は疲れて脱力し、心は脱ぎっぱなしのよう。
フランスのありとあらゆる夏の旗 小野裕三
現在の時点でこの句を読むと、オリンピックの情景描写と受け取れる。しかし、オリンピックをすこし脇において鑑賞してもいいのかなとも思う。こちらの方が案外面白く、句は広がる。ありとあらゆる旗のはためくフランスの夏の、色鮮やかな風貌。美しくもエネルギーが充ちる、多様性や重層性のきらめき。
秋蝶の翅のよごれを耳打ちす 小西瞬夏
「耳打ちす」る相手が誰なのかによって、内容はかなり違ってくる。「秋蝶」なのかそれとも第三者か。私は秋蝶への耳打ちと受け取る。生命力あふれる夏蝶に比べて秋の蝶は、ある種の弱さや衰えを感じなくもない。そんな秋蝶の美しい翅に、微かなよごれがついている。「秋蝶」の耳元でそっと翅のよごれを教えてやる。弱きもの衰えゆくもの(その現実)への優しき共感。繊細な感受。
ソーダ水太陽神に逢うてのち 田中亜美
「太陽神」とは太陽を神格化した神のこと。この信仰は世界の様々な土地にあって、例えばアマテラスもこれにあたる。この句の「太陽神」については、エジプトのラーを私はとっさにイメージしたがどうだろう。それはともかく、作者は太陽神に逢って(見たのではなくて逢って)、深い部分で心が揺さぶられたのではないか。太陽の豊饒?太陽に育まれた、気の遠くなるような時間と空間への畏怖?目の前の「ソーダ水」は、しゅわしゅわと泡立つ。作者の心と体もまた(太陽神に触れて)、しゅわしゅわと泡立つ。
流れ星ばかりあつまる映画館 ナカムラ薫
たしかにこんな映画館がどこかにあったらいいと思う。いや、きっとあるに違いない。おそらく、広い草原のなかにぽつんとたつ小さな映画館。中はあかあかと。そして流れ星たちによって物語は語られる?愉しきメルヘン。自由でやわらかな発想が魅力。
あの頃は体に飼ってた昼花火 堀真知子
あの頃(若き頃)は皆それぞれがいろいろなものを体に飼っていたように思う。作者が飼っていたのが「昼花火」。この「昼花火」がうまい。そして「体に」といってリアリティー。昼花火は、輪郭はぼんやりしているが確かな熱量と美しさで燃える。しかし今、時は去り飼ってた昼花火ももういない。愛おしきあの頃の「昼花火」。
友の訃やいくつ削りし竹とんぼ 水野真由美
亡くなられた友人は、竹とんぼ作りが趣味だったのか、あるいはそれを仕事にしていたのか?いずれにしても、竹とんぼを削り続けるような、純な素朴な生き方をしていた方だったのだろう。経済的な効率とか社会的な栄誉などとは距離を置き、幼き夢(例えば竹とんぼを削るといった)を持ち続けた。そんな生き方こそが美しく素敵だったと作者は思う。友への悼句。心に沁みる。
しあわせに斜面のありて青バナナ 室田洋子
「しあわせに斜面のあり」とは言い得て妙。考えてみれば平面というのは意外と落ち着かず、不安な感じがする。寧ろ斜面のほうが落ち着くのかもしれない。程よき日当たりで、ほどよき日陰もある斜面。そこにバナナの木があって青いバナナが実っている。幸せとは案外こんなところにあるのだろう。幸せには斜面が似合う。
それぞれの稚魚を放して天の川 望月士郎
「稚魚を放して」とは喩だろう。「稚魚」とは、人それぞれが抱え育てている、まだ小さく未成熟な思い?願い?あるいは次の時代に手渡すべき萌芽?可能性?人は幾世代も営々とそれぞれの思い(稚魚)を育み大河に放し続けてきたのだ。天の川はそんな人間の営みを静かに照らしつづけている。
◆金子兜太 私の一句
長生きの朧のなかの眼玉かな 兜太
昭和の末から平成にかけて、金子先生は愛媛に幾度か来られました。その度に、初学の私達もお迎えにゆき、時には句会などを行ったこともありました。その時の、ひとりひとりに対しての瞬時の句評や鑑賞の見事さには感嘆したものでした。この一句は身体全体に揺らぐものを感じる好きな句です。句集『両神』(平成7年)より。大西宣子
遠く雪山近く雪舞うふたりごころ 兜太
一読、驚いた。これはあの時の句だと。あの時とは、先生がETV特集撮影のために、福島で私と対談した時のこと。撮影は私が勤務していた学校で行われたのだが、緊張して私はうまく話ができなかった。だが先生はそんな私との対話を「ふたりごころ」と句にしてくれたのだった。これは「私の一句」、いや「私のための一句」。胸が熱くなった。句集『百年』(2019年)より。中村晋
◆共鳴20句〈10月合併号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句
江良修 選
父の日やほっぺにじょりじょりの記憶 有馬育代
○万緑や嘘つく場所の見当らず 石川和子
短夜のエンドロールで目が覚める 大池桜子
月涼し夜間飛行の音のゆく 太田順子
蛍飛ぶ寂しい闇を呼び寄せて 奥山和子
県境ひとつ越えたる夏の旅 片町節子
彗星の周期たくさん蝉生る 小松敦
麦秋のこの心地良い知らんぷり 佐孝石画
箸置きのようでありたい夏の果 佐藤詠子
父の日や「飲み過ぎないで」旨し酒 志田すずめ
熊が川を渡ってくる謀反のように 十河宣洋
夏来る風呂場で歌ふとなりの娘 ダークシー美紀
安心の尻の並ぶや潮干狩 高木一惠
減便のバスを待つ間の薄暑かな 野口佐稔
知覧に夏どかと中学生一団 野田信章
訃報という真っ白の中麦茶汲む 宮崎斗士
人の師に孫の成りたる日の初蝶 深山未遊
夏物咲く鼻も口も多国籍 山下一夫
孤独だが孤立はせずに木守柿 夜基津吐虫
馬の朝大きな尻が動きだす 横山隆
片岡秀樹 選
卯の花月夜母の手いつも濡れていた 伊藤幸
ルビ振るように十薬咲きました 榎本祐子
○百千鳥望郷という万歩計 川田由美子
定位置に座る面影枇杷熟るる 倉田玲子
泣くときの景色はみどり蝉丸忌 こしのゆみこ
解いてゆく数式滴りますように 三枝みずほ
つかつかと来て冷蔵庫開ける女医 佐藤二千六
ふぞろいの旧字体より黒揚羽 白石司子
押し出され音の感情ところてん 高橋明江
こうもりの糞掃いていてすがすがし 竪阿彌放心
八月六日の 赤と黒 立川由紀
蜥蜴! 正午を指す時計 田中亜美
五月雨るる壁に毒薬一覧表 鳥山由貴子
墓地に蟻霊感持たぬ者同士 根本菜穂子
春愁や蝶の逃げ方はでたらめ 北條貢司
先生は伊良湖吹く風黒南風の 三浦二三子
○向日葵やあの空論破するように 宮崎斗士
山法師声嗄れのよう尾灯のよう 村上友子
牛蛙いつも我らは少数派 室田洋子
○青葉騒ノートに影とだけ記す 茂里美絵
佐藤詠子 選
○万緑や嘘つく場所の見当らず 石川和子
なかなかの戒名思いつく遠雷 泉陽太郎
蛍舞う子を抱き途方に暮れた日も 伊藤幸
きみいつも学級委員長青葉木菟 伊藤道郎
夜の蛙民生委員のように鳴く 加藤昭子
あじさいの色どの辺り余命ふと 川崎益太郎
○百千鳥望郷という万歩計 川田由美子
逆光に君を奪われ盛夏くる 近藤亜沙美
毒舌の友に相槌ち黒揚羽 齊藤しじみ
午後のベンチ葉桜の私語降ってくる 佐藤君子
ピアニシモピアニッシシモ虹消える 月野ぽぽな
私には毒舌ふるう炎天よ 峠谷清広
卯の花腐し銃口すべてわれに向く 鳥山由貴子
いなくとも拭く夏至の日の子の机 中村晋
生脚の俳句を晒す夏の霧 並木邑人
ジーンズの穴をくすぐる姫女苑 根本菜穂子
葱の花音信の絶えた親戚 日高玲
○向日葵やあの空論破するように 宮崎斗士
等分にメロン切るときやや船長 望月士郎
夏草が改札のやう自転車道 山本まさゆき
鳥山由貴子 選
永き日を吊るす鳥籠買いにけり 榎本祐子
夏の瀬を偽者となり歩くかな 小野裕三
二以外の素数は奇数リラの花 片岡秀樹
過去ばかり見てそうめんを茹でこぼす 河西志帆
地下鉄のどこから出ても鳥雲に 楠井収
黒猫や炎天の影だったかも 篠田悦子
色褪せし詩集驟雨の匂いして 白石司子
鶏肋ばかり納屋に影もつ古農具 十河宣洋
朝の雨が全部アメリカヤマボウシ たけなか華那
髪洗う縄文の地に跪き 月野ぽぽな
若き日は若さに酔ったあの夏野 峠谷清広
つかのまを花冷ともつかぬものと ナカムラ薫
蜜豆を無礼な妻と月島で 野口佐稔
短日で雨ソプラノで電話する 野口思づゑ
涼しさや雨の匂いがわかる人 福岡日向子
若葉風埴輪の巫女の目をぬける 三好つや子
傷のある猪の剥製梅雨深し 村上紀子
包帯を濡らさぬように金魚掬う 望月士郎
○青葉騷ノートに影とだけ記す 茂里美絵
褐色の少年兵はカラシニコフ 横山隆
◆三句鑑賞
万緑や嘘つく場所の見当らず 石川和子
嘘のない人生はあるだろうか。自分の心を守るための嘘や人を傷つけないための嘘などやむを得ない嘘もある。だから、人生の色はその時々で様々。モザイク模様だ。しかし今、作者は万緑の中にある。心の隅々まで緑が広がり、心の中に嘘つく場所は無い。安らぎと調和の純粋世界に浸っている。
父の日や「飲み過ぎないで」旨し酒 志田すずめ
父の日を祝ってもらう宴席かプレゼントで贈られた酒かわからないが、家族から心配される中でいただく酒はきっととても旨いに違いない。父の過飲を心配する娘(だと思う)の「飲み過ぎないで」の一言が親子の愛情深い関係性をさりげなく表現している。子の気遣いは酒より旨いに違いない。
馬の朝大きな尻が動きだす 横山隆
実に大らかな朝の景だ。じっくり馬の尻を観察したことは無いが、厩舎から外へゆっくり歩み出す時の尻の筋肉の動きに、力強さと生命力を感じる。句には他に何も表現されていないのに、新しい朝を迎えるにあたって、嬉しいような、ほっとしたような安心感がある。無季だが夏の明るい朝をイメージさせる句だ。
(鑑賞・江良修)
泣くときの景色はみどり蝉丸忌 こしのゆみこ
一読、能の狂乱物『蝉丸』の舞台を想う。父帝の命により逢坂山に遺棄された盲目の皇子と狂女となって流離う姉が巡り会い、手を取りあい咽び泣くシーン。舞台の藁屋は屋内なら松が描かれ、薪能なら森を背景に演じられる。このグリーンバックが、慟哭劇に癒し効果を与え、舞台も句にも清冽な余韻を残す。
春愁や蝶の逃げ方はでたらめ 北條貢司
蝶のランダムな飛翔は、天敵である鳥の直線的な襲撃から身を守るのにも、フェロモンを撒き散らし異性の目に留まる確率を増す為にも、極めて理に適ったものである。それを「でたらめ」と断じるのは「春愁」故である。鳥の囀りや花の美にも憂愁を増す身には、世界から意味は剥落しているのである。
山法師声嗄れのよう尾灯のよう 村上友子
入梅前の天候不順な季節に、半日蔭や沢地で見かける山法師。白く四弁花のように目立つのは総苞片と呼ばれる葉の一部で、中心にある緑色の部分が実は花である。その姿は言われてみれば大声を出して喉を嗄らしたようにも、白い光を放つ尾灯のようにも見える。山法師を多く詠んだ師への追慕が漂っている。
(鑑賞・片岡秀樹)
万緑や嘘つく場所の見当らず 石川和子
嘘つく場所とは自分の本心をごまかさなければならない現実社会。世の中多少の嘘をつかずには、生きていけない。作者は万緑の整った世界の中、小さな人間であることに、実は安堵したのではないだろうか。葛藤しながらも真摯でありたい心が見える。八方にいる緑の精霊に見守られているようなアニミズムを感じる句である。
逆光に君を奪われ盛夏くる 近藤亜沙美
少し前を歩いていた君が振り向いた。逆光で君の表情が見えない。誰にも取られるはずのない大事な人なのに。君の後ろから差す強い光。夏の盛りを突然知ることになったのだろう。「奪われ」という表現に、悔しさと無力感がある。一瞬の気づきを時系列に淡々と並べつつ、作者の感情を乗せている。
ジーンズの穴をくすぐる姫女苑 根本菜穂子
なんと微笑ましい句なのだろう。膝の辺りが敗れたジーンズ。社会から少し離れたい休日の野原。ジーンズの穴とは、作者の開いた心とも捉えられる。くすぐられ無防備に笑ってしまう素朴さに共感。童心に戻してくれる。可憐に見える姫女苑だが、その生態は雑草の類に入るくらい逞しさがある。俗世に生きる人間にも似ている。
(鑑賞・佐藤詠子)
永き日を吊るす鳥籠買いにけり 榎本祐子
返還前の香港で鳥籠を売る店ばかりがつづく街に迷い込んだことがある。木や竹などの繊細で深い色合いの美しい鳥籠がどの店も通りまで溢れていた。街には不思議な香りが満ち混沌としノスタルジックで、何百年も前から時が止まっているように思えた。美しい羽根も美しい啼き声もいらないのだ。永き日を吊るすためだけの鳥籠。
つかのまを花冷ともつかぬものと ナカムラ薫
自分でもはっきりとは認識出来ないくらいの、心の奥の方にあるかすかな感情。気付かないうちに過ぎていってしまいそうな微妙な心の動きを表現しようとしているのではないか。「つかのま」と「つかぬもの」。ふたつの言葉が似かよっていることに気付いたとき、詩が生まれたのかもしれないと思った。花冷がとても秘めやか。
傷のある猪の剥製梅雨深し 村上紀子
温泉宿などに置かれた剥製だろうか。田畑を荒らし罠にかかったか撃たれたかして捌かれたのだろう。傷があるのは当然だが、剥製師はそれを目立たないようにするものだと思っていた。作者が気付いたその傷に少なからず興味を覚えるが、梅雨深く暗いなかに佇む猪はひどく哀れで、硝子のうつろな眼とは絶対眼を合わせたくない。
(鑑賞・鳥山由貴子)
◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出
朝飯は食べたか今朝の虹見たか 和緒玲子
家族葬そのときしほからとんぼかな 石鎚優
生きていて窓から入る夜の月 井手ひとみ
亡母の白日傘未だ灼けたる匂ひ 伊藤治美
ビール乾しそこにあるから弾いてみる 鵜川伸二
ちんちろりんまねたら寂しくなっちゃった 遠藤路子
何本も歯の欠けている案山子かな 大渕久幸
浮世とは水面のネオン西鶴忌 岡田ミツヒロ
想ふらく哲死せし地の麦の秋 押勇次
地に降れる星をよすがに花野ゆく 小野こうふう
仰向けの蝉に最期の空広く 小野地香
浴衣の丈足らんおかんはもうおらん 北川コト
ひとまずは雑に老いけり羽抜鶏 木村寛伸
夫恋し開かぬ窓にも見える秋 香月諾子
剝き出しの脛がセンサー秋の風 小坂修
風死して水没林も吾も直立 小林育子
小鳥来る師の愛用のハンチング 小林文子
月見上げ石につまづく西行忌 重松俊一
月皓皓とどめさせぬか地の戦 鈴木弘子
饒舌のあとのむなしさ蛇の衣 宙のふう
夕ひぐらしもういない人に返事する 中尾よしこ
ひぐらしや芭蕉と曾良の声混じる 坂内まんさく
溺れ死ぬ水面明るし蟬時雨 福田博之
トーキョーは雷雨血色のオムライス 藤川宏樹
桃提げて篠路の寡夫の墓参り 松﨑あきら
天の川人であることあと少し 向田久美子
ささくれや小春を水が追っていく 村上舞香
台風西へどこかに神の手あるような 吉村豊
秋蝶に意志あり吾をきっと視し 路志田美子
紅葉寺箒を握るタトウの手 渡邉照香