『海原』No.62(2024/10/1発行)

◆No.62 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

姫海芋ヒメカイウ無邪気に右手挙げ起立 石川青狼
火取虫まわりに写真立てふえて 伊藤歩
卯の花月夜母の手いつも濡れていた 伊藤幸
父の日や逆光にガザの影をみる 井上俊子
闇を負うさざなみのよう花篝 榎本愛子
黒南風や自由すぎるという不自由 大髙洋子
麦熟星かすかに匂うガラスペン 大西健司
忘れてる事を忘れてはったい粉 奥山和子
紫陽花の暗闇にある神の椅子 北原恵子
今日よりも若い日はなし青嵐 日下若名
泣くときの景色はみどり蝉丸忌 こしのゆみこ
解いてゆく数式滴りますように 三枝みずほ
産土や蟻列いっぴきづつ被曝 清水茉紀
折り返すバスは無人や牛蛙 菅原春み
卒寿かな二の句三の句花筏 立川弘子
八月六日の 赤と黒 立川由紀
ほうたるや蒔絵手箱の漆黒に 田中亜美
ちょっと旅ポニーテールとてんと虫 遠山郁好
春うらら律気な人の重さかな 中井千鶴
ヒロシマをやさしくさせて菜種梅雨 西美惠子
祖母呼びしおひいさんとゐる日向ぼこ 野口思づゑ
限りあるキミとの時間浮いて来い 平田恒子
ハグがサヨナラ新じゃがの薄き皮 藤野武
五風十雨麦茶のようなわが加齢 増田暁子
青葉潮栞のような旅をして 松岡良子
ぼんやりは哲学うちの車輪梅シャリンバイ 三木冬子
糸電話の無言電話も修司の忌 宮崎斗士
片蔭を行く素浪人のよう黒猫 森鈴
万緑の重力はかる風の景 茂里美絵
リハビリの長き順番著莪の花 横地かをる

大西健司●抄出

なかなかの戒名思いつく遠雷 泉陽太郎
晴れ時々目高小さく老いてる 井上俊子
君の鎖骨にアカシアの音がこぼれる 榎本愛子
見た目ポップなのに卯の花腐しかな 大池桜子
選挙近し議員の数だけ大根干す 大久保正義
かたつむりいまだひとりを生きてます 黒岡洋子
月涼し紅茶の冷める距離に君 近藤亜沙美
つかつかと来て冷蔵庫開ける女医 佐藤二千六
帆柱鳴るよ雲美しき夏は来ぬ 重松敬子
蟻地獄もうきこえないさようなら 清水茉紀
ふぞろいの旧字体より黒揚羽 白石司子
折り返すバスは無人や牛蛙 菅原春み
野良猫の行き倒れかな額の花 鈴木康之
読初はふっくらとした句集 芹沢愛子
失敗に舌出す癖や棕櫚の花 高橋明江
荷解きの出来ぬ八月六日かな 立川瑠璃
こうもりの糞掃いていてすがすがし 竪阿彌放心
髪洗う縄文の地に跪き 月野ぽぽな
五月雨るる壁に毒薬一覧表 鳥山由貴子
老人に席譲られて冬至かな 野口思づゑ
知覧に夏どかと中学生一団 野田信章
雲水の夜濯の音止みにけり 日高玲
詫状の余白に本音夜の蟬 船越みよ
ごうごうと空腹列車夏の霧 松本勇二
糸電話の無言電話も修司の忌 宮崎斗士
傷のある猪の剥製梅雨深し 村上紀子
輪島復興金輪際の帆を張って 村上友子
牛蛙いつも我らは少数派 室田洋子
馬の朝大きな尻が動きだす 横山隆
結局はさうめん食うて寝てしまふ 若林卓宣

◆海原秀句鑑賞 安西篤

卯の花月夜母の手いつも濡れていた 伊藤幸
 卯の花は、旧暦四月の卯月に咲く花。小学唱歌(佐佐木信綱作)『夏は来ぬ』の中で、「卯の花の匂う垣根に…」と歌われ親しまれている。掲句は、卯の花咲く月夜に、亡き母を偲んでいるのだろう。「母の手がいつも濡れていた」のは、一家の厳しい水仕事を引き受けて苦労を厭わなかった母の、在りし日々の立ち姿を、感謝の気持ちをこめて偲んでいるのだ。

麦熟星かすかに匂うガラスペン 大西健司
 麦熟星は、麦秋の頃雲の晴れ間に、洗われたように見える星。ガラスペンは、今やボールペンにとってかわられた筆記用具だが、見た目も美しく、工芸品として珍重されている。麦熟星の出現に、「かすかに匂う」のは、麦秋の匂にも反応しながら、鋭敏なペン先がインクを匂わせながら、作者の青春の回想を探り当てたかのように、走り始めたからではないだろうか。

八月六日の 赤と黒 立川由紀
 八月六日は、広島原爆記念の日。掲句は、四・四・五、十三音の短律三句体で書かれている。「赤と黒」は、フランスの作家スタンダールの小説を思い出すが、この場合は、原爆当日の惨状を、原色の赤と黒で表現。個別具体的には書かないことで、熱波で溶かされ見分けもつかない人々のあり様を、その苦しみと嘆きを、象徴的に捉えたともいえる。言語に絶する苦しみの言い伝えを、このようにしか書けないという一句。

ほうたるや蒔絵手箱の漆黒に 田中亜美
 上五「ほうたるや」で切れ、中七下五「蒔絵手箱の漆黒に」で受ける。これによって、暗闇が一層濃いものになった。同時に「蒔絵手箱」の質感が、心象性を帯びて来る。下五「漆黒に」の切れは、上五「ほうたるや」へ回帰し、本来の自然性へとつながる。上五の切れによって、その自然性を甦らせたのである。

ちょっと旅ポニーテールとてんと虫 遠山郁好
 「ちょっと旅」をしているのは、ポニーテールの若い女性だろう。「ポニーテール」は、髪を後頭部で一つにまとめて垂らした髪型で、ロックンロールと共に若者のファッションとして流行した。「ちょっと旅」とは、近間の日帰り旅かもしれない。その途次、ポニーテールの髪に止まったてんと虫に気づかず、一緒に旅を行く。ちょっと感の気軽さと共に、軽やかな足取りを感じさせる。

祖母呼びしおひいさんとゐる日向ぼこ 野口思づゑ
 「日向ぼこ」は冬の季語で、日だまりにうずくまって、ほっこりと温まっていること。そんな日向ぼこをしている祖母から、「いいおひいさんだから、一緒にどう?」と誘われている。そんなひとときを、幼い頃共寝した祖母の体の温もりのように思い出しているのだろう。「おひいさん」に祖母の口癖が出ており、「ゐる」の旧仮名が、その口癖をそのままなぞっているようだ。

五風十雨麦茶のようなわが加齢 増田暁子
 「五風十雨」とは、五日に一度風が起こり、十日に一度雨が降ること。転じて、風雨時を得て、農作上好都合で天下泰平なことという。「麦茶のようなわが加齢」とは、平凡ではあっても、安らかな老後を送っている暮らしの、小さな幸せを詠んでいるのではないか。石原八束に、「躓いてひとり笑ひて麦茶かな」の句があるが、そんな平穏無事な日々にも通ずる老後感ではなかろうか。

ぼんやりは哲学うちの車輪梅シャリンバイ 三木冬子
 車輪梅は夏に香気のある白い梅型の花を開く。このところの暑さと長引くコロナ禍のせいもあって、ぼんやり過ごすことが多いが、そんなひと時でも、何やら思いもかけぬ考えがふとひらめいたりすることがある。それを哲学とまでいうと大げさかもしれないが、老いて次第に衰えてゆくうちに、夏なお盛んな庭の車輪梅のような、気の利いた着想がふっと飛び出して来たりする。短歌も作る作者の、まだまだ行けそうな感じが頼もしい。

片蔭を行く素浪人のよう黒猫 森鈴
 今年はことのほか暑い夏を迎えた。暑さは生きものすべてに及ぶことだが、猛暑の中の片蔭を、一匹の黒猫がゆっくりと行く。その歩きざまは、素浪人のような頼りなさでいながら、どこか身構えるような不敵さも持ち合わせているようだ。時々、きっと振り返って光らせる眼を見ると、なんだかやるなあという感じがして、ちょっと負けそうと思わぬでもない。素浪人とは言い得て妙。

万緑の重力はかる風の景 茂里美絵
 万緑の重力とは、炎暑の中の草木の耐久力を指すのだろう。その重力が、どこまで耐え抜くことが出来るのかを測ろうとして、少し風が出てきたのではないか。重力を測る風は、万緑を少し揺らしながら、その安定度を試すかのように計測しようとしているのかもしれない。その自然の仕草全体が一つのドラマの幕開けのように、「風の景」として浮かび上がる。

◆海原秀句鑑賞 大西健司

なかなかの戒名思いつく遠雷 泉陽太郎
 とりあえず年齢を確認してみたが思ってたよりお若い。
 それだけにべたつかずさらっと書かれていて楽しい。
 戒名は仏様の世界での新しい名前、そんな新しい名前を思いついたのだ。この世の柵も何にも無く新しい名前を決められたらどんなに楽しいかと思う。宗派によっていろいろと決めごとがあったり、ランクがあったり、そして当然のようにお金もかかる。作者もこんな面倒なことが身近にあったのだろう。ただ遠雷を聞きながらこのような心境になれないのが高齢者。何やかやと寺からのお誘いが来る。そのうち戒名の話も住職から出てくるのだろう。遠雷が実に効果的。

こうもりの糞掃いていてすがすがし 竪阿彌放心
 どこか達観したような生き方を思う。
 屋敷のどこかに住み着いた蝙蝠の糞の掃除はなかなか面倒なもの。それをすがすがしいと捉える生きざまがいい。また同一作者のこちらの句も気に掛かる。
さなぶりや先祖の寺にゴロ寝して 〃
 自在な生き方が羨ましい。檀那寺の気易さだろう、御先祖に見守られてのゴロ寝の嬉しさ。作者の年齢は私より程良く上。まだ私には到達出来ていない自在さが何とも良い。

結局はさうめん食うて寝てしまふ 若林卓宣
 たしかにそうなんだろうなと思う。思うがまだ私などは罪悪感がつきまとう。このような割り切り方はできない。作者もそこまでの年齢ではないのだが、いつのころからかこのような俳句を飄飄と書いている。何とも味わい深い世界を紡いでいる。これも芸のうちというところか。そうはいってもいつまでも振りをしているのではなくそれ相応の年齢になってきている。
 今回は何故だろう、お盆が近いせいだろうか、これらの句がまず気に掛かった。

馬の朝大きな尻が動きだす 横山隆
 これまでの作者に比べ随分高齢な作者だが何とも大らかな句に好感を覚える。作者は長崎の方だが、この句からは東北あたりの曲り家を思う。馬屋と一続きになった屋敷に暮らす人々の温もりが感じられる句だ。朝とともに動き出す人の尻の大きさ、豊かさ。そして馬の大きな尻が安心感を生む。

つかつかと来て冷蔵庫開ける女医 佐藤二千六
 大らかといえばこの句も負けていない。この素っ気なさが何ともいいのだ。女医といえば申し訳ないがこのごろまた再放送でやっている、大門未知子先生のあの長い脚を思ってしまう。とても素敵だ。

知覧に夏どかと中学生一団 野田信章
 実に簡潔な句だ。これぞ俳句というところ。何にも述べずただ「知覧に夏」と書くのみ。そこから読み手はああ知覧にまたあの日と同じ夏が来たのだと感慨に耽る。
 そしてそんな知覧に中学生一団が来る。それもどかと来る。たぶん特攻平和会館にだろう。こう「どかと」と書かれると中学生一団の存在感が増す。生命力に溢れた中学生一団のその存在感に、読み手はついつい若くして散っていったあの夏の日の特攻兵達を思ってしまう。

輪島復興金輪際の帆を張って 村上友子
 輪島を旅したのはいつのころだったろう。禄剛崎、穴水など思い出すのはあの日の能登半島。自然豊かな半島に身を委ねての旅が蘇る。そんな能登半島を地震が襲ったのは正月のこと。作者のみならず大勢の人たちが一日も早い復興を願っている。そんな思いをストレートに書いている。金輪際という思いの帆を張って希望の明日へと船出する。もう二度とこのようなことがおこらないようにとの強い思いに共感する。

帆柱鳴るよ雲美しき夏は来ぬ 重松敬子
 実に伸びやかに、大らかに夏を賛歌する素晴らしさ。
 船旅というより、ヨットだろうか。私の地方でも七月に熊野灘の町から江ノ島沖を目指すパールレースが行われている。興味はあるのだが翌日の新聞を見て気づくありさま。作者は兵庫の方、神戸沖のヨットだろうか。
 心地良い句だ。

荷解きの出来ぬ八月六日かな 立川瑠璃
 八月六日は広島に原爆が投下された日。広島に所縁の作者の思いはいかばかりか。夏休みには広島へ帰省し式典に参加していたという若い作者。そんな作者が受け継いできた思いを紡ぐとき「荷解きの出来ぬ」という捉え方になる。戦後何年たとうがいまだ心の奥底には解放出来ないものがあるのだろう。
 広島の思いをこのように捉えた作者の感性が素晴らしい。

◆金子兜太 私の一句

戦さあるな人喰い鮫の宴あるな 兜太

 「戦さあるな」この直截的な言葉に胸を打たれます。青春真っ只中、戦争という理不尽な環境に遭遇された先生の句の数々。一句一句に込められた戦争の苛酷さ、悲惨さの情景を思い浮かべながら、先生の平和への強いお心を感得しつつ頷いています。戦争中の経験を始め、戦後の復興の歩みを身をもって体現ひとりした世代の一人として、先生の平和への強い希求を繋ぎたい。句集『百年』(2019年)より。泉尚子

右折車ばかりで左の空地ぼんやりす 兜太

 もともと現代詩が好きで、先生の俳句には「朝はじまる海に突込む鷗の死」に驚嘆してのめり込んでいった記憶があります。そのせいか、「詩は象徴である」という考えがいまだに捨て切れず、その視点でみると、掲句は描かれた光景の裏に、何か別の意味が隠されているような気がして仕方がない。この句は俳句の奥深さを味わわせてくれる、秀句だと思う。句集『日常』(2009年)より。尾形ゆきお

◆共鳴20句〈7・8月合併号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

榎本祐子選
孤りとは傘がいらない程の雨 奥山和子
春愁ふんわり乳ふさ揺れるよう 桂凜火
東風吹かば身のあちこちに錆が浮く 川崎千鶴子
阿と開きしままのくちびる花の奥 小西瞬夏
裏庭に北方領土ほどの残雪 小林ろば
樹の渦をひらく五月の鳥たちよ 三枝みずほ
原爆忌透明傘が歩いてる 清水茉紀
脱稿の切岸にさす春日傘 すずき穂波
ため息に抑揚のありライラック 芹沢愛子
鰊曇婆がきゅーんと孤にひたる 十河宣洋
ひとつずつ星を見つけて千鳥かな 高木水志
ひとり来てひとりのことば花水木 田中亜美
山茱萸が空にてんてん花恋忌 田中信克
疣蛙優しきひとの心臓音 豊原清明
浅き眠り春昼のながいながい貨車 鳥山由貴子
言の葉の生まれたがつて夕陽炎 野﨑憲子
杖が倒れる春とわたしとの距離に 平田薫
鳥雲に入る母さんのフラダンス 三浦静佳
すっぴんをぽつんと置いて春炬燵 宮崎斗士
云々とうんぬんを書き春の泥 柳生正名

大池美木選
○受付のAIに聴き春立ちぬ 石田せ江子
花明りむつかしそうな野垂れ死に 榎本祐子
囀りやここは夢みる席ですか 大髙宏允
カセットテープがエモいなんてね花曇 大西健司
雪柳ひとり残らず賛成だ 小松敦
花は葉に妻のことばも青く青く 佐孝石画
ヒヤシンスやっぱり黒い靴がすき 清水茉紀
春昼やあくびに裂けて猫の顔 鈴木修一
母とする連想ゲーム桜貝 竹田昭江
ぶらんこに毎日さわる一年生 たけなか華那
ありがとうのようなごめんねシクラメン 月野ぽぽな
春こたつ四角と見れば鶴を折る 中村道子
春の雪どこかがきっとサスペンス 丹生千賀
雨やどりして三月のオムライス 野﨑憲子
緑がちだね神話の国の菜の花は 服部修一
春から春へむらさきの傘さしてゆく 平田薫
花は葉に静かにせんか亡父ちちよ 本田日出登
鳥雲に一粒ブラックチョコレート 室田洋子
木の国の木の巣箱にて不眠症 茂里美絵
通販のルルド聖水新樹光 渡辺厳太郎

佐藤博己選
○受付のAIに聴き春たちぬ 石田せ江子
ハイエナもたまにはひとり山わらう 泉陽太郎
拒否権が拒否権笑う四月馬鹿 伊藤巌
滅びゆく地球 畔に花菜いっぱい 伊藤幸
品川はクレーンばかり朧なる 大池美木
Z世代の春眠あわてふためかず 岡田奈々
通勤の足いくつかは薄氷へ 尾形ゆきお
サキソフォン奏者がひとり風光る 小野正子
蝶落ちてインク広ごる紙の束 小西瞬夏
風のミモザ遠く遠くへ行きたくて 近藤亜沙美
独酌は孤高の誉れ春の月 齊藤しじみ
黄砂降るまた降る回る観覧車 佐々木宏
君、息が長いねクェクェクェケケケケキョ 田中怜子
純真の青空あってこそ桜 中内亮玄
きっとライオンすれ違った光る風 ナカムラ薫
豆の蔓のびてどこへでも行ける 平田薫
花追って無時限なり父の徘徊 船越みよ
堅雪を踏むよ木の声水の声 前田恵
花の下犬と目が合うこんにちは 松田英子
背の羽をきっちり畳み受験生 室田洋子

藤好良選
追い越されることの愉しき羽抜鶏 有村王志
無料です無量無聊の花ふぶき 川崎益太郎
苦瓜と錆びたり黴びたりして旗日 河西志帆
桜狩り薄れて読めぬ道標 倉田玲子
錆びながら咲き満つ辛夷大樹かな 後藤雅文
コロッケてふ肉屋の馬や春競馬 重松敬子
いかんせん土偶のあくび蕗の薹 ダークシー美紀
さくら咲くことばが文字になるように 佐孝石画
小手毬のゆさゆさ良いことありそうな 高橋明江
反戦歌こそ子守歌復帰の日 仲村トヨ子
こぼすたびたんぽぽになる粉ぐすり 丹生千賀
花吹雪浴びたくて新聞買いにゆく 堀真知子
物の芽や初産の馬眠りをり 本田日出登
捨ててまた拾う故郷柳絮とぶ 増田暁子
水の春フリーハンドでわたしの円 宮崎斗士
軽トラに花嫁と犬花吹雪 村松喜代
春風や熊鈴の鳴るランドセル 梁瀬道子
花びらを太ももに付けベビーカー 山本まさゆき
春昼のバス音漏れのイヤホーン 森武晴美
たった一本の桜に会いに行く 柳ヒ文

◆三句鑑賞

阿と開きしままのくちびる花の奥 小西瞬夏
 花の盛り。その美しい量感に圧倒され口を開く。閉じることも忘れて花世界に捕らえられた身は、日常のしがらみから解放され惚けてさえいるよう。万物の根源であり、始まりでもある阿。ひらがな表記で阿と開いたくちびるはどこか官能的で、花の奥も余計にそう思わせる。
花と人との交歓の世界が妖しい。

原爆忌透明傘が歩いてる 清水茉紀
 慰霊の日に歩いているのは透明傘。透明な傘はふわふわと実態のないもののように漂って、生身の人間の気配を感じさせない。沈黙のままにさ迷う霊魂のように。省略の効いたこの一句の背景は、さまざまなものを思わせる。一瞬にして時間を止められた人や物の無念。その後を生きる人々の苦痛、静かな祈りの言葉も。

云々とうんぬんを書き春の泥 柳生正名
 うんぬんを書き付けると長くなる。濁しておきたい事柄や省略可能な部分を云々と書く。云々とうんぬんは言葉の意味は同じでも別々の表情を見せて面白い。漢字表記は視覚的にストレートに迫ってくる。ひらがな表記は心理的に、意味を纏って訴えてくる。そんな微妙な感触は春の泥の感触だ。
(鑑賞・榎本祐子)

カセットテープがエモいなんてね花曇 大西健司
 少し前までは古臭くてダサいといわれていたものが、今の若者にとってはエモい対象みたいだ。昔の家電とかカセットテープなんて最たるものらしい。私達は昭和の懐かしさを感じるけれど、若者達もその疑似体験をするのだろうか。エモーショナルからできた日本のスラングらしいけれど、うまいこと言うものだ。そしてこの句も。

ありがとうのようなごめんねシクラメン 月野ぽぽな
 一見表面的にはいろいろ代替可能のようでもある句だ。例えば「さよならのようなごめんね」「ありがとうのようなこんにちは」あるいはひっくり返して「ごめんねのようなありがとう」とか。でも、やってみて解るけれど代替では全然駄目で、やっぱり言葉の感情と理性を知り尽くしている作者、流石です。シクラメンもすごく好き。

花は葉に静かにせんか亡父ちちよ 本田日出登
 亡くなったお父様はどんな方だったのでしょうか。「静かにせんか」と言われているからといって、口うるさいイメージはありません。ただ作者が何か考えたり行動したりする時に無意識に現れてくる亡き父。きっと作者はまわりから、「ますますお父さんに似てきた」などと言われているのでは。愛惜してやまぬ亡父ちちなのです。
(鑑賞・大池美木)

Z世代の春眠あわてふためかず 岡田奈々
 Z世代とは、1990年代後半から2010年頃までに生まれた年代の人たちのことをいいます。テレビ等のマスメディアではなく、インターネット環境での情報収集が当たり前の世代、コスパ、タイパを重視し、ワークライフバランスを重視する一方、SDGs等の社会課題に関心があるとされています。
 春眠暁をおぼえずといいますが、朝だからといって慌てふためかず、マイペースで毎日をゆったりとした気持ちで過ごしたいと思います。

風のミモザ遠く遠くへ行きたくて 近藤亜沙美
 風に吹かれているミモザを眺めていると、日々の仕事など忘れて風の吹くまま旅に出たくなります。折しも、新型コロナウイルスも5類に変更になり、行動制限もなくなりました。海外からの観光客も増えています。時間とお金さえあればなと思います。

背の羽をきっちり畳み受験生 室田洋子
 入学試験に臨む受験生でしょうか、それとも図書館や自宅で勉強に勤しむ受験生でしょうか。背の羽をきっちり畳みとは、黙々と机に向かう後ろ姿を言い得て妙だと思います。受験が終わったときには、思い切り羽根を伸ばしてください。
(鑑賞・佐藤博己)

反戦歌こそ子守歌復帰の日 仲村トヨ子
 沖縄に米軍基地があるというより米軍基地に囲まれて沖縄があると言った方が感覚的には当たっている気がする沖縄です。首都を沖縄に置けば政治家も目が覚めるのではともツイ考えてしまいます。「反戦歌こそ子守歌」がなじむ地はまさに沖縄だけです。復帰はしたものの、左側通行だけの日本復帰は許せません。

物の芽や初産の馬眠りをり 本田日出登
 上五の「物の芽や」で即座に状況が眼前に立ち上がります。昔は身近に見かけた牛・山羊・ロバ・鶏・あひるといった中〜大型動物たちも、近頃は犬猫のペット類ばかりと矮小化されているようです。十七文字からは様々な生命体が蠢き息し眠る様子が伝わります。私が見る大型生き物は中山競馬場にいます。

たった一本の桜に会いに行く 柳ヒ文
 上句の「たった」から、作者のその一本の桜木に対する愛しようが充分に伝わります。私にもやはりそんな山桜があります。前会社への通勤路付近で出会ったのですが、印旛沼近くの吉高の大桜がその木です(小高い山中の畑の中に堂々聳えています)。作者が「会いに行く」と言う気持ちがよく分かります。
(鑑賞・藤好良)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

退屈な水は重たげ金魚老ゆ 和緒玲子
浦島草おびえてふるえて垂らす糸 有栖川蘭子
蜘蛛の糸ひかるよ亡父に会いたくて 飯塚真弓
みねちゃんへ身欠き鰊を煮ています 石口光子
生きのびし倭人の裔や青葉潮 石鎚優
額アジサイ男の腕に抱かれおり 井手ひとみ
かげろひて刻より長き坂下る 伊藤治美
十薬の意志ある白と思ひけり 上田輝子
国あり家なし卯の花腐しかな 大渕久幸
火葬待つ前の山に夏鹿来 樫本昌博
かしわ餅耳のごとくに置いてあり 北川コト
領事館角曲がり来て祭笛 清本幸子
はちゃめちゃに死んで修さる桜桃忌 工藤篁子
ちょいワルは魅力たっぷり誘蛾灯 小坂修
戦争の話は未完ねじり花 小林育子
浜焼きの香よ戻り来よ地震の辻 佐々木妙子
若き日の自画像の目や桜桃忌 佐竹佐介
掴み所なき漢ども心太 鈴木弘子
独り居のきれいな自由梅雨の月 宙のふう
夏帽子満員電車の中の孤独 谷川かつゑ
グリニッジの子午線跨ぐアイス舐め 藤玲人
退院可みどりの風に抱かれたや 服部紀子
握り飯持ちてげんげ野に沈み居る 原美智子
人口の重心東へ桜桃忌 藤川宏樹
独逸パン抱え寂光を行くのだ 松﨑あきら
給食の余った蜜柑グーで取る 松本美智子
はじめてのおつかい気分春の旅 向田久美子
若竹や孤独の壁を突き抜ける 横田和子
春塵を濯ぐ両眼見開きて 路志田美子
平和なる夏空あをし少年院 渡邉照香

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