『海原』No.61(2024/9/1発行)

◆No.61 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

ミルフィーユ春愁挟んでおきました 綾田節子
終活や大樹を伐って涼むかな 有村王志
父の忌の辛夷あなたの強い筆圧 石川青狼
父と指切半世紀前の母の日 石橋いろり
雨だれは妻の心音菜種梅雨 伊藤巌
春一番不意に鳴り出す駅ピアノ 榎本愛子
デカダンな香水男同士の恋 大池美木
ガザ瓦礫目だけ大きい蜥蜴たち 大久保正義
戦止まれただひまわりの種を蒔く 大野美代子
巻貝の開けっ放しの批判聞く 奥山和子
夜の新樹歌舞伎役者の目張りかな 北上正枝
濁流へ手を差し延べる若葉かな 倉田玲子
袖口に蝶一頭の着地感 小松敦
平和のつづき託されている夏帽子 三枝みずほ
海の日のジャズ集団の静かな老い 重松敬子
蝌蚪生る墓原の奥のひかりかな 白石司子
廃校の後の廃村蝌蚪生まる 菅原春み
草の実やひとの故郷に来ています 芹沢愛子
花は葉に家系図に入る赤ん坊 髙井元一
初蝶が痛みにずっと付いてくる 高木水志
家出とも旅とも思う夏野原 竹田昭江
水紋は二人で一つ桜桃忌 立川弘子
憲法改正鯉のぼり口あけたまま 田中信克
思うことわたしをはみ出して陽炎 月野ぽぽな
僕という老人朴の花咲いた 遠山郁好
めでたやな「ひとり端午」の卒寿かな 友枝裕子
地に穀雨君の彈き語りのように 野田信章
木も人も立ちゐて翼なき五月 水野真由美
事業継ぐと決めて食むひと桜餅 深山未遊
春日傘寄せ立話はまだ続く 森武晴美

大西健司●抄出

能登山麈遠く響くやサキソフォン 赤崎冬生
空蟬に火薬の匂い鳥瞰図 伊藤清雄
男来る水羊羹のやうな顔 鵜飼春蕙
チキンライスとか主婦っぽくて五月 大池桜子
デカダンな香水男同士の恋 大池美木
弟の手の離れゆく大花火 奧村久美子
来世も逢う人さよならクレマチス 小野裕三
強面の山羊うずくまる草いきれ 桂凜火
花曇り牛乳瓶の蓋開けて 川嶋安起夫
石室の向きさまざまに青葉騒 黒済泰子
押入れの姉の水着を着て見たる こしのゆみこ
箱庭のちひさな母につきあたる 小西瞬夏
鳥帰る我ら自由なムコクセキ 小林ろば
少年の目礼新樹の匂いして 佐孝石画
自愛とは持ちもの検査春の雲 佐々木宏
麦の秋遠回りして思念あり 佐藤紀生子
角栄邸の門焼け残り青木の実 芹沢愛子
春泥のはみだしたくてたまらない 高木水志
鬱の字の零れて居間は晩春 立川弘子
迷宮は何かの仮定ほたるの夜 立川由紀
寂しさの奧はほたるの住まいかな 立川瑠璃
白南風の夕べ小石を持ちかへる 田中亜美
拝復と書く風強き日の田植 遠山郁好
余呉の湖あらそわぬひとおぼろなり 日高玲
磯巾着分かったふりの空返事 船越みよ
旅終る五月雨の絵本閉じるよう 松岡良子
やわらかな思想あつまる田植かな 松本勇二
激辛カレー花冷えの夜勤です 三浦静佳
隊列はもう葬列に麦の秋 山下一夫
燕来る身に覚えなき掠り傷 横地かをる

◆海原秀句鑑賞 安西篤

ミルフィーユ春愁挟んでおきました 綾田節子
 ミルフィーユとはフランス風のケーキで、パイ地を薄焼きにしてカスタードクリームや果物を挟んだもの。その中に、ちょっぴり春愁もはさんでおきましたという。洒落たケーキに、春愁を挟むとは、作者ならではの日常感覚からくる着想で、このひと味が一句の旨味となる。ミルフィーユの語感がその旨味を引き立てる。

父の忌の辛夷あなたの強い筆圧 石川青狼
 父の忌日に辛夷の花が咲いたという。作者は北海道釧路に住んでいるから、おそらく四、五月頃かもしれない。その地域では、まだ早春感が残っていて、日によっては寒さを感じる程なのだろう。その頃の父は、ペンの握りも固く強い筆圧で、痛みさえ感じるほどかもしれない。書家の作者の父上も当然堪能な書き手で、しっかりと書かれたことだろう。その筆圧を残された書き物に、辛夷の花の握り拳を思わせる蕾のような懐かしさを感じている。

雨だれは妻の心音菜種梅雨 伊藤巌
 この作者はここ数年、病弱な妻の介護の日常を詠み続けており、どの句も書き尽くされた題材ながら、その心を込めた詠みぶりが、句の誠実な持ち味となって読者の胸を搏つ。この句の「妻の心音」を「菜種梅雨」の中で聴くとは、老々介護の日々を送る作者の心音とも相和している。「菜種梅雨」がしめやかな長雨となって、しばし小さな雨だれのような妻の心音に重なる。

春一番不意に鳴り出す駅ピアノ 榎本愛子
 駅ピアノは、今や世界各地の駅や空港、公共スペースに設置され、誰でもノーナレーションで弾くことができ、通りすがりの人々が、束の間の意外性のある音色に聞き惚れる。これも日常を流れる一瞬の時空の、思いがけない彩となっている。それも春一番の風のように、不意に訪れるからだろう。

ガザ瓦礫目だけ大きい蜥蜴たち 大久保正義
 イスラエルとパレスチナのハマスとの抗争が続いている。両者は、長い歴史にわたる対立に根差しているだけに、すでに二年越しの戦いは、容易に終息する気配がない。この句の「目だけ大きい蜥蜴たち」とは、この地域に長年住み着いてる無辜の民を象徴するものだ。その目には、もう涙さえ涸れつくした悲しげな虚無感が漂っているに違いない。

夜の新樹歌舞伎役者の目張りかな 北上正枝
 「歌舞伎役者の目張り」とは、目のふちに施す紅や墨の化粧のこと。「夜の新樹」の立ち姿を、そう見立てることで、木々の印象を濃くしている。新樹は、新緑の中で木に焦点をあてた歌舞伎役者の目張りのようと喩えたのは、木々の立ち姿の所々に、色濃く映える緑陰のせいかもしれない。その比喩が洒落ている。

海の日のジャズ集団の静かな老い 重松敬子
 兜太師の「今日の俳句」に登場する「どれも口美し晩夏のジャズ一団」を連想する。今は年を経て、かつての仲間と再会し、昔一緒に演奏した懐かしの曲の数々を、思い出すままに演奏している。それは、「海の日」(七月第三月曜日)に、かつて演奏した同じ場所の海辺で行われる約束なのだろう。おそらく聴いている人々も、それなりに加齢した人々で、あの日からの歳月を振り返りつつ、感慨に浸っている。「静かな老い」の共感の拡がりを感じながら。

初蝶が痛みにずっと付いてくる 高木水志
 作者は、重い障害を抱えながら、一日いちにちを懸命に生きている人。ある日、車椅子に乗って、近くに外出したのだろう。すると、たまたま通り合わせたように初蝶が舞い出て来て、自分の傍らを離れずに付いてくる。その偶然の出会いを、弱い自分のいのちを助け労わってくださる不思議な自然の恩寵のように感じたのだろう。

思うことわたしをはみ出して陽炎 月野ぽぽな
 ニューヨーク在住の作者は、最近故郷長野の母上を亡くされた。母病い篤しの報に再三帰国して見舞うという日々を重ねた末、ついに空しくなられた。遠隔の地での多忙と心労はいかばかりか察するに余りある。伴って、お世話を掛けた方々へのご挨拶など、それやこれやの諸事は、もう自分をはみ出していると悲鳴のように叫びたいほど。陽炎のようになすすべもない思いと、なさねばならぬ思いが葛藤して、私をはみ出して燃え続けている。

めでたやな「ひとり端午」の卒寿かな 友枝裕子
 この句の「ひとり端午」とは、孤独な老後を迎えた人々の端午の節句なのだろう。卒寿は長寿を祝うふくみのある言葉だが、今は、佐藤愛子もいうように「何がめでたい」といいたくなるのが本音。戦後、五月五日は「こどもの日」とされているが、ここは老人。作者の本意は定かでないが、「めでたやな」の言い方の妙にことさらなひびきは皮肉にも聞こえる。しかし、フランクルは「どんな時も人生に意味がある」という。そう信じたい。

◆海原秀句鑑賞 大西健司

拝復と書く風強き日の田植 遠山郁好
やわらかな思想あつまる田植かな 松本勇二

 世間によくある田植の句とは切り口の違う二句が気にかかる。いまさらこのお二人の句を鑑賞することもないのだが。あえてこの手練れの句を鑑賞したい。
 遠山さんの句は、「拝復」とあるように親しい人へ手紙の返事を書こうとしているのだろう。なつかしい人を思いつつ、ふと顔をあげ遠くを見ていると目に浮かぶ故郷の風景。それは長閑な風景ではなく、何故か風の強い日の田植えだという。波立つ田圃の田植は難儀だ、すぐに植えたばかりの苗が流されてしまう。そんな波立つ田圃が象徴するものは何なんだろうと、この句の奥深さに戸惑っている。故郷への思いの中に屈折したものが少しあるのだろうか。「拝復と書く」この上五のうまさが際立つ句から勝手に思いを広げている。
 また松本さんはさりげなく「やわらかな思想」と書く。
 さりげない句に見えてなかなか手強い句だ。田植俳句に思想とは誰も書かない。私も農家の長男として生を受け、そのままそこに暮らし続けている。何もしないままいまは人に預けている農地だが、子どもの頃の記憶にあるのはまず父と伯父と弟と近くの山へ赤土を採りに行くことから始める稲作の光景。もちろん私と弟はそのへんで遊んでいるだけ。もちろんこの赤土は苗代に使うもの。
 苗代作りにしろ田植にしろ当時は共同作業。規模が小さければ親戚との作業。また集落あげての共同作業もある。この句からはそんな共同作業の光景が浮かんでくる。それをやわらかな思想あつまると書き得たことの見事さを思う。

余呉の湖あらそわぬひとおぼろなり 日高玲
 こちらもまたベテラン作家の静謐な一句。余呉湖は賤ヶ岳を一つ隔てた琵琶湖の北にひっそりとたたずむ小さな湖。作者はこの静かな湖から「あらそわぬひとおぼろ」と感受した。私はこの争わぬ人を勝手に戦乱の世に福井北ノ庄城で自害したお市の方と決めつけて読んでいる。
 たしかにこの周辺は織田信長亡きあとの安土桃山時代豊臣秀吉と柴田勝家との間で繰り広げられた「賤ヶ岳の合戦」の舞台にもなった土地。この合戦に敗れた勝家は福井北ノ庄城へ敗走。お市の方ともどもその後自害している。そんな戦乱の世に生きたお市の方がおぼろに佇んでいる余呉湖と深読みをしている。争いを好まず、争うことなくひっそりと生きたかったであろうお市の方が見えてくる。これは私の勝手な妄想。どこかミステリアスなこの湖は羽衣伝説もあり、このような思いにとらわれる地なのだろう。

押入れの姉の水着を着て見たる こしのゆみこ
 こしのさんいいなあと思わず突っ込みをいれたくなる。姉さんのいつごろの水着だろう。ほかの衣類と一緒に仕舞われていたのだろう。捨てられずにいたそんな水着を作者は着て見たという。もうこの姉さんは亡くなられているのだろう。よほど仲のいい姉妹だったことが窺える。しかしそんな水着を着て見るという行為はどんな心境だろうか。他人にはわからない姉妹の絆の深さが沁みてくる。ただ「着て見たる」の見たるがこしのさんらしくなく、少し硬いのかななどと読み手はすぐに勝手なことを言う。

少年の目礼新樹の匂いして 佐孝石画
 何と瑞々しいことよと羨ましく思うしかないこの感性。
 あえて鑑賞などするまでもないこの好ましい少年の姿。
 登下校の時には子ども達が元気に挨拶してくれる。そんな光景もいいがこの少年は目礼だという。少しのはにかみと周りの木々の瑞々しさが実に美しく響き合う。
 佐孝石画の青春性が眩しい。

男来る水羊羹のやうな顔 鵜飼春蕙
 まず「水羊羹のやうな」と言われても困ってしまう。もうこう思って立ち止まってしまったら作者の思うつぼ。書き手はこう感じたから書いただけ。読み手はそれがどうしたと無視すればいいだけ。ただ私は立ち止まってしまっただけのこと。「○○の顔のよう」のような句はもちろんおびただしく書かれているだろうが、なかなか水羊羹とは言えない。時にはこんな句もいいものだ。

春泥のはみだしたくてたまらない 高木水志
 若い作者の何とも悩ましい一句。春の泥だから冬のそれとは違いやわらかいのだろうとか、他の季節とも違うのだろうとか、余計なことを考えながら、作者の心の奥底にあるもどかしさを感じている。「はみだしたくてたまらない」これが若さなんだろう。

寂しさの奧はほたるの住まいかな 立川瑠璃
 若い感性の眩しい一句。心の奥底に灯る蛍火は寂しさのなかに棲むという何とも屈折した思い。青春の懊悩のなかにひっそりと蛍を棲まわせる詩心が愛おしい。ただ「住まいかな」の下五がやや不満。「棲家」ではどうだろう。それか助詞を変えて「棲まわせて」などでは。

◆金子兜太 私の一句

左義長や武器という武器焼いてしまえ 兜太

 私は、兜太先生とお会いしたのは、海程全国大会・長崎での一回だけです。「秋田の風土を詠い、がんばれ」と握手してくれました。ものすごい記憶力と、温かく大きな先生に驚愕したのを、今も鮮明に覚えています。この句は、先生の晩年の句。ご自身の実体験を通して反戦を訴え続けた兜太先生。現在未来にわたって世界平和のために残したい一句です。句集『日常』(2009年)より。佐藤二千六

暗闇の下山くちびるをぶ厚くし 兜太

 昭和二十八年、師は、三十四歳。日銀福島支店から神戸支店への転勤が決まり、安達太良山登山の送別会後、独りで山を降りながら「何かがやれる」という高揚感の高まりの中で創られた作品。因みに、この年、私は生まれた。下山とともに高まるエネルギーが次の飛躍の源となる。〈く〉韻と平仮名に溢れる肉感。疲れた時は、いつもこの句を音読し元気をいただいている。句集『少年』(昭和30年)より。野﨑憲子

◆共鳴20句〈6月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

榎本祐子選
金木犀同じ顔して眺めたる 有村王志
冬白濤翼なくても飛べる僕 大沢輝一
窓光るどこかにきっと桃畑 奥山和子
詩を書けば耳遠くなる流氷期 木下ようこ
父の忌やあれは白蓮開く音 金並れい子
啄木にへたな歌ありおぼろ月 重松敬子
建国の日靴下の穴あいたまま すずき穂波
鳶の輪の幾重にも巻く死者の家 十河宣洋
○痛いのが詩ですあなたが踏む落葉 竹本仰
しゃぼん玉割れて異郷の空濡らす 月野ぽぽな
天病むと詠みし世つづく不知火忌 並木邑人
夜更しの徒然スープの蕪柔ら 新田幸子
木五倍子咲く裏側君の通りけり 松岡良子
突起が四つの土姫踊れ北地 マブソン青眼
風の民のぼりて海を見る木かな 水野真由美
若鮎と遡上ぐんぐん今日は天才 三世川浩司
囁きの唇やはらかく「うすらひ」 望月士郎
○逃水のかの世この世へウーバーイーツ 矢野二十四
スルメ反り立つ戦じりじりやってくる 夜基津吐虫
あやとりのゆきつくところ春愁い 横地かをる

大池美木選
ミノ虫を見た夜はミノ虫になっている 大久保正義
何となく振ってしまうよ種袋 鎌田喜代子
出目金がてらてら所帯くさくなり 河西志帆
空蝉座と名づけしすぐに光ります 黒岡洋子
あまやかすこと美しく水草生う こしのゆみこ
吾も人も白鳥へ向く橋の上 鈴木修一
安曇野を綴じる縫い針春の雨 鱸久子
白猫の耳は花びら春隣 竹田昭江
○痛いのが詩ですあなたが踏む落葉 竹本仰
花の昼ポストが喋っているような 峠谷清広
黄水仙ときどき矢印が違う ナカムラ薫
ひょうもん蝶だって僕はすわりたい 平田薫
春あけぼの大き活字の訃報かな 前田典子
秋の声風に乾いてゆく木椅子 松木悦子
仮病という不治の病よ春炬燵 宮崎斗士
揺れゆれるコスモス或るときは訃報 茂里美絵
○新宿の絆創膏を剥ぐ余寒 柳生正名
○逃水のかの世この世へウーバーイーツ 矢野二十四
背に踊るⅠDカード春一番 山本まさゆき
啓蟄やひねもすシルバーパス使う 渡辺厳太郎

佐藤博己選
吐く息もフロストフラワーの一花 石川青狼
すみれすみれレコード盤が捨てられぬ 伊藤幸
迷いなく10年連用日記買う 植竹利江
売り尽くし本屋閉店弥生尽 鵜飼春惠
滑空のムササビ嬉々と森開ける 加藤昭子
一ミリづつ廃屋は枯れ庭深し 川崎千鶴子
馬酔木咲く荒れ地のような母の掌に 川田由美子
鳥帰る今日オスプレーが飛んだ 河西志帆
シャッターを待つ顔のまま二月尽 小松敦
春の浜孫一歳と爺婆と 志田すずめ
シリウスを掴めないから酒を飲む 清水恵子
限界集落竜の注連縄十メートル 新宅美佐子
日脚伸ぶ山と向かいてロングトーン 中村晋
モナリザの解きし腕より蝶生るる 中村道子
戦争は棄民すること空襲忌 並木邑人
三・一一忘却の海におぼれるな 船越みよ
春一番怒りっぽいなと自問自答 松田英子
字余りの一日だった猫の恋 三浦静佳
風がまず名を聞いてくるふきのとう 宮崎斗士
アンモナイト自虐と書いて消して雪 茂里美絵

藤好良選
飛梅や私に向かない金庫番 安藤久美子
匂いから忘れはじめる残り鴨 伊藤歩
哀しみのひとひらひとひら春の雪 宇川啓子
十二月八日割れてる鶏卵や 大沢輝一
枯菊焚く無限の旅の立ちのぼる 大野美代子
実朝忌凶と思える日に散歩 尾形ゆきお
空耳の人集まって春近し 小野裕三
水温む何かしなくちゃいけないの 楠井収
流氷去る星が消える日生まれる日 小林ろば
九条の空よ蝶より剥がれゆく 三枝みずほ
菜の花や何が起こるも陽は西に 篠田悦子
犀はるか瀞の暗緑横切りぬ 田中亜美
永き日の墓標へ蝶とかげ、仏陀 ナカムラ薫
地震津波崩落失意能登待春 服部修一
花辛夷空へ差し出す無数の手 三浦二三子
春を待つ蛹の息のうすみどり 三好つや子
○新宿の絆創膏を剥ぐ余寒 柳生正名
撃ち方やめい!石鹸玉が飛んで来た 矢野二十四
海鳴りをこころゆくまで野水仙 横地かをる
風の足風のげんこつ青芒 渡辺のり子

◆三句鑑賞

金木犀同じ顔して眺めたる 有村王志
 金木犀の主張の強い香り。まず香りが届き、その所在を知ることになる。強いものの吸引力。総じて強いものは美しくもある。その力には抗えず引き摺られ、投影された自己は最早個ではなく同化してしまった物となる。この現象は様々な場所で見受けられ、範囲が広くなるとより怖くなる。

窓光るどこかにきっと桃畑 奥山和子
 寒い冬が過ぎて明るい日差しに覆われる。世の中の辛くて暗い出来事など、暖かな光が吸い込んでくれたらと思う。美しい自然と優しい時間の流れている世界があるはず。メーテルリンクの「青い鳥」をふと思ったりもするが、もっと切羽詰まった心情が見えるのは時世のせいだろう。

詩を書けば耳遠くなる流氷期 木下ようこ
 流氷が接岸するように詩を書く。それは、ひとり己の時空を旅することであり、自他との接点に触れる旅でもある。そこには現実の時間が流れ、現実の時間に寄り添って別の時間も流れている。その隙間に見えるイメージの瞬間に触れ、新たなる世界を開く。耳の遠くなるような体験なのだ。
(鑑賞・榎本祐子)

安曇野を綴じる縫い針春の雨 鱸久子
 以前安曇野を訪れた時、一日雨だった。最初お天気が残念と思ったが、雨に濡れた緑の安曇野も十分美しかった。一本の長い銀の針で、安曇野の草原を綴じてゆく。縫っても縫っても湿り気のある緑が次々に現れて。それでも魔法の縫い針でわたしはまたどんどん綴じてゆく。でも広がってゆく春の雨の草原。なんて素敵なんだろう。

仮病という不治の病よ春炬燵 宮崎斗士
 仮病を使ったことのない人っていないんじゃないかと思う。ちょっと気の進まない誘いを断る時とか。誘いはないけど自分自身から少しお休みしたい時ってある。まさに「春の炬燵」状態。不治の病だから全快しないし、よくぶり返します。でも深刻ではありません。ぬくぬくだらだらしたい。春の甘さがあるのが好きです。

背に踊るIDカード春一番 山本まさゆき
 春一番の強い風で、首から下げている身分証カードが背中の方までまわって踊っている。それはそれで状況としてありそうだけれど。わたしはこの句から、ひとりひとりの背中にIDチップが埋め込まれたりする未来まで想像してしまった。全てを管理される怖さ。それを軽やかに、あくまで明るい春の風と歌っているのがいい。
(鑑賞・大池美木)

すみれすみれレコード盤が捨てられぬ 伊藤幸
 技術革新により、音楽を楽しむ方法はレコードからCDへ変わり、さらにCDからインターネットでの音楽配信に変わりつつあります。すみれは、派手さはないが、小さな可愛らしい花です。レコードも、CDほどクリアな音質ではないし、古くなると少し雑音が出るようになりますが、一枚一枚に思い出が詰まっているのです。断捨離という言葉がありますが、そう簡単には捨てられないものもあるのです。

一ミリづつ廃屋は枯れ庭深し 川崎千鶴子
 地方では、知らない間に、空き家が増えてきています。街を歩いていると、この家も空き家になってしまったのかと思うことがよくあります。かつては、家族の生活があった家。その記憶も、年々忘れ去られ、一ミリずつ家が枯れていくのです。

日脚伸ぶ山と向かいてロングトーン 中村晋
 山間の中学校なのでしょうか。吹奏楽部の金管楽器が屋外で練習している風景が目に浮かびます。一日一日春が近づく中での、のびのびとした学校生活ですね。
(鑑賞・佐藤博己)

十二月八日割れてる鶏卵や 大沢輝一
 十二月八日は太平洋戦争の開戦日ですが、凶弾に倒れたジョン・レノンの忌日でもあります。それにしても一体鶏小屋で何があったというのでしょう、イタチが鶏小屋を狙いに来たので鶏たちが大騒ぎをし、せっかく産んだ卵を割ってしまったようです。師走の落ち着かないときですが、大事に至らないことだけを願います。

春を待つ蛹の息のうすみどり 三好つや子
 もうすぐ春を迎える頃の野を適確に描いています。辺りは冬が多分に残っており枯葉色に満ちているのやも知れません。そして野のさなぎ自身もそんな環境に染まっています。ただし作者の鋭く自然を慈しむ目は決して見逃しませんでした。さなぎの息だけは薄緑に変わりだしていることを。

撃ち方やめい!石鹸玉が飛んで来た 矢野二十四
 上句からは子供たちの水鉄砲遊びとも、ウクライナ東部戦線の塹壕の中とも判断がつきかねます。どうやら作者は読み手に判断を託したと思われます。そして中句でシャボン玉の出現!ウクライナと定め読み進めてきた私はドローンならぬシャボン玉にびっくりです。果たして味方の兵の遊びでしょうか、敵の新型風船爆弾かも!
(鑑賞・藤好良)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

あだし野は風の十字路鳥雲に 和緒玲子
夏の蝶世界は父がいればいい 有栖川蘭子
袋掛お岩木山のふところで 石口光子
ふどしてふ魂ありき青葉潮 石鎚優
五月雨や乾いたわたしを持て余す 井手ひとみ
身を超える言葉は知らぬ青葉光 伊藤治美
姫女苑何を満たせば癒される 大渕久幸
遺品めく一書賜る夏はじめ 岡田ミツヒロ
蜘蛛の囲や急いで生きてゐるやうな 小野地香
うちの米味噌芹新茶昼めしぞ 梶原敏子
天孫降臨迎える椎の花明り 神谷邦男
白雨の森捨て来しものの見え隠れ 花舎薫
風薫る遺品分けるにあみだくじ 清本幸子
味噌汁を薄味にして聖五月 香月諾子
八十八夜片恋ばかり数えてる 小林育子
生きすぎたとおぼろ月夜に母の顔 小林文子
日本国憲法記念の日揺らぐ 佐竹佐介
マスクしてサングラスして花見かな 重松俊一
ゆっくりと立て夏三日月につかまって 宙のふう
ほうたるや一つと言わる命の数 立川真理
歌わねば声もさびゆく黒揚羽 谷川かつゑ
子供の日今日は落語を聞きに行く 津野丘陽
すれちがうだれもいいひと五月かな 藤玲人
晩春はここになければ無いですね 福岡日向子
窓の内外拭いて初夏書を捨てよ 松﨑あきら
走り梅雨初めて降りる隣町 峰尾大介
山笑う観音は老い許されず 村上紀子
柿若葉母屋取り壊されてゐし 森美代
臆病な美肌男子や黄水仙 横田和子
風光るアトリエ舟に吾を浮かべ 路志田美子

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