『海原』No.53(2023/11/1発行)

◆No.53 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

微光して老いた馬立つ薯の花 石川青狼
故山夕焼けきちんと叱り叱られて 伊藤巌
拓かれし村 牲として古代蓮 伊藤幸
水撒いてだんだん人に戻りけり 大池美木
白雨ですぼくをかたどる僕のシャツ 大沢輝一
デイゴ咲く空は還って来ないまま 片岡秀樹
真葛原二人いること気球のこと 川田由美子
逃水や自分の影に色がない 河西志帆
紫陽花のくらやみにある神の椅子 北原恵子
途中下車旅程表には無き白雨 北村美都子
自分ひとりのための冷房と哲学 木下ようこ
夏草に分け入る水牛の眼して 黒済泰子
蕺草や木立モノクロ無言館 小松よしはる
廃校のへのへのもへじ鳥渡る 白石司子
雨だれの聖なる固さ茅舎の忌 遠山郁好
虫時雨空気を運ぶローカル線 故・永田タヱ子
相思樹の歌ごえ消えず沖縄忌 野口佐稔
花片栗の南面「おー」と師の声す 野田信章
じゅんさいつまむ文字化けの原稿 日高玲
帰還する人らの老いて茄子の花 平田恒子
並びたる膝の明るさ作り滝 藤田敦子
補聴器の奥はせせらぎ水芭蕉 船越みよ
和箪笥の母の来し方雪柳 三浦静佳
言の葉を水に研ぎゐて夕薄暑 水野真由美
ほおずき市歩幅と歩幅まだ恋人 宮崎斗士
だまし絵から何か逃げ出す夏至の夜 村本なずな
ポピー畑なんでも笑っちゃう家系 森由美子
こじらせてはしびろこうでゐる薄暑 柳生正名
蘭鋳に一部始終を無視さるる 矢野二十四
崖っぷちのぼりきったる蛇の衣 渡辺のり子

水野真由美●抄出

水臘樹の花父の手帳の小さき旅 安藤久美子
初夏の薄暮にうかぶ膝の裏 泉陽太郎
風蘭や老人ばかり愛でており 稲葉千尋
白雨ですぼくをかたどる僕のシャツ 大沢輝一
老象は伽藍のかたち夏の月 尾形ゆきお
射的して妻まつ朝顔市のなか 荻谷修
真葛原二人いること気球のこと 川田由美子
星涼しやはり誤差ある山の地図 北上正枝
紫陽花のくらやみにある神の椅子 北原恵子
万緑やただ直立の別れあり 近藤亜沙美
母少しおこらせたままラムネ玉 三枝みずほ
青時雨手と手つないでいた記憶 佐孝石画
祝卒寿素手で掴めるなめくじら 篠田悦子
他人とは思へぬ犬や夏至の夜 菅原春み
いもうとが波打際にいる五月 芹沢愛子
遠蛙闇におさまる弟よ 十河宣洋
泣きたかったまだ柳絮が飛んでいる たけなか華那
マンホールの漫画見ながら風薫る 峠谷清広
腕時計置く音父に父の日果つ 中村晋
白くやさしく聳えて泌尿器科五月 野田信章
短さは無口に非ず敗戦忌 長谷川阿以
うちわ祭りにぼんやり鯰のような人 長谷川順子
蓮巻葉ゆるびて今しか出来ぬこと 平田恒子
舟虫のやたら子分になりたがる 松本千花
白湯のごと祖父の正調ゆすらうめ 松本勇二
ゆうがおや訃報のだんだんと水音 宮崎斗士
夕端居わたしの暮らしてきた躰 望月士郎
蛍袋きれいな声紋預ります 茂里美絵
向日葵の正しく生きて棒暗記 山谷草庵
水力発電所 ほーたる発電所 横山隆

◆海原秀句鑑賞 安西篤

故山夕焼けきちんと叱り叱られて 伊藤巌
 故山とはふるさとの山だが、ふるさとそのものを指す場合もある。作者の故郷は信州だから、ふるさと即故郷の山として浮かび上がるのだろう。夕焼けは、幼き日の愛唱歌「夕焼け小焼け」の呟くようなメロディーがBGМとなる。そのあとに、帰りが遅いという母のお小言が続く。「きちんと叱り叱られて」とは、いつものように決まって繰り返されるお小言への懐かしさとともにある。

デイゴ咲く空は還って来ないまま 片岡秀樹
 「デイゴ」は、沖縄、奄美大島を北限とするマメ科の花で花期は三月から五月。この句は、沖縄の歴史の悲しみを詠んでいる。戦争とその後の祖国防衛拠点としての基地負担等さまざまな負い目を負わされ続けてきた沖縄。「空は還って来ないまま」とは、その悲しみへの告発の句と見てよいだろう。

自分ひとりのための冷房と哲学 木下ようこ
 現代は情報の氾濫時代ともいわれるが、自分にとって本当に必要な情報を見分けることは難しい。それには自分に何が必要なのかを知ることが大事だろう。ここでいう「哲学」とは、自分の生き方に資するものの考え方とみてよいのではないか。暑い夏の一日、冷房を利かせた部屋で、そのための読書をひとり楽しんでいる。

廃校のへのへのもへじ鳥渡る 白石司子
 山奥の小学校が、また一つ廃校になった。誰もいなくなった運動場には、去っていった生徒たちによる大きなへのへのもへじが書かれている。さよならとはいわない。精一杯のおどけとも、抗議とも見えるへのへのもへじを、渡り鳥たちが眺めていく。あたかも「あかんべい」をしてみせたように、かえってユーモラスに深いかなしみを窺わせる。地域の心情を逆説的に表現した一句。

虫時雨空気を運ぶローカル線 故・永田タヱ子
 今年の八月九日に、九十歳の齢を閉じられた永田さんは、生前宮崎俳壇の指導的役割を担って活躍しておられた。掲句は、海原投句の絶吟となったものであろう。地方のローカル線は、秋の虫時雨の中を通る。その虫時雨の空気そのものをローカル線は運んでゆく。それは作者にとってのお国自慢でもあった。永田さん自身、その空気に運ばれて、いつのまにやら他界へと去って行かれた。

相思樹の歌ごえ消えず沖縄忌 野口佐稔
 戦争末期の沖縄戦で、女子学生による「姫ゆり部隊」が組織され、負傷兵看護に当たりつつ、多くの若い命を散らした。女学生たちの卒業歌「別れの曲」(相思樹の歌)は、教師の太田博作詞、東風平惠位作曲によるもの。女学生たちは卒業式を迎えられず、その歌も歌われることはなかったが、元学生や遺族の間で歌い継がれている。その故事を語り継ぐための一句。兜太師の句集『百年』の中にも「相思樹空に地にしみてひめゆりの声は」がある。反戦への意志と歴史感覚の一句といえよう。

補聴器の奥はせせらぎ水芭蕉 船越みよ
 加齢にともなう難聴の傾向はいや増すばかりで、そのための補聴器も、なかなかぴったりとこないものが多い。とくに着装したときの雑音には悩まされる。さりとて使わないわけにもいかず、かけはずしたりしながら使いつつあるのが現実。掲句は、その雑音の中にも、時にせせらぎのような清らかな物音を感じる時がある、そこから尾瀬の水芭蕉の幻覚が立ち上ることもあるという。日常を愛しみながら送る人ならではの感性に共感。

言の葉を水に研ぎゐて夕薄暑 水野真由美
 「言の葉を水に研」ぐとは、言葉の意外性と表現の不確定性を推敲する過程を比喩したものではないだろうか。川本皓嗣『俳諧の詩学』によれば、「俳句とは、ことばが本来もっている意味の不確定性そのものを表面化し、強調し、読者に痛感させることを、いちばん付け目とする遊び」という。夕薄暑の厳しさの中、言葉を研ぎ澄ます作業とはそのような意味合いを含むものではないか。

ほおずき市歩幅と歩幅まだ恋人 宮崎斗士
 ほおずき市に久しぶりにやってきた二人。今は夫婦なのだろう。おそらく恋人時代に、二人してよく通ったほおずき市をなつかしんで立ち寄ったのではないか。あの頃、二人の歩幅は、相手を思いやってか、狭く、ぎごちないものだった。今も、ほおずき市に来ると、その頃の気分に戻って、歩調のリズムが変わってくる。こういう日常のナイーブな心理感覚は、この作者のもっとも得意とするところで、他の追髄を許さない。

こじらせてはしびろこうでゐる薄暑 柳生正名
 「はしびろこう」は、コウノトリ目ハシビロコウ科の鳥で、嘴が幅広く大きい。体長一・二メートル。水辺に棲息し、魚を捕食する。長時間動かず、獲物を待ち伏せる。上五の「こじらせて」は、何か人事の出来事で問題を拗らせたのだろう。そんな時は、はしびろこうを決め込んで、泰然と落着の時を待つ。急いては事を仕損ずる。「薄暑」が、そのじりじりした時間を耐え抜けといわんばかり。

◆海原秀句鑑賞 水野真由美

水臘樹の花父の手帳の小さき旅 安藤久美子
 いつも手元に置く「手帳」には持ち主の暮しやひそやかな内面が記される。そこには家族も知らない事柄があるかもしれない。もし「手帳に」ならば「小さな旅」は、そこに記された現実の小旅行に留まるが、「手帳の」はどう読めばいいだろう。「旅」とも言えない事柄を旅のように記しているのだろうか。あるいは「父の手帳」をたどることが自分自身の「旅」なのだろうか。手がかりは「水臘樹いぼたの花」だ。モクセイ科の落葉低木で日本各地に自生し初夏、枝先に白い小花を房のように咲かせるという。また、その香りは銀木犀に似ているらしい。この控えめな香りに「小さき旅」は呼応しているのかもしれない。父なりの大切な物や事を記した言葉を「小さき旅」と受け取る感覚だ。とはいえ父が健在であるならば、その手帳を子供が開くことはない。やはり父への旅とも感じさせる所以である。

初夏の薄暮にうかぶ膝の裏 泉陽太郎
 「初夏」ならではの草木の色や空気の光が「薄暮」に沈んだ時に「膝の裏」が見えてくる。それは人も自分もじっくり見ることがほとんどない部位だ。また膝小僧のようなしっかりした手応えはなく、皮膚もなめらかで柔らかい。「はつなつ」「はくぼ」「ひざのうら」のゆったりした韻律と共に寄る辺ない後ろ姿が見えてくる。半ズボンの少年だろうか。「膝の裏」を見る人物もまた寄る辺なさをこらえて「薄暮」に佇んでいるかのようだ。

射的して妻まつ朝顔市のなか 荻谷修
 銃口に詰めたコルクの弾を当てて景品を棚から落とすのが「射的」だ。一人でヨーヨー釣りをする大人をお祭りで見たことはないが「射的」ならば私も意地になって飲み代をつぎ込んだことがある。掲句の「射的」は時間つぶしのようだ。その理由は「妻」である。張り切って歩き回るのが子供や孫ではなく妻というのがいい。実利や実用だけではない暮しぶりが伝わる。句跨りが後半を「朝顔市の/なか」と読ませて「朝顔市」ならではの賑わい、なつかしさが作品空間を充たしてゆく。

万緑やただ直立の別れあり 近藤亜沙美
 「万緑」と「直立」ならば樹木との「別れ」を思うが「ただ直立」とは何だろう。腰や膝を曲げることがない「ただ直立」するだけの「別れ」には非日常性がある。それは万緑の生命力と共に茨木のり子の「わたしが一番きれいだったとき」を思い出させる。「男たちは挙手の礼しか知らなくて/きれいな眼差しだけを残し皆発っていった」。潔い別れには、かなしみが宿る。

他人とは思へぬ犬や夏至の夜 菅原春み
 誰かの風貌や言動などから「他人とは思へぬ」気分になることはある。だが掲句の場合、相手は何よりも人ではない。犬である。「他人とは思へぬ犬」は何とも奇妙な感覚だ。それでも犬の表情や佇まいに自分と通い合う何かを感じているらしい。西洋では「夏至の夜」にキリスト教以前からの古い言い伝えやおまじないが残っているという。その不思議な力が掲句にも宿っているようだ。

白湯のごと祖父の正調ゆすらうめ 松本勇二
 水を一度沸騰させ、ある程度まで冷ました「白湯」には体に良くて飲み飽きないというイメージがある。また「正調」は「歌の正しい調子」「古くから歌われてきた調子」だという。民謡などの「正調○○節」である。そんな「祖父の正調」なのだ。ことさらに目立つことをせず物足りない気さえする「祖父の正調」かもしれないが、そこには風潮や他者の評価におもねることのない人としての清潔感がある。この不器用とも飄々とも感じられる世界に「ゆすらうめ」が点る。つやつやした小さな赤い実は「白湯」「祖父」に対する視覚的な効果だけではなく、その果肉の柔らかさ、薄味のさくらんぼのような風味も含めて「祖父の正調」に軽い驚きをもたらす。

向日葵の正しく生きて棒暗記 山谷草庵
 まっすぐ明るく元気に立つ「向日葵」の姿を「て」が屈折させる。丸ごと全部「暗記」する丸暗記に比べて「棒暗記」には文章の意味を考えないという感覚が含まれている。「正しく」と信じるゆえの危うさを示唆しているようだ。
 かつて詩人の金子光晴は「健康で正しいほど/人間を無情にするものはない。」(「反対」)と記した。

水力発電所 ほーたる発電所 横山隆
 利根川の源流がある内陸部の群馬県には山間地帯から平地までダム式、水路式あるいは両方を使った大小の「水力発電所」がある。とはいえ、それらの水辺に「ほーたる発電所」は存在しない。空白の一字は実から虚へと作品世界を転換させる。虚の発電所のあえかなる光は、それと相容れることのない現実の「発電所」―私たちが制御しえない「原子力発電所」を浮かび上がらせる。「ほーたる発電所」の電力は私たちに思考と想像をうながすエネルギーなのかもしれない。

◆金子兜太 私の一句

富士を去る日焼けし腕の時計澄み 兜太

 俳句初学の頃、所属誌連載「俳句の中の青春」で採り上げた印象鮮明な句。土地への挨拶の心も籠もり、繊細さを持ち合わせた豊かさは、若き先生の人間の魅力そのものでもある。未来へと「今」を刻む「時計」の、八時一五分・広島、一四時四六分・東日本大震災で歪んだ「顔」に打ちのめされても、健やかな時間へと遡る再生の力をこの句から頂く。句集『少年』(昭和30年)より。鈴木修一

わが猪の猛進をして野につまづく 兜太

 太陽神のように光り輝いていた師は、句ごころを交信し続ける天狼になった。ありのままを作句し、何人の句も、ありのままに受け止める。そして、よく笑う。師の虎のような忍耐力、猪のような無邪気さ、狼のような野性、犀のような愛ある目力、そして、羊毛のような髪を持つ人間臭さなどの全てを励みに俳句への探求心を深めていけたら幸いです。句集『百年』(2019年)より。三浦二三子

◆共鳴20句〈9月合併号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

木下ようこ 選
老人の座り切れない白詰草 上野昭子
藤棚の下にひっそり赤ん坊 榎本祐子
業という八十八夜のオルゴール 奥山和子
判子屋のチャイム感度がすかんぽ 加藤昭子
触れるもの何かのかけら磯遊  川崎益太郎
家族葬にしないでと父柳絮飛ぶ 楠井収
○キャベツまだはがしたりない誕生日 こしのゆみこ
目がうすい?耳がとおい?けっこう郭公 小林ろば
○ひまわりの中で一人で大笑い 重松敬子
さえずりや回想という乗り物ゆれ 芹沢愛子
枕の中の星が溢れて明易し 髙井元一
目隠しのほどける僕と春の鹿 高木水志
家族三人夏三日月がひとつだけ 田中信克
憲法の青さよ桐の花咲いたよ 中村晋
白花黄花津軽豊かな胸である 藤野武
底なしの放心へひなあられポイポイ 堀真知子
塩ふってトマト信じるは難し 三浦静佳
ゆうがおは電話いきなり切られた顔 宮崎斗士
歯を磨くやう人戦さ鳥は恋 柳生正名
いまは深い自然薯やまいものことのみ思へ 横山隆

十河宣洋 選
踊るようくちなわ森番のハモニカ 綾田節子
宵待草人生にかなを振って明日 伊藤清雄
自分の中の他人が寝ている緑蔭 井上俊一
鴎かもめみんなが春の言葉です 大沢輝一
照準の中に三人たんぽぽ黄 奥山和子
田水張る頃床下に潜水艦 刈田光児
○怒らない兄が炬燵になっていた 河西志帆
○キャベツまだはがしたりない誕生日 こしのゆみこ
連翹満開ごしゃまんとピカチュウ 小林ろば
晩春は月面に似てぽこぽこす 近藤亜沙美
群衆というたいらな背中春の雨 佐孝石画
マスク外す開かずの間でも開けてみる 佐藤博己
カレンダー思いっきり剥がすと夏 重松敬子
手のひらに日差しの重さ蝦夷五月 たけなか華那
海月浮く薄い下着を脱ぐ途中 月野ぽぽな
適当な相槌ばかりねカッコウ 中村道子
走り梅雨家に染み着く五体かな 仁田脇一石
大の字に犬のふぐりと宙見つめ 藤好良
薄目して春はマネキンになりきる 村上友子
みみたぶのように金魚と雨の午後 望月士郎

滝澤泰斗 選
黄砂襲来今朝はJアラートの嵐 石川青狼
人類に核とふ踏み絵諸葛菜 伊藤巌
G7ヒマだしタダだし土産つき 植田郁一
知らず知らず戦前の風母子草 大髙宏允
大統領 禎子の声が聞こえますか 岡崎万寿
○怒らない兄が炬燵になっていた 河西志帆
古希の友みな無冠なり啄木忌 齊藤しじみ
九条が風の野を行く遊ぼうか 三枝みずほ
憲法記念日防人歌を読み返す 佐藤博己
○ひまわりの中で一人で大笑い 重松敬子
平和とは見渡す限り麦の秋 篠田悦子
昨日の嘘責めたてるごと蛙鳴く 清水恵子
あいねくらいね那覇とムジーク霞む すずき穂波
春泥や考えぬ練習つむ日本 芹沢愛子
地の塩の青むや春の悲しみに 高木一惠
新樹光聖アッシジに鳥や栗鼠 田中亜美
原子炉に風炉と清濁呑みし国 野口思づゑ
花吹雪なべて戦場埋め尽くせ 野﨑憲子
桜桃忌くよくよする父しない母 三好つや子
聖五月本流は言の葉の光り 村上友子

三浦静佳 選
花アカシア涙壺売る骨董店 石川義倫
彼岸かな今や平穏が奇跡のよう 植竹利江
藤の下うはさ話はできぬなり 鵜飼春蕙
つい隠す自分の生真面目夏燕 大池桜子
同席の目礼たたむ春ショール 加藤昭子
訳ありと聞けば飼いたくなる金魚 河西志帆
過去形のお喋りが飛ぶ花筵 志田すずめ
腕が出て駐車券とる青葉若葉 菅原春み
口笛で始まる曲や夏隣 ダークシー美紀
日に何度バラの蕾を見に行くの 髙尾久子
蜘蛛の手足ドラマーのようフル使い 高橋明江
植田行く車窓忽ち季語の国 田中裕子
戦まだ止まず噴水うずくまる 月野ぽぽな
慰霊の夏坂本九よ御巣鷹よ 鳥井國臣
音の無い鉄橋緑夜の紙芝居 中野佑海
失語症のわれを癒せよ鶯よ 新野祐子
孫とおそろいイージパンツの夏が来た 野田信章
まだねむい窓ならそら豆スープなど 三世川浩司
花かたくり筆談のまず「ありがとう」 宮崎斗士
遍路仕度外反拇趾の爪を切る 山本弥生

◆三句鑑賞

キャベツまだはがしたりない誕生日 こしのゆみこ
 春の柔らかいキャベツだろうか。まだはがしたりない、なんてなかなかやんちゃな感じで明るい。まだまだこれからですッ、と前向きである。そこへ、誕生日。おや?オトナは誕生日に過去を思う。作者は今まで纏ってきたものを、少しずつ少しずつはがし始めたのかもしれない。まだはがしたりないな、目指すは軽やかな素の自分。

家族三人夏三日月がひとつだけ 田中信克
 淡々とした景ながら、夏の、それも三日月であるところが美しい。家族三人が今一緒にいるのか、あるいはばらばらなのか。どのような組み合わせの家族なのか。様々な物語が浮かぶ。言えることは、誰でも必ず三日月をひとつ持っていることだ。寂しさも少し感じさせながら、同じひとつの月を見るその連帯が嬉しい。

ゆうがおは電話いきなり切られた顔 宮崎斗士
 茉莉花・夕顔・烏瓜の花、夕方から咲く花は静かに人の心を騒がせる。咲く姿をいったい誰に見せたいのか。……ま、人間ごときが余計なお世話である。
 ゆうがおは電話をいきなり切られた顔をしております。僕の大事なゆうがおは今しょんぼりしていますが大丈夫。秋の夕顔の実ってけっこう大きいし。取り合わせの新鮮さにウットリしました。
(鑑賞・木下ようこ)

田水張る頃床下に潜水艦 刈田光児
 初夏の爽やかな頃の仕事。田植えを控えての田水を張る。いい気分で仕事をしている。
 この頃になると毎年、家の床下に潜水艦が浮上してくる。今年の豊作を予言するように潜水艦が潜望鏡を蟹の目のように上げて、静かに姿を見せる。楽しい予言をしてくれる。これくらい心の余裕があっていい。

群衆というたいらな背中春の雨 佐孝石画
 春の雨の中を黙々と歩く群衆が見える。傘をさして黙々と会社へ急ぐ群衆の背中は平らだという。少し小高いところから見ている。ビルの窓から見ていてもいい。
 群衆の目は少しうつむき加減で、歩くスピードは少し早い。信号で止まってはまた一斉に歩きだす。無秩序のように見えて秩序がある。鋭い作者の眼を感じる。

適当な相槌ばかりねカッコウ 中村道子
 こういう楽しい作品がもっとあっていい。構えた作品の中で私の琴線にとまった。と言っては大袈裟だが。
 郭公が鳴くと豆を蒔いていい。私の地方の一つの農作業の目安である。初夏の空気を明るくしてくれる郭公である。適当な相槌のように聞こえるがそうでもない。大切な声である。相棒も大切な相槌を打っている。
(鑑賞・十河宣洋)

G7ヒマだしタダだし土産つき 植田郁一
大統領 禎子の声が聞こえますか 岡崎万寿
 G7広島サミットを詠んだ句が並んだ。岸田内閣のお家芸「やってるふり」の際たるNATO連合の茶番を見事に活写した植田さん。そして、岡崎さんは静かに問う、「大統領、佐々木禎子さんはあなたの国が落とした原子爆弾で亡くなりました」。みんな頭を垂れて祈っているふりを冷徹に見ている。

平和とは見渡す限り麦の秋 篠田悦子
 1977年夏、飛行機でキエフに入った。その時の上空から見た大地いっぱいの麦畑が忘れられない。ウクライナの麦はワルシャワ条約機構の要だった。飢えない平和の要諦だった。しかし、自然は残酷だ。ここに高温と乾燥が襲い、ワルシャワの結束は緩んでいった。そして、今度は人間が爆弾を落として荒らしている。

あいねくらいね那覇とムジーク霞む すずき穂波
 我が高校時代は英語で精いっぱい。とてもドイツ語までの余裕なく、掲句のごとく遊んだ……「愛ねぇ暗いねナハっと無慈っ非」などと……言葉遊びに理屈を言う気はないが、那覇と来て、霞むで鑑賞を書く気になったことは間違いない。言葉遊びは楽しい。
(鑑賞・滝澤泰斗)

腕が出て駐車券とる青葉若葉 菅原春み
 駐車場に入る時駐車券が出てくる。何台か後ろで待っていると前の車から人の腕が出て駐車券を取って進む。また、次の車から腕が出る。いつもの駐車場の景のようであるが、でも面白い。このような切り取り方を作句のお手本にしたい。買物かな、コンサートかな、と、うきうきするのは青葉若葉の効果と思う。

植田行く車窓忽ち季語の国 田中裕子
 作者は宮城県の方。電車だろうか、車窓からはいちめんの植田。田んぼには棒立ちの白鷺がいて植田に対峙して大空がある。次々と移り変わる車窓の風景。雲、風、そして太陽。お友達との吟行ならことさら愉しいことだろう。植田を中心に据え、車窓が季語の国だと断定した表現に共感を覚えた。

花かたくり筆談のまず「ありがとう」 宮崎斗士
 人は意思を伝えるための手段として筆談を使うことがある。身の不自由に寄り添ってくれる筆談。「ありがとう」の取り持つ両者の良好な関係が窺われる。花かたくりは、可憐な中に強さを持っている。踏まれても雨に打たれても次の年また仲間を増やして観る人を癒やしてくれる花。一句に、季語がとてもいい働きをしている。
(鑑賞・三浦静佳)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

弟かも知れぬほうたる私す あずお玲子
バベルの塔一瞥もせぬ蟻の列 有馬育代
生き死に言わず夏の星座を引っ裂くよ 飯塚真弓
脊梁山脈さみしいと言へ月見草 石鎚優
純情な触角引き合ふ草いきれ 伊藤治美
スマホを探す自分に舌打ちそんな夏 遠藤路子
卯の花腐し形有るものに惑ふ 大渕久幸
空蝉や我が身の内にゐる他人 小野地香
万緑の森立ち枯れの木の誇り かさいともこ
ビートルズ終戦記念日に落とす針 齊藤邦彦
年寄りに旗日は不用深昼寝 佐々木妙子
坪庭に京の美の壺夏座敷 島﨑道子
蝉の殻血を吐くように言葉吐く 清水滋生
さびしらやからだの奥に秋夕焼 宙のふう
原爆ドーム茜射す時なほ燃える 立川真理
辺野古へと浅黄斑は行くだろう 藤玲人
青柿落つ他界とはどこだろう 中尾よしこ
死ななくても良い七月の風を得て 福岡日向子
まず音符こぼれ睡蓮ひらくかな 増田天志
夏来る大阿蘇に雲一万トン 松岡早苗
なんじゃもんじゃの花墓だって発掘 松﨑あきら
校長と出くはす熱帯夜のスーパー 丸山由理子
凍星はきっと透明な舌触り 村上舞香
何もかも空っぽにして浮いて来い 横田和子
ニッポンがしづかに消える夏ある日 吉田貢(吉は土に口)
朴の花心に薄い傷ありて 吉田もろび
ローム層にメトロポリス天に旱星 よねやま麦
水入れて直ぐに鳥来る夏来る 路志田美子
さがしものをいつも探して母薄暑 わだようこ
頂上に心の臓炎ゆピラミッド 渡邉照香

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