『海原』No.26(2021/3/1発行)

『海原』No.26(2021/3/1発行)

◆No.26 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

母が来るリュックありったけの十月 綾田節子
白秋や被爆ピアノの喫茶室 石川まゆみ
未完なる冬の俳句に尾行さる 市原光子
みぞおちの苦いくらがり鳥渡る 伊藤淳子
竹の春むだ話したかったのに 大髙洋子
銀杏を拾う秘密を分かつため 片岡秀樹
白湯冷ましつつ洎夫藍の真昼濃し 川田由美子
鶴渡る短い童話書けそうな 北上正枝
曼殊沙華全部ひそひそ話かな 小松敦
銀杏散る詩を口ずさむはやさにて 三枝みずほ
切り岸は父の背であり夕野分 佐藤君子
十六夜の仮設派出所影動く 清水茉紀
エスプレッソに男の匂ひ小鳥来る すずき穂波
芋虫のひんやり鼓動つまみあぐ 高橋明江
銀色のおりがみに顔ゆがんで冬 月野ぽぽな
ハロウィンの渋谷細身の托鉢者 董振華
倒立の少女に火星冬支度 遠山郁好
和菓子屋灯り金木犀のカルテット 中野佑海
除染とは改竄である冬の更地 中村晋
ブーケトス継ぐに樺太鱒遡上 並木邑人
小春日やただ三食を作りて過ぐ 西坂洋子
里芋のぬめりのように母と娘は 根本菜穂子
コロナ禍や秋夜繰り出す基地の兵 疋田恵美子
舞茸の歯ざわりミステリアスな家族 本田ひとみ
コロナ禍やアマビエの絵も夏のシャツ 三木冬子
点訳の童話がひらく星月夜 望月士郎
ポインセチア感情過多で電話魔で 森鈴
文庫本ほどのジェラシー秋桜 梁瀬道子
亡母を訪う旅の途中の一位の実 横地かをる
貴腐ワインふと私の死に化粧 若森京子

高木一惠●抄出

死ぬ気のしない聲の幻二月来る 有村王志
立冬の月を取り込む換気かな 石川青狼
栗ご飯コロナ禍だけど雨だけど 石橋いろり
優しさは昨夜の氷柱もういない 泉陽太郎
伊勢型紙流星の色放ちけり 稲葉千尋
どこも消毒柿何連も何連も 奥山和子
穭田や最終章の序章かも 川崎益太郎
熟柿透く孤独の果てるところまで 河原珠美
俺っぽくない証明写真木の実落つ 楠井収
受話器より病状淡々やもり消ゆ 黒済泰子
日あたりのよい友といてレノンの忌 こしのゆみこ
そこにある太陽林檎齧るなり 小西瞬夏
レノン忌ややけにあかるいな人が 三枝みずほ
十二月大石小石がごろごろ 鈴木孝信
このきのこ毒と決めつけ妻頼もし 鈴木修一
鳥渡る会釈のように腹を見せ 十河宣洋
草もみじ僕の指紋を忘れない 高木水志
芋虫のひんやり鼓動つまみあぐ 高橋明江
ハロウィンの渋谷細身の托鉢者 薫振華
あらがわずしかと暮らせり紅葉山 中村孝史
蛇眠る朽ち葉のぬくみまつろわせ 根本菜穂子
石切唄石の聞き入る秋の暮 野﨑憲子
泡立草美しと老身立ちつくす 野田信章
若者の手足が欲しい高原キャベツ 服部修一
無口で淋しきスイッチのあり鰯雲 藤野武
発想を飛ばしなさいと声小六月 三木冬子
葱の列真っ直ぐ父のいる限り 武藤暁美
稲ぐるま小回りの利く母が居た 武藤鉦二
すすきかるかやたましいが過呼吸 室田洋子
点訳の童話がひらく星月夜 望月士郎

◆海原秀句鑑賞 安西篤

母が来るリュックありったけの十月 綾田節子
 母が久しぶりに田舎から訪ねて来た。おそらくは新居を構えた娘の家を見がてら、娘夫婦としばらくぶりの対面の時間を楽しみたいという気持ちからだろう。時は十月、収穫期の故郷の幸を、ありったけリュックに詰め込んで、勇んでやってきたに違いない。「リュックありったけ」にその意気込みが伝わる。肝っ玉母さんを思わせるような、古き良き時代の親子像が浮かび上がる。

未完なる冬の俳句に尾行さる 市原光子
 この句を読んで、俳句つくりなら誰しも、アルナアと腑に落ちるものを感じるにちがいない。昨日あたりから仕掛かったままの句がひっかかって、なかなかまとまらない。ままよとばかり外に出て、他のことに気を紛らわせようとしても、その一句に尾行されているかのように頭を離れない。そこでまた鉛筆をなめることになるのだが、相変わらず完成することのない袋小路に入ったまま。

鶴渡る短い童話書けそうな 北上正枝
 鶴渡るは鶴来ると同様、秋シベリアから渡来する鶴の群れ。鶴は家族や仲間たちと一緒に来るから、たどり着いたばかりの鶴たちの所作に、どこか長旅の思い出やこれからの仲間同士の暮らしの話題がたえないような感じ。その鶴の群れの鳴き声に、作者は短い童話のヒントがもらえそうな気がしたという。それは、作者のアニミスティツクな共感から呼びさまされた創作意欲にちがいない。

十六夜の仮設派出所影動く 清水茉紀
 福島の被災地は、もう十年になろうとしているのに、未だ復興の歩みは遅々としている。この句の景でも、かつての駐在所が仮設派出所のままで、おそらくは巡回の頻度も少なく、派出所に人影が動くことも稀なのではないか。十六夜の月が、まさにいざよう感じでおづおづと上るとき、ふと仮設派出所に人影が動いた。それはその地域にとってのささやかな救いの影とも見えたのだろう。

和菓子屋灯り金木犀のカルテット 中野佑海
 おそらく作者地元の老舗とみられる和菓子屋が、珍しく夜まで店を開いていたのだろう。店の前に金木犀が四本ほど並んでいて、店の灯りに唱和するかのように、花をつけている。その有様を「金木犀のカルテット」としたのだ。そのカルテットを、あたかも老舗への応援歌を奏でているように見立てている。それは作者自身の思い入れをも映し出しているのではないか。

除染とは改竄である冬の更地 中村晋
 この句も、被災地フクシマの現実を詠んでいる。原発被害による放射能の除染は遅々として進んでおらず、更地にしたことだけで除染作業は終わったかのように、表面を取り繕って事足れりとしている。それはまさに、除染という名の改竄であると作者は告発する。福島在住の人ならではの現場感覚だ。今の日本の社会の現実を見据えた社会性俳句である。

ブーケトス継ぐに樺太鱒遡上 並木邑人
 ブーケトスとは、花嫁がウエディングブーケを未婚の女性に投げることで、受け取った女性は次に結婚ができるといわれている。つまり幸せのお裾分けをすること。樺太鱒は秋に産卵のため川を遡上するとき、魚体を婚姻色に染めて雄を誘う。句意としては、ブーケトスの縁起を引き継ぐように、樺太鱒は川を遡上しているよというもの。ブーケトスを樺太鱒の遡上と取り合わせて、季節の祝婚歌とした一句。

舞茸の歯ざわりミステリアスな家族 本田ひとみ
 舞茸は、風味豊かで歯ざわりもよく、炒め物、ソテー、てんぷらなど、多彩な料理の食材として広く使われる。何にでも合わせられるし、他の食材の引き立て役にもなる。ミステリアスな家族と舞茸の歯ざわりは、一見何の関係もないように見えるが、どこか融通無碍に合わせられる舞茸のような家族とみれば、それこそミステリアスなまでに平和な家族関係とも見られよう。

ポインセチア感情過多で電話魔で 森鈴
 ポインセチアは、十二月頃、茎の先の緑の苞葉が鮮紅色に変わり、美しい観葉植物となる。猩々木の名もある通り、真紅の葉の激しいまでの存在感は、冬の花の中でも抽んでている。掲句は、ポインセチアに喩えられる現代風女性像の一典型を描いている。即ち「感情過多で電話魔」、どこか小悪魔的な女性像は、社会人女性の中によく見られるものかもしれない。

文庫本ほどのジェラシー秋桜 梁瀬道子
 「文庫本ほど」といわれても、五百頁を越す大著もあれば、百頁そこそこの薄手のものもあって、「ジェラシー」の程度を推し量るのは難しい。だが「秋桜」とあるからには、まあ二百頁か、せいぜい二百五十頁までの標準本とみてよいだろう。川柳の「女房の妬くほど亭主もてもせず」というところながら、女房からすれば到底許せないところまで来ているのかもしれない。

◆海原秀句鑑賞 高木一惠

死ぬ気のしない聲の幻二月来る 有村王志
発想を飛ばしなさいと声小六月 三木冬子
 天下の魁の梅の便りと共に兜太先生の忌日を迎える。先生九十五歳の談話「私はどうも死ぬ気がしない」は著書の標題ともなった。わが座右の『戦後俳句日記』にも御声は満ちているが、やはり肉声は格別である。

立冬の月を取り込む換気かな 石川青狼
 発想を飛ばす…換気換気と心がけても、作者の在地では生やさしいものではなかろう。新型コロナ禍のそんな現場に古典的な詞華「月」を取り込んだ。巧まずにそれができる俳諧精神。日頃の鍛錬の賜物と思われる。

熟柿透く孤独の果てるところまで 河原珠美
 樹上の熟柿に目白の番いが来て、毎日少しずつ実を啜り、やがて啄む影が透けて見えるようになり、とうとう皮一枚、はらりと地に落ちた。

穭田や最終章の序章かも 川崎益太郎
あらがわずしかと暮らせり紅葉山 中村孝史
 小林秀雄が古希の心情を「死は問題として現れるのではない、手応えのある姿をしている。世の移り変わりより、我身の変化の方に切実なものがある。」(講演「生と死」)と話している。然りとしても如何ともし難し。眼を転ずれば、穭田も紅葉山も終章の今を精一杯生きている。

葱の列真っ直ぐ父のいる限り 武藤暁美
稲ぐるま小回りの利く母が居た 武藤鉦二
 高く盛土した葱の畝の列に、畑主の丹精の跡が見える。刈り稲を稲架のある畦まで運ぶ稲ぐるま。でこぼこ道をうまく回して、よく働く母上がいた。私の母も敏捷な人だったが、頑張りすぎて三十代で逝ってしまった。

石切唄石の聞き入る秋の暮 野﨑憲子
 作者が高松市の石の資料館(庵治石が名高い)で聴いた石切唄は哀切な調べだったというが、「見たか聞いたか山寺名所/慈覚大師の開山だ」など、職人が各地を移動して全国に広めたようだ。建築家の隈研吾が角川武蔵野ミュージアムの外観に石を選んだのは、古代からの信仰対象である「聖なる岩」を復活させる為とか。高千穂町の天岩戸の近くには石切場の跡があるそうで、天鈿女命を踊らせたのも石切唄だったか。石に尋ねてみたい。

すすきかるかやたましいが過呼吸 室田洋子
 過呼吸するのが「たましい」とまで思い入れて、現つを生きる苦しみを詠んだのかもしれないが、若山牧水の〈吾木香すすきかるかや秋くさのさびしききはみ君におくらむ〉を心とした想夫恋の句とも解される。
 実は「かるかや」で先ず思い浮かべたのは懐かしい石童丸と苅萱道心の物語で、説教節や浄瑠璃に登場する「かるかやどうしん」の音の響きに、仏法で名告り合いを禁じられた父子の話が重なって、ずっと心に残って来た。苅萱の穂は花薄のように美しくはないけれど…。

草もみじ僕の指紋を忘れない 高木水志
 草の葉はそれぞれの葉脈がそれぞれに指紋を持つように紅葉してゆく。そこに掲句の作者の自意識も見えると、千葉句会の山中葛子評を伺い、読みの深さに感服した。草紅葉と親しく交感する作者の立ち位置は、〈不来方のお城の草に寝転びて空に吸はれし十五の心〉の啄木に似ているようで、大きく異なると思う。「僕を忘れない、僕も忘れない」と、この交情を忘れないで。

日あたりのよい友といてレノンの忌 こしのゆみこ
レノン忌ややけにあかるいな人が 三枝みずほ
 ビートルズの中心メンバーだったジョン・レノンが撃たれて亡くなったのは一九八〇年十二月八日。太平洋戦争開戦日の三十九年後である。一昨年、中国武漢で最初に確認された新型コロナウイルス感染者の発症日も十二月八日だったとか。――想像してみて、みんなが全世界を共有しているって――「イマジン」の歌詞が蘇る。

点訳の童話がひらく星月夜 望月士郎
 月の無い夜に満天の星が輝いて見える星月夜。点字の表は一見星月夜のようでもある。新月を前にした師走半ば、双子座流星群を見ようと半纏にくるまりベランダに出たり入ったり。月が出ると星影が薄れるのを実感した。宮城道雄の箏曲「春の海」は歌会始の勅題「海辺の巖」にちなみ作曲されたが、七歳の頃に失明したというから、ほとんど想像の海を奏でたのであろう。そんな世界に少しでも近づきたくて、『スーホの白い馬』や『もみの木』等々、寝しなに童話の朗読を聴いて感動した。光を知らぬ読み手にも、この星空が輝きますように!
 俳句はどうか。時に幽玄の境を見せる星月夜の詩韻に迫るにはどうすればいいか考えた。写生と言い具象化と言い、結局は常と変わらぬのだと思い至ったが、只今の逼塞の世では、果敢な心情吐露よりも、連句で言えば人情抜きの「場の句」の類をこの星月夜は好むのではないか。兜太先生の〈おおかみに螢が一つ付いていた〉も場の句である。きっと星月夜になれると思う。

◆金子兜太 私の一句

差羽帰り来て伊良湖よ夏満ちたり 兜太

 平成15年、「海程」の全国大会が伊良湖で行われた、その時兜太師が作られたのが掲句。風光明媚な伊良湖岬にこの句を句碑として残そうと、さっそく石さがしがはじまった。ある夏の暑い一日、故森下草城子氏、故北川邦陽氏、故山口伸氏を乗せて私は運転手として同行、岡崎の石工団地や石屋を何軒か訪ねまわる。そして無事に平成17年に句碑が完成した。差羽の句とともに忘れられない思い出です。句集『日常』(二〇〇九年)より。井上俊一

洋上に硫黄島見ゆ骨の音も 兜太

 この句はまさに、ミャンマー・オークデビジャンへの慰霊の旅に重なる。そこは、父が銃創と破傷風により戦病死した野戦病院があった森。未だ紛争地域であるため近づくことは許されず、森を遥かに望むシッタン河の竹の吊り橋から遙拝した。吊り橋は心細く揺れ、軋みつつ音を立てた。それは父たちの骨の音だったのだ。その骨は未だ帰ってきていない。句集『百年』(二〇一九年)より。谷口道子

◆共鳴20句〈12月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

伊藤道郎選
○秋風を咥え手足の自由律 市原光子
隧道の中の滴り独り者 榎本祐子
黒い雨滲んだ産道蝉絶唱 大上恒子
少年を覗けば蛍袋かな 小西瞬夏
八月の真白き紙に感電す 三枝みずほ
夏草の指先午後の余白かな 佐孝石画
塩狩峠夕日も汽車も半ズボン 佐々木宏
葛藤の端っこに来る赤とんぼ 佐藤詠子
蚯蚓鳴く胎内という真暗がり 白石司子
秋の蝶顕つやその戸を閉めてより 田中亜美
遠まわりをして花野に濡れにゆく 月野ぽぽな
水面から忘れはじめる遠かっこう 遠山郁好
六月のぐずぐず赤ちゃんの重さ ナカムラ薫
無医村と知りて緑を濃く思う 中村孝史
流星の舳先に腕を組み少女 水野真由美
○模型屋に時の種あり天の川 三好つや子
少年の刺し合う視線夏運河 村本なずな
言ふなれば独り身のプロ冷奴 柳生正名
九月の図書館何故か耳たぶやわらかき 山内崇弘
あの世とは水平感覚つくつくし 若森京子

加藤昭子選
○秋風を咥え手足の自由律 市原光子
ペン先になかなか死なぬ夜の蟻 榎本愛子
○蚯蚓鳴く聞き流すのも思いやり 江良修
人想う一本 いつしか草の花束 柏原喜久恵
みかんの花考えたことない母との距離 黒岡洋子
少年の水になりゆく平泳ぎ 佐々木香代子
烏揚羽父なる森のくろを被て 篠田悦子
這う母とカサブランカを見ておりぬ 清水茉紀
八月をたどる折鶴ひらくよう 芹沢愛子
今日生きる作法の一つ草を引く 髙井元一
青柿のまだという明るい期待 高橋明江
書くという感情夜のかたつむり ナカムラ薫
○小さくともたしかな言葉トマトの花 中村晋
○炎天をくちゃっと洗いマスク干す 丹生千賀
○月明り水色の声だけ掬う 松井麻容子 
父の名をマスクの中で秋彼岸 松本勇二
母の目に力まだまだ茄子が咲く 宮崎斗士
○模型屋に時の種あり天の川 三好つや子
老いも海月も流るるという遊び 武藤鉦二
母を看てそのあと金魚見て駅へ 望月士郎

董振華選
○蚯蚓鳴く聞き流すのも思いやり 江良修
夕凪にサーカス小屋の仄として 大髙洋子
さらさらさら秋の水リハビリの掌に 大谷菫
八月の雲と語りて幾十歳いくとせか 岡崎万寿
蜻蛉のひとふるえして向きを変え 川嶋安起夫
鬼灯が真っ赤な嘘を吐き出した 後藤岑生
胸像の胸襟開く残暑かな 齊藤しじみ
夜の金魚凶器のように愛のように 佐孝石画
親の顔見たいだけなの芋虫飼う 篠田悦子
叱声は控えています花むくげ 鈴木栄司
雨音の途絶えし闇の蚊喰鳥 関田誓炎
明り消し住処たちまち虫しぐれ 田中怜子
凸凹と育つ夫婦の晩夏光 中野佑海
○小さくともたしかな言葉トマトの花 中村晋
○月明り水色の声だけ掬う 松井麻容子
かいつぶり奈落覗いてきた白目 松本勇二
死にどころはどこでもいいよ波音あらば マブソン青眼
狗尾草母と哀しくくすぐり合う 望月士郎
生き方のこだわり捨てて半夏生 森由美子
秋茄子や夫が猫背に厨ごと 柳ヒ文

室田洋子選
さらば夏 帽子を投げてみたけれど 伊藤幸
白さるすべり氏神に見す肢体かな 稲葉千尋
まず笑えそして一人で夏を越せ 大野美代子
歩み寄る露草の色生きるいろ 刈田光児
今すっと流れゆく冷え草の絮 北上正枝
滝しぶき嗚呼ときれいになる眼 北村美都子
秋茜耐えるおとこは夫である 小池弘子
てのひらに檸檬の匂う別れかな 近藤亜沙美
天性の農夫凜々しく夕端居 佐藤紀生子
雲流るるか夏果ての樹々くか 鈴木修一
ため息は肺にいいのよ草の絮 すずき穂波
マスクしてみんな匿名きつねのかみそり 芹沢愛子
夫に作るサラブレッドの瓜の馬 高橋明江
濁流を語りし時に遠花火 舘林史蝶
ぽっかりと花野にわたし置いてきた 月野ぽぽな
遠き日の夢の瘡蓋破れ蓮 寺町志津子
○炎天をくちゃっと洗いマスク干す 丹生千賀
はつなつの鷹に逢ひたし拗れたし 松本千花
晩夏光母はアンネと同い年 村松喜代
無花果熟れ乳房満ちくる心地して 森鈴

◆三句鑑賞

隧道の中の滴り独り者 榎本祐子
 独特な視線を感じる。隧道は昏くて気味の悪い異界。天城隧道を歩いたことがある。ひんやりとした暗闇に心拍数が上がる。水の豊かな森の隧道は滴りが落ちてくることがよくある。滴りが首筋を伝うときなどなんとも言えぬ恐怖が身を過る。闇にひとり放りだされる恐怖。その恐怖の感覚は、明りが氾濫する都会の孤独にも通じる。

黒い雨滲んだ産道蝉絶唱 大上恒子
 黒い雨裁判があった。国はいまだ被爆者を救済しようとせず、その姿勢に憤りを感じる。「黒い雨滲んだ産道」は被爆二世の誕生を言っているのであろう。この凄まじい表現は被爆した母子のかなしき怒り。そして戦後、差別という過酷な人生を強いられた被爆者たちの声は「蝉絶唱」という胸揺さぶる措辞で締めくくられる。

少年を覗けば蛍袋かな 小西瞬夏
 少年と蛍袋の取り合わせは新鮮。蛍袋は風に揺られて清楚で夢見るよう。しかし、雨風に翻弄される日も。少年はと言えば森羅万象何にでも興味、関心を持つ。そして阿修羅像のごとく様々な表情を見せ、時に走れメロスのように友情と非情を知る。少年期という一瞬だからこそ、光と影にとても敏感。蛍袋は少年を秘めている。
(鑑賞・伊藤道郎)

人想う一本 いつしか草の花束 柏原喜久恵
 作者は花野に立っている様に感じた。いろいろな花が咲き誇る中で、身の回りを過ぎて行った人達を思い起こしている。離れて暮らしている人、亡くなった人を一人一人思い出し心を寄せている時間の経過が、一マス空けに表出されていると思う。一本摘み、又一本摘み花束となる。花束の重さが作者の優しい心根のように思える。

母の目に力まだまだ茄子が咲く 宮崎斗士
 「目力」という言葉がある。目に精気があることは生きて行く気持ちが強いということだ。母は老いて、もしかしたら病床にあるかも知れない。歩けなかったり、喋れなかったりとしても、目はしっかり作者を見つめてくれる。「まだまだ」が上五・下五に掛かり母の気丈さに安堵する。無駄花が無いという茄子の花が前向きで良い。

母を看てそのあと金魚見て駅へ 望月士郎
 朝の介護の景と受け取った。出勤前、母親の面倒を見る。身体介護となると大変と思う。思いやる気持ち、言葉は母にとって、今日一日を心穏やかに過ごす力となる。母を看た後、金魚の世話。情景を淡々と描いてあるが、その分介護に慣れてしまった時間の長さを思わずにいられない。次の句にも引かれた。〈狗尾草母と哀しくくすぐり合う〉
(鑑賞・加藤昭子)

小さくともたしかな言葉トマトの花 中村晋
 地位が低くて、言うことも重んじられない。それでも確かな存在感を示している。上五と中七のズバリとした断定は作者の自信たっぷりとした姿が目に浮かぶ。また、黄色い小さなトマトの花は至って地味な印象であるが、よく見ると五枚の花弁を星型に開いてまぶしく感じられる。上の措辞が季語とよく響き合っていて巧妙。

生き方のこだわり捨てて半夏生 森由美子
 七月の上旬、丁度半夏の時期に咲く半夏生は、虫媒花として、より目立ち、魅力的な花にするため、葉を白くしているのである。何事も完璧を求めてきた作者だが、ある時それは不可能だと、ふと気づいた。やはり成り行きに任せて、内気で気儘に生きていく方がずっと楽しい。半夏生のように「情熱を内に秘めて」生きる。

秋茄子や夫が猫背に厨ごと 柳ヒ文
 日本では、旬を迎え美味しくなる「秋茄子は嫁に食わすな」という封建的な家族制度の中から生まれた言葉がある。また、一般的な認識では、男の人はあまり家事を手伝わない、厨事はなおさらである。しかし、我が家では違う。料理を手伝う夫は不器用かもしれないが、自慢の愛妻家である。夫にかける視線に夫婦愛をよく感じとる。
(鑑賞・董振華)

夫に作るサラブレッドの瓜の馬 高橋明江
 お盆の精霊馬。お迎えは早く我が家に帰って来られるよう胡瓜を馬に見立てて作り、彼の世に戻る時はゆっくり茄子の牛で。明江さんはご主人にサラブレッドの瓜の馬を作られた。「これに乗って早く早く帰って来て」ご主人への深い愛情。サラブレッドが何とも素敵でかっこいい。ちょっとの俳味も。

炎天をくちゃっと洗いマスク干す 丹生千賀
 コロナ禍の夏、誰もが経験した日常。とにかく毎日マスク。どこに行くのも何をするにも。それまでも冬や花粉の時期はしていたが、真夏はつらかった。涼しい素材を色々試してみたがやっぱり暑くてうっとうしいのだ。そして洗うのが面倒臭い。くちゃっと洗いに実感がこもる。炎天をも洗ってしまいたい。コロナの収束を祈る。

晩夏光母はアンネと同い年 村松喜代
 調べたら、今年九十一歳になる私の母も同い年だった。「アンネの日記」は娘もその娘も愛読していたので皆で驚いた。遠い歴史の中の人物だと思っていた聡明そうな額の大きな瞳の少女は、今も生きて何の不思議も無かったのだ。あの恐ろしい悲惨な戦争ナチスの迫害が無ければ。晩夏光は挽歌。母も村松さんの母上も健やかなご長寿を。
(鑑賞・室田洋子)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

すこーんとこぐ自転車や秋の暮 有栖川蘭子
幸せなり方しゃらり落葉かな 飯塚真弓
冬麗や女に戻れぬので笑う 植朋子
ロードバイク部屋に飾りて小春かな 梅本真規子
白冬薔薇ならわたしを好きなはず 大池桜子
人参抜くもれなく嘘がついてくる かさいともこ
小春日やほうびに違いないと書く 梶原敏子
疑うと窪でパジャマを着る私 葛城広光
穴惑い昨日の僕と出くわしぬ 木村寛伸
山茶花ほっここは泣いてもいいベンチ 木村リュウジ
紅葉且つ散る白髪混りのポニーテール 日下若名
押印の不要に押印文化の日 後藤雅文
屋根に霜空き家に隣るごみ屋敷 榊田澄子
八月の厄介なわたし捨てにゆく 宙のふう
解体は看取りのように菊師の子 立川真理
着ぶくれて形骸となる詩の破片 立川瑠璃
紅葉且つ散る人間のままでいる 谷川かつゑ
被爆地に住み何処かが冷える 中尾よしこ
ラ・フランス歪な頭の君が好き 仲村トヨ子
学校は大きな吃り冬の空 福岡日向子
囲はれの鸚鵡の窓に小鳥来る 藤井久代
見えない傷深く少女初雪 松﨑あきら
来年は来ぬかも知れぬ小鳥来る 矢野二十四
会計士の黒縁眼鏡焼さんま 山本まさゆき
穂芒やわたしを離れぬ無鉄砲 山本美惠子
祭太鼓が防災無線でやって来た 吉田和恵
やつがくんだ。一角獸がてゐる 吉田貢(吉は土に口)
納骨の現場に届くメールかな 渡辺厳太郎
宵闇や泉下のに吾子かぐはしき 渡邉照香
わが咎を石打つところ大花野 渡辺のり子

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