『海原』No.16(2020/3/1発行)

『海原』No.16(2020/3/1発行)

◆No.16 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

スクラムを押すごと全山紅葉す 石川青狼
蔦かずら女系家族は不滅です 石橋いろり
大花野今泥流のびょうびょう 伊藤巌
鶴渡るどこかに忘れものあるような 伊藤淳子
老いという気儘な不自由根深汁 伊藤雅彦
貌尖り蟷螂つくづく戦中派 江井芳朗
冬薔薇ガラスに映えて余命宣告 岡崎万寿
神留守の少しずれてる鍋の蓋 加藤昭子
紅葉かつ散る不完全燃焼もある 黍野恵
ああそうか君はいないかかなかなかな 楠井収
隠沼や生絹 すずしのような私信受く 黒岡洋子
果肉薄き哀しみ赤し烏瓜 小宮豊和
長き夜や人生訓に付箋貼る 齊藤しじみ
霜の花ことばをそっとしまひけり 三枝みずほ
落人の血を継ぐ吾に石榴熟る 関田誓炎
ときどき蛍ときどき金魚になる姉妹 芹沢愛子
平和とは傍にいること神の旅 高木水志
隊商キャラバンの鈴のごとしよ帰り花 田口満代子
ぽつんと夕日水禍のあとの泥に柿 中村晋
寒梅や生きるに力死ぬに力 丹羽美智子
蕎麦の花兜太師の墓すぐそこです 長谷川順子
海鼠噛むラガーの耳の肉厚し 日高玲
夫婦という単位に戻り草紅葉 藤田敦子
定住や時折り鹿のように鳴き 松本勇二
母はあれから鏡を見ない姫くるみ 宮崎斗士
まるめろのさみしい輪郭をなぞる 室田洋子
ちらほら痴呆ちらほら俳句神無月 森鈴
晩秋はおおきな器透く葉脈 茂里美絵
コスモスの真ん中にいて自由 横地かをる
つるうめもどき遥か炎上の城ありて 若森京子

大沢輝一●抄出
秋刀魚喰う美しい骨だけになる 市原正直
秋は鈴を鳴らして過ぎる旧海軍兵学校へいがっこう 伊藤幸
鰯雲たそがれは水が運ぶよ 伊藤淳子
逆光の背は嘘つきでねこじゃらし 榎本愛子
個人的な事です月を齧っている 榎本祐子
夏の人体空を飛ぶのも仕事です 小野裕三
冬の月真ん中にある迷いかな 奥村久美子
銀漢や誰も降りない駅に立つ 奥山和子
じゃんけんの拳開けば枯野あり 加藤昭子
手渡しのしずけさふっとちちろむし 川田由美子
われもこう風の慚愧の息ずかい 黍野恵
眠るため木を探しゆく十二月 こしのゆみこ
雪が降る生きていてもいいんですか 小山やす子
放射能よ氷雨はもう万華鏡 清水茉紀
ときどき蛍ときどき金魚になる姉妹 芹沢愛子
老獪な獣雪野の俺を視つめけり 十河宣洋
まっすぐに秋思ざさっと鴎 田口満代子
晩秋の断面抽斗引くたびに 鳥山由貴子
鶴来ると村は静かな箱となる 中塚紀代子
茶の花日和母は施設の人となる 中村ひかり
米寿とは他人がそっとささやけり 中山蒼楓
美しい瞳で降りてくるカラス 服部修一
凍蝶の省略というしなやかさ 藤野武
朴落葉たった一人のお弔い 本田ひとみ
秋の時雨なかに弔い置いてくる 松井麻容子
秩父鉄道握手のようだ柿の色 宮崎斗士
一枝さんふと蟋蟀の闇にまぎれ 村上友子
本日終電わたしのものである秋思 六本木いつき
コスモスの真ん中にいて自由 横地かをる
蓑虫に風が母の羅紗の匂い 若森京子

◆海原秀句鑑賞 安西篤

スクラムを押すごと全山紅葉す 石川青狼
 ワールドラグビー人気で、一躍スクラムの肉弾相搏つ迫力が浮かび上がって来た。紅葉するシーズンともなれば、山裾から這い上がるように頂上めがけて紅葉が殺到する。その勢いを「スクラムを押すごと」と捉えた。選手たちの紅潮した肉体がぶつかりあって、渦巻く奔流のようにグラウンド上で押し合う。その力感もまた全山紅葉の勢いに重なると見たのだろう。

冬薔薇ガラスに映えて余命宣告 岡崎万寿
 ごく身近な人か、自分自身に即した余命宣告であろう。高齢化が進むにつれ、癌による死亡が増えているという。日本では死因のトップに位置する病である。また余命宣告もしばしば行われている。余命を意識して終活を早めに用意させるという狙いかもしれない。「冬薔薇」は死の予感を象徴しているのではないか。作品は個人的感想のように書かれてはいるが、むしろ現代の世相の一端を物語っているともいえよう。

神留守の少しずれてる鍋の蓋 加藤昭子
 上五は「神の留守」として、二句一章形式にしたいところ。「神の留守」で一度切って、「少しずれてる鍋の蓋」と取り合わせる形で読みたい。掲句のポイントは「少しずれてる」ところにある。つまり神の留守の間の、やや緊張感を欠いた暮らしの実像が浮き彫りにされるのだ。そこにかえって日常感のリアリティが覗く。

紅葉かつ散る不完全燃焼もある黍野恵
 紅葉の盛りに、紅葉の見事に散り行くさまを、完全燃焼した人生に喩えている。しかし中には、不完全燃焼のままの人生もあるという。現実に完全燃焼する人生は少なく、むしろ多くは不完全燃焼の燃え殻となって朽ち果てて行くものだろう。その現実を直視しつつ生きてゆく。そんな生きざまへのひそかな共感が見える。

ああそうか君はいないかかなかなかな 楠井収
 この場合の「君」とは最愛の人。おそらくは亡き妻とみておきたい。当然いるはずの人がいないという含意がある。その人を失った現実を知りながら、その事実を認めたくない自分がいる。だから、あらためてその現実を再認識させられて、愕然としているのだろう。かなかなの鳴き声は、音としての儚い感じとともに、晩夏から初秋にかけての季節感が哀愁を添える。「ああそうか」と「かなかな」の語感の響き合いが切ない。

落人の血を継ぐ吾に石榴熟る関田誓炎
 「落人」といえば、平家の落人とみるのが歴史的にも典型的例ではなかろうか。関東では、栃木県日光市の湯西川温泉がその落人の里の一例とされている。作者は秩父の人だから、あるいはその流れを汲む末裔の一人なのかもしれない。石榴は秋半ばに熟して、赤く裂けた実をつける。その姿は秋天に映えてもの哀しい。熟れた果肉の色合いは血のように肉感的で、「血を継ぐ」という表現にいかにも相応しい。

平和とは傍にいること神の旅 高木水志
 兜太師は、その晩年にいたるも、戦争を憎み平和を希求する思いを、おのれの切実な体感として強く意識しておられた。それもごく身近な日常実感として、捉えておられたように思う。作者自身は、兜太師のような戦争体験を持ち合わせてはいないのだろうが、問題意識としては同じ思いを抱いているに違いない。神の旅は、陰暦十月一日に諸国の神々が出雲に集まる日とされている。各地の神々は留守になってしまう日も、平和は傍にいることを願っている。いや、神が留守なればこそ平和が傍にいてほしいのだ。

寒梅や生きるに力死ぬに力 丹羽美智子
 作者は当年九十八歳。兜太先生の享年と同じ年である。おそらくその年ともなれば、死は生の内側に入り込み、逆に生を支えていてくれるものかもしれない。死があってこそ生の力が試される。となれば、「生きるに力」とは、生きる力として「死ぬ力」も試されていると見ているのかもしれない。同じ号に「円居には仏も交じる年の暮」がある。もう作者には、死は生の一部であり、死を超える絆が築かれているに違いない。

定住や時折り鹿のように鳴き 松本勇二
 この句の「定住」には、兜太師のいう〈定住漂泊〉が意識されていると見てよかろう。定住しつつ、漂泊感を屹立させて生きるのである。「時折り鹿のように鳴く」とは、その漂泊感の比喩。作者は昭和三十一年生まれだから兜太師世代の定住感とは大きく異なるが、その漂泊への動因に鹿の鳴き声にも似た生きもの感覚が働くことだけは、間違いなく継承されている。同じ作者の「許されぬマスクもありて鳥渡る」の時事感覚が平衡を保つ。

 この他、「霜の花ことばをそっとしまひけり」(三枝みずほ)、「ぽつんと夕日水禍のあとの泥に柿」(中村晋)、「コスモスの真ん中にいて自由」(横地かをる)にも注目。

◆海原秀句鑑賞 大沢輝一

冬の月真ん中にある迷いかな 奥村久美子
コスモスの真ん中にいて自由 横地かをる
 「真ん中」の修辞が決め手。一句目「冬の月」という少し硬い少し淋しい月感。その真ん中にいるから迷いがある。作者の澄んだ目がここにある。人は迷う迷うから人である。迷いの中に進歩が見えてくるものだ。二句目、先ず破調なのが良い。「自由」さが息遺いている。コスモスの風の中に立つ、それも真ん中に立つと自由を感じる。素敵なメルヘンの時間。その時間が自由ですと作者。私もいつの日にかコスモスの真ん中に立ちたい。

じゃんけんの拳開けば枯野あり 加藤昭子
 じゃんけんの拳はグーで、それを開けばパーでしょう。拳を開いて何を待つのであろう。そんなことどうでもいい。私の拳を開いたら枯野ですと書くいさぎよさ。秋田の地の作者は、裏日本の枯野を見る。次に来る冬感、雪感を言いたかったのではないでしょうか。冬の次には春が来ることをお互い信じましょう。

雪が降る生きていてもいいんですか 小山やす子
 作者の呟き、独白の句。ここをどう読み切るか。読者力が試されている。私には、兜太師亡きあとのさみしいつぶやき、また、放射能汚染事故のフクシマへの鎮魂歌とも読めます。そういう風に読みたい。「雪が降る」の斡旋も憎いくらい上手い。少し甘口なモノローグ。

ときどき蛍ときどき金魚になる姉妹 芹沢愛子
 姉妹の移り気な遊びごころの掲句。蛍を観てはしゃぎ、金魚のような明るい姉妹。健康な初夏の一コマ。それを切り取る詩的な眼力。「ときどき」のリフレーンの使い方、使う術を心得て見事に決まり、映像もぴたり。読者を魅了する。

老獪な獣雪野の俺を視つめけり 十河宣洋
 獣が視つめている、と少しスリリングな句風に魅力。それも老獪な獣という。いつも誰かに監視されているような現代社会。ニュースの度に防犯カメラの映像が飛び出す。いつの間にそんなカメラが設置されたのであろうか。「視つめけり」より現代の不安と不気味が見える。

鶴来ると村は静かな箱となる 中塚紀代子
 村祭も終わると「鶴が来る」晩秋から初冬の季節。村は総出で雪囲いをはじめる。村力。雪囲いの中の家家は、温かく静かな箱の中のようである。能登の地に、“間垣まがき”と言われる習いがある。村中が竹や萱で風の通り道を被う。雪風、海風、砂風を防ぐ。そうして冬に耐える。

茶の花日和母は施設の人となる 中村ひかり
 「茶の花日和」という少し甘口の抒情から入る。すると、どきっとする景が現れる。一家の主婦の内面を鋭く吐露した掲句。どの家の誰しもが肉親を施設に入れることの苦渋、抵抗、日々悩む(と書くと作者の叱責がありそう)。一人の読者の勝手読みです。ある日、母の方から施設に入ってもいいよ、と言われたのでしょう。そう言われた家人の複雑な切ない心情。父母を亡くした私には、少々だが解る。「人となる」のが上手い。

朴落葉たった一人のお弔い 本田ひとみ
秋の時雨なかに弔い置いてくる 松井麻容子
 弔いとは、人の死を哀しみ、くやむことが本意。重いものと思う。掲句は、少し違った方向から弔いを書いている。一句目、一人のそれも「たった一人」のお弔いと強調する作者。朴落葉と中七以下より、乾いた“死”を連想することは容易い。幼児性を思う。その明るい幼児のお弔い、ここからお弔いごっこ感が思われる。例えば、飼っていた金魚の死を悼む子の姿。二句目「弔い置いてくる」とさりげない行為と秋の時雨の少しきらきらしている時間。湿り気のある心中のお弔い。若い女性特有の心の揺らぎ。複雑な心の中が見えるようだ。共通する点は、従来の弔い感を現代風な俳句作品にされたこと。成功。

一枝さんふと蟋蟀の闇にまぎれ 村上友子
 亡くなった小林一枝さんを偲んでの作。小林一枝さんとは、永い間、おつきあいを頂いていた私です。思い出を少々。そうあの日は、殊に荒れた冬の越前海岸。白濤が飛び北風が荒ぶ。波の花があたり一面狂ったように舞う。そんな中、ふいと一枝さんの姿が消えた。今は亡き山本仁太郎と探しに探した。すると「ここよ」と声がする。波止場のテトラポットの影より現れた。その時「このまま、波の花になってしまいたかった」と呟いた一枝さんの横顔が忘れられませんでした―閑話休題―作者は、虫すだく闇の中。蟋蟀がことに大きく鳴く。その闇に一枝さんを見られたのでしょう。お化けでもいい、今一度、一枝さんにお会いしたいと慟哭あふれた掲句です。

本日終電わたしのものである秋思 六本木いつき
 「本日終電」が新鮮かつ大胆。続いて「わたしのものである秋思」と書ける若さの自由さ。奔放さ。今様の作者の世界である。秋思を言葉として使える作者。秋のものを思う移ろいゆく人の心の揺れ感が見事に一句に溶け込んでいる。女子会、それともデート。とにかく若人だ。

◆金子兜太 私の一句

左義長や武器という武器焼いてしまえ 兜太

 私の郷里山梨と金子先生の郷里秩父は山一つ隔てた所にあり、気候も風俗も似ており、少し荒い気質などは懐かしいような恥ずかしいような気分ですぐ馴染みます。カルチャーの後など先生は秩父訛で皆とよく歓談されました。「ほんな危ねえもん武器なんか火にくべて燃やしてしめえ!」と言っている晩年の先生の顔が見えます。句集『日常』(平成21年)より。黒岡洋子

霧過ぎて白露おきてこの碑錆ぶ 兜太

 多賀城碑と題したこの句の先生の書、私の書斎に飾ってある。平成15年の壺の碑俳句大会に出席された先生から頂いた。この日、鳴子温泉に先生と同宿。お風呂で椅子を並べたので「先生背中流しましょうか」と聞いたら「オーッ」と頷かれた。先生の背中は真っ白で豊か。「先生背中白いですね」と言ったら「うん母親譲りだからな、長生きするよ」と言われた。句集未収録作品。中村孝史

◆共鳴20句〈12月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

北上正枝 選
グラジオラス以下同文の人であり 石橋いろり
歴史のもし・・・その鍵は人敗戦忌 伊藤巌
○僧侶兼教師のバイク麦の秋 稲葉千尋
憲法九条ゆがみそうなり無月なり 宇川啓子
日傘持つ足から影の生えて坂 奥山和子
無音とは人影のこと 八月 金子斐子
寝押しする姉の静かな影が動く 河西志帆
星月夜あまた買ひ物して老ける 木下ようこ
炎昼の踏切長い長い電車 篠田悦子
フクシマの浜ハマナスと骨片 清水茉紀
○家蜘蛛は大事左義長さんのやうだし すずき穂波
言い切ってからの深海髪洗う 中内亮玄
がつんと兜太に叱られ目覚む今朝の秋 中村晋
海霧の奧ただカミのみぞゐたりけり 野﨑憲子
花ダチュラもともと雨のかけらでしょ 平田薫
虫の音や薄紙のやう眠り落つ 松岡良子
永遠の不燃ごみ核 原爆忌 三木冬子
○アキアカネの空ふと和紙の手触りです 宮崎斗士
気の抜けた麦酒みたいな句ばつかり 柳生正名
わだつみや添寝に白波立ち八月 若森京子

峠谷清広 選
向日葵のいまだ直立不動の兄 有村王志
墓碑銘は読めず夏蝶舞うばかり 石川義倫
漂着のような一日柘榴裂け 市原光子
簞笥臭い昭和の浴衣歩きだす 大髙宏允
戦前もこの声だった夕蜩 大西恵美子
○六歳のわれ八十となる終戦忌 河田光江
空蝉のなおも何かを脱ごうとす こしのゆみこ
かたつぶり信号渡る大冒険 志田すずめ
「来年も」と言えぬさよなら敬老会 鱸久子
送り火やひとはひとをゆきすぎる風 竹本仰
声にして言えない事情蝉しぐれ 中村ひかり
汗滲みる道はわたしかも知れない 堀真知子
さやさやと癒えてゆく日の糸とんぼ 本田ひとみ
雨の日もひかりはありて秋彼岸 前田典子
朱夏マラソン逃げるみたいに走る人 三浦静佳
○アキアカネの空ふと和紙の手触りです 宮崎斗士
白桃吸ふ唇にかすかな秘密 深山未遊
原爆忌白いご飯とお味噌汁 村松喜代
草虱死者焼くように日記焼き 森鈴
付録のような妻を愛して盂蘭盆会 山口伸

平田薫 選
昼月は普段着のまま梨畑 伊藤淳子
夜は月を眺めてばかり老庭師 鵜飼惠子
はつ秋の空気は鈴を振るごとし 大池美木
子かまきり一心不乱もう一日 大髙洋子
かなかなやポストに新聞入る音 大西恵美子
電球交換キュルキュルと夏の月 尾形ゆきお
明日も在るおもしろおかし照る紅葉 小川佳芳
ポケットにキャラメル覚悟なんてないよ 桂凜火
明日は咲くなでしこの花津波の地 金澤洋子
あめんぼう長い廊下の拭き掃除 上脇すみ子
○六歳のわれ八十となる終戦忌 河田光江
稲に問い花と陽に問い稲肥かな 神田一美
○あきらめたときにレモンが浮いてくる 三枝みずほ
まるで他郷夏河越えただけなのに 篠田悦子
どぶろくよ正調刈干切唄よ 鱸久子
薬差す飲む塗る三度秋暑し 鈴木康之
二重線のやれはすに似た肖像画 董振華
今朝の陽射し波ごと波の上に虹 マブソン青眼
腰伸ばし蚯蚓をめめんたろうと呼び 柳生正名
葦刈小舟うかうかと文字を刈る 若森京子

森田高司 選
蝉が鳴く日がな一日ジャムを煮る 伊地知建一
夕蜩ただ包丁を研ぐ夫 伊藤雅彦
○僧侶兼教師のバイク麦の秋 稲葉千尋
汗みどろなる着ぐるみのがらんどう 鵜飼惠子
フクシマの無言の更地炎天下 宇川啓子
枝豆のゆあがりむすめぴんとこな 大高俊一
満月に浮かぶ兜太の笑顔かな 川嶋安起夫
夜夜の月みみたぶの曖昧な位置 小西瞬夏
○あきらめたときにレモンが浮いてくる 三枝みずほ
傾いた電信柱夏の果て 清水恵子
手術室へ大暑と点滴ひっぱって 新宅美佐子
○家蜘蛛は大事左義長さんのやうだし すずき穂波
被曝土埋めしと立札小さし蝶の丘 高木一惠
実を落とす大樹に天の眼あり 竹内一犀
あるいてるひたすらあるきみる夕焼け 永田和子
銀漢と釣り合うああと泣く幼子 藤野武
椰子の葉より美しきもの椰子の影 マブソン青眼
田水張り空に深入りする一家 武藤鉦二
列をはなれし蟻の貌して氷菓はむ 村上豪
石拾ひ当てなく投げた日焼けの子 柳ヒ文

◆三句鑑賞

僧侶兼教師のバイク麦の秋 稲葉千尋
 筆者と全く同じ境遇にいらっしゃった作者にまず驚いた。私の記憶の中のバイクで来る僧侶は数学の先生だった。多感な少女期に僧侶の剃髪した姿は気味悪い以外の何ものでもなかった。以来数学は大っ嫌いな科目に。戦後数年たった頃の懐かしい田舎風景の一齣で懐かしい中学時代を思い出させてくれた一句。麦の秋が絶妙。

炎昼の踏切長い長い電車 篠田悦子
 この句のひとつ前のまるで他郷夏河越えただけなのにこの二句を連作として深読みしてみたらなんと作者の心象が読める気がして来た。何度も何度も読み返して一見して単純なわかり過ぎるこの句にベテラン作家の巧みな心情が描かれていることに気付いた。そこはかとなく滲み出る哀しみが巧みに描かれている。

海霧の奧ただカミのみぞゐたりけり 野﨑憲子
 海原になって第一回の全国大会は、四国香川で開催された。今年は颱風の当たり年、次から次へとやって来る颱風に、開催地の皆様の気遣いはいかばかりかと……。神様を信じたくなる気持ちがさりげなく詠まれていて伝わってきた。
(鑑賞・北上正枝)

空蝉のなおも何かを脱ごうとす こしのゆみこ
 蝉の抜け殻にそういう見方もあるのかと感心した句。蝉の抜け殻なんて普通の人にはどうでもいい物だが、作者には「なおも何かを脱ごうとす」と見えたのだ。なるほど、そう言われみたら、確かにそう見えると納得してしまう。作者は何でも無いような物にも詩を見つける人なのかもしれない。この才能がうらやましくなる。

送り火やひとはひとをゆきすぎる風 竹本仰
 盂蘭盆の最終日に行われる送り火を見ながら、作者は夜の街を歩いていると思う。死んでしまった懐かしい人達の思い出にふけりながら歩いているのだろう。他の歩いている人達を見ることも無くぼんやりと。「ひとはひとをゆきすぎる風」が良い。ちょっとニヒルで切ない気分だ。演歌の歌詞に使ってみたくなる表現だ。

さやさやと癒えてゆく日の糸とんぼ 本田ひとみ
 「さやさや」というオノマトペが良い。「さやさや」が無かったら、平凡な単なる「心身回復俳句」になっていたと思う。「さやさや」は風の中で木の葉の触れ合う音や小さな糸とんぼの微かな羽音のことだろうが、作者の気分でもあると思う。心身が少しずつゆっくりと癒えてゆく時の気分が「さやさや」で表現されている。
(鑑賞・峠谷清広)

子かまきり一心不乱もう一日 大髙洋子
 蟷螂はどこかさみしそうに思えるのだが、小さいかまきりは剽軽でかわいい。そんな小さいかまきりを飽かず眺めている、命そのものを慈しむかのように。一心不乱は子かまきりであり、見つめ続けている作者でもある。そして、もう一日というのは一日が過ぎたということであり、小さな命への、また一日という祈りでもある。

電球交換キュルキュルと夏の月 尾形ゆきお
 最近はLEDになり電球交換もあまり必要なくなってしまったが、昔はよくこんな経験をしたものだ。確かにキュルキュルだった。だがこのキュルキュルは交換の音ではなく夏の月が上がってくる時の音だ、と言っている。そこがたまらなく面白い。日常のなかの小さなできごとを体全部で楽しんでいる気持ちの弾みが心地よく伝わる。

葦刈小舟うかうかと文字を刈る 若森京子
 「あしかりおぶね」という語がすでに遥かな物語をはらんでいるようだ。〈玉江こぐあしかりを舟さしわけて誰をたれとか我は定めん読人しらず〉という後撰和歌集を思い合わせれば、なおこの句の深さに引き寄せられる。うかうかと文字を刈るのは作者それとも…。遥かなものと我・我等へのやや屈折した思いがひしひしとくる。
(鑑賞・平田薫)

あるいてるひたすらあるきみる夕焼け 永田和子
 人間は、これまでにどれだけの夕焼けを見てきたのだろうか。季節の営みであり、一日の終わりでもある夕焼け。心の中に原始から刻み込まれた歩くという行為は、生きる術であり、夕焼けと出会うことで一日の安堵が約束されてきた。「ひたすらあるきみる」に、太古からの姿と作者の暮らしを貫く意思の姿が見えてくる。

椰子の葉より美しきもの椰子の影 マブソン青眼
 葉より影の方が美しいとは。影は、ゆらめき、語りかけてくるのだろうか。日常の目の前にある事象と対峙することの肝要さを改めて教えられる。作者の周りに存在するもの、見えているものの美しさも、きっと影に凝縮されているのであろう。だから美しいと断言している。作者が身を委ねる場所や日々の空気感の広がりを、見事に浮きあがらせている。

田水張り空に深入りする一家 武藤鉦二
 声が聞こえる。いよいよだという意気込みが、句全体からあふれている。繰り返される米作りの営みに、天候の良し悪しは大きく影響する。何カ月も前から準備し今日を迎えた一家。「空に深入りする」は、この時に立ち合うことへの満足感や意欲、家族それぞれの表情までを、見事に浮かびあがらせている。
(鑑賞・森田高司)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

林檎投げ付ける女ここに四人 有栖川蘭子
抱擁ののち束ねざるコスモスよ 飯塚真弓
三面鏡にむらがる蜻蛉自我決壊 泉陽太郎
冬虹の幽けきに繰るサリンジャー 植朋子
最中を買ひて水羊羹をいただく 上野有紀子
シンプルって逆にしんどいポインセチア 大池桜子
ななかまどゆでたまごまごのまお かさいともこ
坊さんを剃るとき桔梗の香りする 葛城広光
冬残し己が墓石を下見する 木村寛伸
銀河濃し吾が骨壺の土を練る 工藤篁子
衣被夫の機嫌をうっちゃりぬ 黒済泰子
マニキュアの色数ほどの生きづらさ 小林育子
裸木となって大人になりにけり 小林翕
憂国忌生温かき肉団子 小松敦
富有柿両手にくるみ味はひぬ 小松睦美
栗剥いて月に近づく一草庵 重松俊一
菊人形師は入魂の霧を吹く 五月女文子
男待たせて零余子の蔓を引きにけり ダークシー美紀
こころは死ねるコキアの赤昇りつめ たけなか華那
雪女郎そして私は生きてきた 立川真理
紅葉かつ散る野生化していく神の辺に 立川瑠璃
虎落笛三日三晩の身のささくれ 谷川かつゑ
帰り花今日もテレビに世をそしる 野口佐稔
焼林檎ナイフの重さほどの罪 福田博之
洪水の奥羽に加護あれ寒桜 松尾信太郎
桃に雨気うしろに武器のある気配 松本千花
避難所に柿剥く人の正座して 武藤幹
妻の買ひし白き自転車冬立ちぬ 山本まさゆき
抱きて裏切るブエノスアイレス冬竝木 ●田貢(●は土に口)
母の目にぼくはとうめい春の夜 渡邉照香

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