海原オンライン句会では、参加者の要望をもとにして、随時アンケートを行っています。みんなに聞いてみたいテーマがあれば、どんどんご意見・ご要望をお寄せください。
2025年10月「海原オンライン句会」アンケート〈任意回答・順不同〉
Q:俳句が楽しい、と感じるのはどんな時ですか。
○ 俳句をつくる過程と句会が楽しい。
○ 自分でも意図しない内容がぱっと浮かんで俳句になったとき
○ ある句会で自信作が無点だったのに、他の句会で選を得られた時。
○ 人の句を鑑賞している時の自分勝手な想像のふくらみと、自分の句を読者が言い当ててくれた時の感動。それが楽しいと感じます。つまり「俳句」とは、「俳句作品」を通じての作者と読者の心の通い合いではないかと思うのです。
○ 言葉を探して寝かせておいた下書きの句に、ぴったりな言葉を思いついた時
○ ひとの評価など気にせず独りよがりで大いに結構と開き直って以来いつも楽しい。○ 高点句または入賞したとき。
○ 目にしたもの、耳にしたものが(わたしに)語りかけて来た!と感じる時。
○ うまく句がすらすらとできた時。
○ 季節を感じるとき
○ 俳句大会で入選したとき。俳句の月刊誌の投句欄等に自分の句が載ったとき。
○ 句会や吟行、俳句大会。普段ひとりで作る俳句を人と語り合えること。
○ いい句、私なりに満足する句ができたとき。また読み手の心が私なりに理解できた時です。
○ 自分が納得できる句ができた時
○ 今は楽しいと感じることはありません。実感としてこれで到達した、とか、これで成し遂げた、という感情が何処にもないのです。創作という行為を全うするには只創っていればそれで充足する訳ではございません。つまり生きることそのものと相即であらねばならない。そう考えております。ですから自分の場合はスッタニパータ(原始仏教)の中にあるブッタのことば「名称と、形態とを滅する」中村元訳、ここまでことばが造花と一如とならない限りは詩として成就しないと思っております。では名称と形態が消滅した一行詩とはなんでしょうか。それをことばで説明するのは大変難しいのですが、簡単に言えば我執の存在しないところに在る造化の真理、でしょうか。それを成就しようとしますと、もう楽しいことはどこにも無くて、不断にこころを整え、欲望を滅する、そうしていなければ直ぐにこころは瓦解してしまいす。ですからそのことに注力することで精一杯の状態でございます。不尽
○ 気づきがあったときです。
○ 作るときが一番楽しい。頭がぼーっと疲れているときも、数十句作れば不思議にクリアになっている頭。すぐ元には戻るが・・・。
○ 誰かの句集を知らない人の写真アルバムを見るようにしてめくるとき
○ 一読してすっと入ってきて気持ちが揺れ動くような句を読んだ時(作り手としては悔しいくらいに)
○ 句会で選ばなかった句が、他人の選評を聴いているうちにだんだん素敵になっていく時
○ 句づくりに没頭してぼんやりした感じで思いをめぐらし、ふわふわ漂っていることばをふとつかまえることができた時は幸せ。

